4-11
ミレナの素っ気ない一言に、リノアの口がぱくぱくと空回りした。
まだこれでも言い足りない、という顔をしている。しかしミレナはもう興味を失ったかのように手を振り、椅子の背もたれへと深く体を預けた。
「そのバカ、って……ミレナさん、わたしは綾人さんのことではなくて、ヴェインさんのことで」
「分かってるわよ。バカっていうのは、あんたが怒ってるその男のほうのことよ」
ミレナは面倒くさそうに片手を振った。
それから、少しだけ間を置いて、リノアの顔をまじまじと見つめる。
「……それにしても。貴方がそこまで剥き出しになるのは、珍しいわね」
「む、剥き出し、だなんて。わたしはただ――」
「別にいいけれど……」
そう言いながらミレナはアヤトのほうへと視線を向ける。
「ん?」
首を傾げながら、不思議そうにアヤトは自分を指差した。
「俺? ……なんかしましたか?」
「……はぁ。なんでもないわよ」
ミレナは呆れたように目を細めた。
「こういう時だけ鈍いのよね……。こいつ、本当に救いようがないわ」
「なんの話してるんですか?」
「分からないなら、そのままでいなさい。そのほうが……平和なのよ」
「なんで俺、今さらっと馬鹿にされたんですか……? え、リノアちゃんは分かるの?」
アヤトが困惑した表情でリノアのほうへ視線を向けると、リノアはみるみる頬を赤くしていった。
「ち、違いますからね。わたしは別に、その、特別どうこうという意味ではなくてですね。ただ、人として、綾人さんのことをあんなふうに言うのはよくないと思っただけで……」
「はいはい。そういうことにしておいてあげるわ」
「ミ、ミレナさん」
リノアのその反応が余計に分かりやすかったのか、ミレナは薄く笑った。
「まっ、怒れるだけの元気があるなら、少しは安心したわ」
「え……?」
リノアの表情が、そこで少しだけ止まる。ミレナはもう笑っていなかった。
先ほどまで茶化すようだった青い瞳が、すっと冷静な色に戻っている。
「話を戻すわね。そのヴェインという男の話だけれど」
「はい、どうしてだかは分かりませんけれど、あの方と話していると不思議な感覚に陥ったような……そのローゼンフェルトというのは、ミレナさんは何かご存じなのですか?」
「……ローゼンフェルトか」
ミレナは小さく呟き、考え込むように目を伏せた。
「ローゼンフェルト家は、実力と結果を何より重んじる家系よ。たとえ長男であろうと、力も成果も示せなければ容赦なく切り捨てられる。逆に、結果さえ出せば、多少の異常性には目をつぶる。そこに兄も弟もないわ」
「異常性……?」
リノアの声が、小さく震えた。
あの黄金の瞳。人を人としてではなく、美術品か汚れのように見ていた視線。
思い出すだけで、喉の奥に薄い違和感が蘇るようだった。
「私もそこまで詳しくはないから、踏み込んだことは言えないけれど。ルシウス・アルベルト・ローゼンフェルト……という、優秀な長男がいたそうよ。けれどある日、その長男が突然、表舞台から姿を消した」
「姿を、消した……?」
リノアが小さく繰り返す。
ミレナは頷くでもなく、否定するでもなく、ただ淡々と続けた。
「噂ならいくらでもあるわね。病死、事故、家系からの追放。……はっきりしたことは私も知らない。ただ、ローゼンフェルト家は、そういう内側の事情を外に漏らす家ではないから」
「それで、ヴェインという方が?」
「長男が消えた後に、代わるように表へ出てきたのが、弟のヴェイン・アルセリオ・ローゼンフェルトなのは確かね」
アヤトは、口の中がじわりと渇いていくのを感じた。
兄が消えた後に、弟が表舞台へ出てくる。それだけなら貴族の世界では珍しくもない話なのかもしれない。
けれど、あの男の目を思い出すと、その経緯が穏やかなものであったとは、到底思えなかった。
「……まさか、そのヴェインってのが兄を?」
「そこから先は想像でしかないわ」
ミレナは、すぐにアヤトの言葉を遮った。
「噂と事実を混ぜる、と判断を間違えるわよ。ルシウスという兄が消えたこと。代わるように弟のヴェインが表に出てきたこと。私が知っているのは、そこまでよ」
「……はい」
「ただ、その男……水神の瞳のことは聞いてきた?」
「いえ……。そこには触れていませんでした」
「そう……。そのヴェインって男がシレナと繋がっている可能性を考えたけれど、まだ判断はつかないわね」
ミレナは椅子の背もたれに身を預けたまま、天井の一点を見つめていた。指先だけがテーブルの上を忙しなく叩いている。考えを巡らせる時の癖なのだろうか。
「リノア。さっき、不思議な感覚に陥ったと言ったわね。もう少し詳しく聞かせて」
「あ……はい」
リノアは自分の喉元に、無意識に手を添えた。
「あの方がわたしの名前を呼んだ時と、それから……わたしが、あの方の名前――ヴェインという名を口にした時に。喉の奥に何かが引っかかるような感覚がありました。痛みというほどではないのですが、息が詰まるというか……自分の声が、自分のものではないような」
「名前を口にした時、か」
ミレナの指が止まった。
「それは、あの男に名前を聞かれて答えた時? それとも、リノアのほうから名前を呼んだ時?」
「両方、です。……わたしが名乗った後にも少し違和感があって。でも、もっとはっきりしたのは、わたしのほうからあの方の名前を尋ねた後でした」
「聞き返した? リノアのほうから?」
「はい。わたしだけ名乗るのは不公平だと思って……。その場を去ろうとするあの方に、お名前を教えてくださいと」
ミレナは一瞬だけ目を閉じた。
溜息を吐くかと思ったが、出てきたのはもっと静かな声だった。
「……つまり、あの男は自分からは名乗らなかったのよね。貴方が聞いたから、答えた」
「えぇ、そうです」
「そして、名を交わした後に、身体に異変が出たと」
ミレナは呟くように繰り返し、人差し指で自分のこめかみを軽く叩いた。
リノアは一つ思い出したように、「そういえば」と切り出す。
「あの方、指輪をしてました。そこに宝石のような装飾がありまして」
「宝石?」
「はい。金色の石のようなものが、指輪にはめ込まれていました。会話の途中で、何度かそこを撫でるように触れていました」
「金色の石……。宝石、いや魔石ね」
ミレナの声が、低くなった。怒っているというより、思考の底へ沈んでいくような声だった。
何かに思い当たったのか、それとも思い当たりそうで届かないのか。
ミレナの表情は読みにくい。眉間にわずかな皺を刻んだまま、彼女は視線をテーブルの上に落としていた。
「ミレナさん。あの男が、何か魔法を使ったってことですか? その指輪の力かなんかでリノアちゃんに」
「さぁ、分からないわ。……少なくとも、私が知っている範囲の魔法体系には、名前を媒介にして何かを仕掛けるような術式は存在しないわね」
「じゃあ――」
「ただ」
ミレナが遮った。
「存在しないということと、あり得ないということは別よ。私たちが知らないだけかもしれない。ローゼンフェルト家が、ヴェインという男がどんな力を扱うのか、そこまでは把握していないもの」
正直に、自分の知識の限界を認める言い方だった。知ったかぶりをしない。分からないものは分からないと、はっきり言う。
それがこの少女の強さであり、同時にアヤトの中にある焦りをより鋭くさせもした。
分からない、ということは、現時点で対処法も見えないということだ。
「ただ、一つだけ。あの男の前で、自分の名を気軽に出すべきではないわね。それから、あの男の名も口にしないこと。あの男に名前を呼ばれても、できる限り反応しないで」
「反応を、返さない……ですか」
「声に出して答えない。振り向かない。呼ばれたことを認めない。……それに意味があるかは正直分からないけれど、少なくとも今の段階ではそれしかないわ」
ミレナはそこで、ちらりとアヤトを見た。
「特にあんた」
「え、俺ですか?」
「あんた以外に誰がいるのよ。褒められたら浮かれる。甘えられたら喋る。抱きつかれたら石まで渡す。そんなやつが、あの手の男にまともに対応できると思っているの?」
「やだなぁミレナさん。いくらイケメンだからって俺は男に興味ないですよ」
「……そういうことを聞いてるんじゃないのよ、このバカ」
「あだっ!」
ミレナの指先が、アヤトの額を容赦なく弾いた。
乾いた音が、小さな居間に響く。
「そういう意味じゃないのよ、本当どうしようもないバカね」
「い、痛い……」
「え、えぇっと……」
リノアが困ったように視線を泳がせる。止めるべきなのか、今のは彼が悪いのか。判断に迷っている顔だった。
アヤトは額を押さえながら、涙目でミレナを見る。
「いや、だって今の流れだと、まるで俺がヴェインに引っかかるみたいな言い方だったじゃないですか……」
「引っかかるでしょ」
「えぇ、即答!?」




