4-10
沈黙。ミレナは、ゆっくりと目を閉じた。
こめかみに指を当て、深く、とても深く息を吐き出す。
それはもはや、ため息という言葉では足りない。魂の一部を吐き出しているかのような、盛大なため息だった。
「……渡した。渡した、ねぇ」
「はい……」
「はぁ……あんた本当にバカね」
ミレナは、もう一度だけ深く息を吐いた。
怒鳴る気力すら失せた、とでも言いたげな顔だった。
「つまり、あんたは出会ったばかりの女に、私の居場所と状態を喋って、青い石のことを探られて、そのうえ自分が持っていた炎神の瞳らしき赤い石まで渡したわけね」
「……はい」
アヤトは消え入りそうな声で答えた。
「ちなみに、その赤い石と引き換えに何をもらったの?」
「短剣を……」
「タン、ケン……」
ミレナは、そこで一度言葉を切った。
青い瞳が、アヤトの顔からテーブルの上へ、そして何もない空中へと移った。
まるで、赤い石と短剣を天秤にかけ、その釣り合わなさを頭の中で確認しているようだった。
「……炎神の瞳かもしれない石と、使い古しの短剣を交換したのね」
「……はい。俺が丸腰だと危ないからって」
ミレナはしばらく黙った。
そして、冷めきった湯の入ったカップを見下ろしながら、ぽつりと言う。
「あんたねぇ……想像以上のバカだったわ」
「返す言葉もございません……」
「えっと……綾人さんも、その石がそんなに大事なものだとは知らなかったわけですし……」
リノアが控えめに口を挟む。
だが、ミレナはすぐに視線だけを向けた。
「価値を知らなかったことは責めているんじゃないわ」
「え……?」
アヤトは思わず顔を上げる。
ミレナは冷めた声で続けた。
「問題は、価値も分からないものを、出会ったばかりの相手にあっさり渡したことよ。しかも、短剣一本と引き換えに」
「うっ……」
「そ、その……水神の瞳や炎神の瞳というのは一体?」
リノアが、おずおずと尋ねた。
ミレナはテーブルの上に置いた水神の瞳へ視線を落とし、少しだけ眉を寄せる。
「私も詳しいことを全て知っているわけじゃないけれど……。古い力を宿した石よ」
「古い力、ですか?」
「そうね、古代の伝説級魔物――『始原獣』の魂を封じた器。……とかなんとか」
「始原獣?」
アヤトは聞き慣れない言葉を、そのまま繰り返した。
ミレナは水神の瞳から目を離さないまま、短く頷く。
「大昔、この世界にいたとされる伝説級の魔物よ。神だの災厄だの、呼び方はいろいろあるみたいだけれどね」
「それの魂が、この石に……?」
「……と、言われているわね」
ミレナは淡々と答えた。
「水神――『海皇』。炎神――『炎竜王』。それから風神――『天空狼王』。そして雷神――『雷麒麟』。四匹の始原獣。その力の一端を封じたものが、神の瞳と呼ばれているらしいわ」
リノアは思わず息を呑んだ。
アヤトもまた、口をぽかんと開けたまま、テーブルの上の青い石を凝視していた。
「し、始原獣の魂って……。そんなやばいもんが、なんで俺のポケットに……?」
「私が知るわけないでしょ、そんなこと。こっちが聞きたいくらいよ」
ミレナは忌々しげに髪をかき上げた。
「ただ、はっきり言えることが一つあるわ。そのシレナとかいう女が、あんたから赤い石を巻き上げた上で、私の青い石まで探っているということは――」
「両方、集めようとしている……?」
「そういうことね。少なくとも、ただの石集めの趣味で動いている人間の行動じゃないわ」
ミレナは水神の瞳を布で包み直し、ジャケットの内側へと慎重に戻した。
「四つある神の瞳のうち、少なくとも二つの在処に目をつけている。あるいは、その背後にいる連中が」
「背後……」
アヤトの声が、わずかに掠れた。
あの甘い笑顔の裏に、組織的に動いている何かがいる。
そう言われて、ようやく事の重さが、ずしりと腹の底に落ちてきた。
「残りの二つ……風神と雷神の瞳は、どこにあるんですか?」
「私にわかるわけないでしょう。この水神の瞳以外の所在まで把握していたら、あんたの持っていた赤い石の正体にも、もっと早く気づけていたわよ。
「うっ」
「え、えっと……。ではミレナさんは水神の瞳をどこで?」
リノアが、不思議そうに尋ねた。
ミレナの手が、ジャケットの内側――水神の瞳をしまった場所に、無意識のように触れる。
「カワード家に、代々伝わってきたものよ」
短く、ミレナはそう答えた。
「……父上から、私に託された。それだけのことよ」
それ以上は語らない、という空気が言葉の端に滲んでいた。
リノアも察したのだろう。「そうなんですね」と小さく頷き、それ以上は踏み込まなかった。
けれど、アヤトはその一言の中に、ミレナがいつもは見せないものを感じ取っていた。
「父上」。あの傲慢で、誰よりも上に立とうとする彼女の口から出た、その呼び方。敬意と、それから、もう少しだけ柔らかい何かが、ほんのわずかに混じっていた。
(当たり前だけど、ミレナさんにも、家族がいて……。父親から、これを託されたんだ)
水神の瞳をしまった胸元を、無意識に押さえていたミレナの指先。その仕草は、宝物を守るというよりも、誰かとの約束を確かめているように見えた。
「……何を見ているのよ」
「あっ、いえ。何でもないです」
鋭い視線に射抜かれ、アヤトは慌てて目を逸らした。
ミレナは小さく舌打ちすると、話を戻すように居住まいを正す。
「とにかく。水神の瞳は、私がこの手で守る。どこの誰かに渡すつもりもないし、それはこれからも変わらないわ」
その声には、先ほどまでの呆れや苛立ちとは違う、はっきりとした覚悟があった。
家族の名と、受け継いだ宝。それを預かり、守り抜くという意志。
普段の冷たい仮面の下に、そういうものが通っているのだとアヤトが知ったのは、これが初めてだった。
「……だからこそ、余計に腹が立つのよ。あんたの間抜けぶりに」
「はい、ごもっともです……。すみません」
結局そこに帰着する。アヤトは項垂れるしかなかった。
重い沈黙が落ちた。アヤトは小さくなったまま、膝の上で拳を握るしかない。
だが、ミレナはいつまでも感情に浸る性格ではなかった。
「まぁいいわ。炎神の瞳の件と、シレナのことは後で考える。……それより」
ミレナの声のトーンが、すっと切り替わった。
感情を横へ退け、状況を整理する側の頭に戻っている。その目が、リノアへと向けられた。
「貴方も何か言いたげね、リノア」
リノアは、小さく肩を揺らした。
覚悟を決めるように、ひとつ息を吸い込む。
「はい……。実は、買い出しの途中で、もうひとつあったんです」
「もう一つ……?」
ミレナの声に、微かな疲労がにじむ。まだあるのか、と言いたげな声だった。
「白い髪に金色の瞳の男性の方に、声をかけられて。……その方はヴェイン、と名乗っていました。確か、ヴェイン・アルセリオ・ローゼンフェルト……と」
「……ヴェイン」
ミレナはその名を、口の中で確かめるように繰り返した。
だが、反応したのは名前そのものではなかったらしい。わずかに目を細め、続く家名のほうを拾い上げる。
「ローゼンフェルト、ね」
「ご存じなのですか?」
「家名だけなら、聞いたことがあるわ。貴族筋の中でも、面倒な噂が多い家系よ。……少なくとも、朝の市場で気軽に声をかけてくるような相手ではないわね」
リノアの顔が、わずかに強張った。
アヤトも、あの黄金の瞳を思い出す。自分を見ているようで、見ていない目。
リノアだけを品定めするような、不快な視線。
「その男、何かしたの?」
ミレナの声が低くなる。
リノアは喉元に手を添え、少しだけ息を整えた。
「わたしの名前を聞いてきました。それから……綾人さんのことを、染みだと」
「染み?」
「そうなんです! 全く失礼な方です!」
リノアは、珍しく頬をふくらませた。
先ほどまでの怯えを思えば、少し不自然なくらい強い反応だった。
けれどそれは、彼女自身が怖かったからではない。アヤトを染みなどと呼ばれたことが、今になっても腹に据えかねているのだろう。
「え……リノア? なに、怒ってるの?」
ミレナが、わずかに目を瞬かせた。
今まで見てきた限り、この少女は誰かに対して声を荒らげるような性格ではなかった。献身的で、遠慮がちで、気を遣いすぎるほどに気を遣う。
その彼女が、ふくれっ面で「失礼な方です」と言い切っている。
「……ふぅん。随分と、ご立腹じゃないの」
「え?」
リノアが戸惑うより早く、ミレナの細い指先が、ぷくりと膨らんだ頬へ伸びる。
つん、と。
「うぷっ……」
間の抜けた声が、リノアの口から漏れた。
自分でもそんな声が出るとは思っていなかったのか、リノアは目を丸くする。膨らんでいた頬から空気が抜け、さっきまでの怒った顔が一瞬で崩れた。
「ミ、ミレナさんっ。何をするんですか……⁉︎」
「いや、あまりにも分かりやすく膨れていたものだから。つい」
「つい、で人の頬を突かないでください……」
リノアは両手で頬を押さえた。
けれど、それでもまだ納得できないものは残っているらしい。頬を赤くしたまま、今度は少しだけむっとした顔で唇を尖らせる。
「だ、だって。綾人さんのことを、染みだとか、目に入らないだとか、醜いだとか……。あんなひどいこと、平気で言う人は」
「あー、はいはい。そのバカのことはいいから」




