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4-9

   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇



 リノアの家の扉を開けると、薬草と木の匂いが鼻先を撫でた。

 見慣れ始めた小さな玄関。靴を脱ぎ、両手いっぱいの買い出し袋を抱えたまま居間へ入ると、ミレナは座ったまま舟を漕いでいた。

  テーブルに片肘をつき、手のひらで頬を支えたまま、こくり、こくりと首が揺れている。出かける前に淹れたらしい湯は、もうすっかり冷めきっていた。


 扉の閉まる音で、青い瞳が薄く開く。


「……ん。帰ったの。ずいぶん時間がかかったようね」

「あ、すみません。起こしちゃいました?」

「うるさいわね、寝てないわよ。ちょっとだけ目を閉じていただけよ」


 寝ていた。……確実に「寝ていましたよね」と、突っ込みたい衝動をぐっと飲み込み、アヤトは買い出し袋を床に置く。

 リノアが後ろから入ってきて、袋を受け取りながら台所のほうへと回っていく。

 

 アヤトはその場に取り残された。



(話さなきゃ……シレナちゃんのこと、それからヴェインという男のことも)



 市場からの帰り道で、そう決めたはずだ。

 なのに、いざミレナの目の前に立つと、喉の奥が乾いて張り付く。


「あ……あっ、えと……その」



 台所で包みをほどいていたリノアが、ふと手を止めてこちらを見た。

 橙色の瞳が、静かに頷くように細められる。


 声は出していないが、彼女が何を言いたいかは伝わった。アヤトはリノアの目を見て一度頷き、改めてミレナを見据える。



「……ミレナさん、いいですか?」


 アヤトは、ミレナの前に腰を下ろした。

 いつもなら逃げ腰になるところを、今日は、逃げなかった。


「作戦会議は終わったってところかしら?」

「え?」


「そのために二人で出ていったんでしょ?」


 ミレナは冷めきった湯の入ったカップを指先で軽く押しやりながら、面倒くさそうに言った。

 アヤトは思わず言葉に詰まる。



「えっと、それは……」

「違うの?」


「いや、違わなくはないというか……」

「はっきりしないわね、まぁいいけど」


 ミレナは足を組み替え、背もたれに体重を預けた。



「あんたたちが出ていった後、少し考えていたのよ。私を襲った件。あんなに正確に寝込みを狙えるのは、私の居場所と状態を事前に知っていた奴がいたからよね」


 アヤトの心臓が、ドクンと大きく打った。



「そんで、それを知り得るのは治療院の関係者か、あるいは――あんたたちから情報を引き出した誰か。間違っているかしら?」

「ッ……」



 言葉が、喉に詰まった。

 まさか自分が打ち明ける前に、ミレナのほうから核心を突いてくるとは思わなかった。いつもながら、この人の勘の鋭さには背筋が凍る。



「だから、聞いてあげるって言っているのよ。何が起きたのか。……あんたが、誰に、何を喋ったのか」



 青い瞳が、静かにこちらを見据えている。

 怒りではない。まだ、判断を保留しているだけだ。ただ、その目は確実に「嘘をつけばすぐ分かる」と言っていた。



「……その、俺の。俺の、せい……だと思います」


 声が掠れる。膝の上で握った拳に、知らず知らず力がこもっていた。



「俺、昨日ミレナさんの病室に来る途中で女の子に会ったんです。シレナちゃんっていう子なんですけれど」


 ミレナの眉が、わずかに動いた。


「女の子? ……シレナ」


 ミレナはその名を小さく繰り返した。

 そこに心当たりがあるような響きはなかった。ただ、初めて聞いた名前を頭の中に留めるような、静かな声だった。



「はい……。俺より多分少し年下ぐらいで、人懐っこい感じで、まぁなんていうか甘え上手な……」

「はーん、その『シレナちゃん』って女に骨抜きにされたってところかしら?」

「うっ……」



 否定したかったが、できなかった。

 人懐っこい笑顔。甘えるような声。こちらを信頼しているかのように見上げてくる瞳。

 思い返せば返すほど、自分がどれだけ分かりやすく浮かれていたのかが、嫌になるほど分かってしまう。


「否定はしないのね」

「まぁ、その……」


「ミ、ミレナさん。綾人さんも決して、悪気があったわけでは……」

「悪気がないから厄介なのよ」



 ミレナの一言に、リノアは言葉を詰まらせた。

 アヤトは膝の上で拳を握ったまま、視線を落とした。リノアに庇ってもらえるのはありがたい。

 けれど、今の自分には、その言葉を素直に受け取る資格がないような気がした。



「悪意があって喋ったなら、まだ対処のしようがあるわ。このバカ(アヤト)を縛るなり、なんなりすればいいだけだから」

「し、縛るって……」


「でも、善意で喋る馬鹿は厄介よ。自分が危ないことをしている自覚がないもの。そうでしょ?」

「……はい、仰る通りです」



 否定できなかった。

 ミレナは冷めた湯の入ったカップを指先で押しやり、アヤトへ視線を戻す。


「で、そのシレナって女と何話したのよ」

「……ミレナさんが寝込んでること話して。そしたら、自分もお見舞いの品持っていきたいから、病室はどこなのか聞かれて……」


「全部、教えたと」

「……はい」


 喉の奥が、ぎゅっと締めつけられた。

 全部。その言葉は、あまりにも正しい。



 沈黙が、数秒。

 ミレナはテーブルの上で指を組み、アヤトを見下ろしたまま動かない。

 怒鳴られるほうが、まだ楽だった。この静寂のほうが、よほど心臓に悪い。


「……他には?」

「え……」

「まだあるんでしょう? あんたの顔に書いてあるのよ」


 アヤトは、唇を噛んだ。

 ここまで来て、中途半端に隠しても意味がない。それは自分がいちばん分かっている。



「……ミレナさんが、青い石のようなものを持っていたかと聞かれました。正直そこは知らないので、分からないとは言ったんですけれど」

「青い、石……ねぇ」


 ミレナの声のトーンが、わずかに変わった。

 先ほどまでの呆れ半分の冷たさではない。もっと、芯のほうに触れたような声。


 ミレナは、インナージャケットの内側へと手を入れる。


「これのことよ」



 そう言って、彼女は小さな布包みを取り出し、テーブルの上へ置いた。白い布をほどくと、中から青い石が現れる。

 透き通った水を閉じ込めたような、深く澄んだ青。丸みを帯びたその石は、宝石というより、どこか瞳のようにも見えた。


「……綺麗」


 台所にいたリノアも思わず身を乗り出し、小さくつぶやいた。


「水神の瞳」


 ミレナは短く言った。


「詳しい説明は、今はしないわ。ただの石ではない。それだけ分かっていればいい」



 アヤトは、テーブルの上の青い石から目を離せなかった。

 石の奥で、淡い光が揺れている。水底に差し込む陽光のような、静かな輝きだった。


「……こんなに光っていたかしら」


 ミレナは水神の瞳を指先で持ち上げ、まじまじと見つめた。

 青い光が、彼女の白い指先を透かすように滲む。


「……バカポーター。何よ」



 ミレナの声で、アヤトははっとした。

 気づけば、息をするのも忘れるほど、その青い石を見つめていた。


「あ、いや……その」

「言いたいことがあるなら言いなさい。気持ち悪い顔で黙って見られるほうが不快だわ」

「不快って……」


 そう返しながらも、アヤトの視線は水神の瞳から離れなかった。


 色は違う。目の前にあるのは、深く澄んだ青。

 けれど、その内側から淡く光を宿しているような質感に、見覚えがあった。

 この世界に来たときに、ポケットに何故か入っていた、おもちゃのような赤い石のことだ。



「あ、いや……。俺この世界で目が覚めたとき、ポケットの中に、そういう赤い石が入ってて」

「赤い石……。それまさか炎神の瞳じゃないでしょうね」


「エンジンノ……ヒトミ?」



 アヤトは思わず聞き返した。ミレナの眉間に、深い皺が寄る。

 リノアも驚いたようにアヤトを見る。


「綾人さんもそのような石をお持ちだったのですか?」

「えっと……一応」


「一応ってなによ? あんたそれ今持ってんの?」

「……ない、です」

「はぁ!?」



 ミレナの声が、部屋の空気を凍らせた。

 テーブルに置かれた水神の瞳が、びくっと跳ねたように見えたのは、自分の気のせいだろうか。



「ないって……あんた、『炎神の瞳』かもしれない石を、どこにやったのよ」

「えっと、その……」


 アヤトは視線をあちこちに泳がせた。天井、床、窓。どこを見てもミレナの圧から逃げ場はない。

 観念して、蚊の鳴くような声で白状する。



「森で目が覚めたとき、シレナちゃんがいて。で、二人で話してるうちに赤い石が見つかって……。綺麗な石だからほしいと言われて……その」

「その?」


 ミレナの声が、氷のように冷たくなる。


 アヤトは膝の上で、再び拳を握りしめた。

 言いたくない。言えば、自分がどれほど間抜けだったのかを、またひとつ目の前に晒すことになる。

 けれども、もうここまで来て誤魔化しはきかないのは嫌でも理解できた。


「……シレナちゃんに、渡しちゃいました」


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