4-8
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四天衆の会議の場を飛び出したあとも、シレナはそのまま自由になれたわけではなかった。
廊下の先には、すでに見張りが待ち構えていた。
胸元の魔石に手を伸ばせば、蹴散らすことなど造作もない。
少なくとも、あの場にいた見張り程度なら、数えるまでもないだろう。
だが、シレナはあえてそうしなかった。
ここで雑魚を相手に暴れたところで、何ひとつ面白くないと思ったからだ。
「謹慎? はっ、好きにすれば?」
そう吐き捨てて、シレナはその場では大人しく塔へ向かった。
どうせ、閉じ込められたところで抜け出せる。扉に鍵をかけた程度で自分を止めたつもりなら、ミラも見張りも、とんだ間抜けだ。
従ったわけではない。あくまで従ったふりをしてやっただけだ、と。
そして今、アステリアの外れにそびえる古びた塔の一室で、シレナは爪を噛んでいた。
窓もろくにない、石壁に囲まれた狭い部屋。謹慎、などという生ぬるい名目で押し込められた、要するに座敷牢のようなものだ。
日に二度、扉の隙間から無言で食事が差し入れられる以外、誰も寄り付かない。
ミラの差し金だろう。あの女のことだ、見張りの一人や二人、扉の向こうに立たせているに違いなかった。
「……ふざけんなよ! どいつもこいつも。あたしの邪魔ばっかしやがって!」
噛みちぎった爪を、ぺっと床に吐き捨てる。
ぐつぐつと腹の底で煮え立つものが、もう抑えきれそうになかった。謹慎だの、反逆だの。あの規格外のバカどもをのうのうと生かしておいて、罰を受けるのはこっちだけ。
(そんなの、知ったことかっつーの)
寝台から音もなく下りると、シレナは胸元へと手を滑らせた。
黒いリボンの結び目に、さりげなく添えられた、小さな紫の飾り石。一見ただの装飾にしか見えないそれこそが、彼女の力の源。
指先が触れた瞬間、待ちかねていたように、その石は妖しい光を帯び始める。
扉を破れば、即座に見張りが押しかけてくるだろう。
なら――見張りが来る前に、壁のほうから、出ていけばいい。
シレナは唇の端を吊り上げた。
「こんな石ころだらけの部屋に閉じ込めて、あたしを本気で止めたつもりかよ。ほんと、舐めてくれるじゃん」
紫の飾り石が、淡く瞬く。
「ねぇ。あたしのために、ちょーっとだけ働いてよ」
石壁へと、ゆっくり手のひらをかざす。
魔石から溢れ出した紫の魔力が、糸を引くように指先へ集まり、冷たい石組みの一点へと吸い込まれていった。
ただの石であるはずの壁が、内側に骨でも埋まっているかのように軋み、ひび割れた隙間から黒紫の光が漏れ出す。
石材の輪郭が、わずかに歪む。
積み上げられた石がずるりとずれ、互いに噛み合い、絡み合い、やがて巨大な顎のような形を作り始める。
無機質な壁だったものが、ほんの一瞬だけ、意思を持つ魔物のように蠢いた。
「いい子だから、そこを噛み砕きなよ」
シレナが指を弾く。
次の瞬間、壁だったものが、自ら腹を裂くように内側から崩れた。
轟音。
石片が床を跳ね、白い粉塵が部屋いっぱいに舞い上がる。普通に壊したなら塔中に響くほどの音だった。だが、シレナは同時に崩れた石材の一部を操り、床へ落ちる衝撃を殺していた。
それでも、完全には隠しきれない。
扉の向こうで、誰かが息を呑む気配がした。
「なんの音だ!?」
見張りの声。
「ッチ、気づくのはやすぎだろ」
壁に空いた穴の向こうから、冷たい外気が流れ込んでくる。人ひとりが身を屈めれば、どうにか通れるだけの隙間だった。
魔物化した石材は、もう限界だった。ぎちぎちと蠢いていた壁が、ただの瓦礫へ戻り始めている。
この力は、そう長くは続かない。
無機物に仮初めの命を与え、魔物じみた形へ歪めることはできる。だが、それはほんの短い間だけだ。長引けば制御は崩れ、ただの石に戻る。
「開けろ! シレナ、何をした!?」
扉の向こうで鍵が乱暴に鳴る。
シレナは振り返り、にたりと笑った。
「ばーか! 開けるのが遅いんだよ間抜け」
シレナは崩れた壁の穴へと身を寄せた。
背後で扉が開かれる音がした。
部屋の内部は、白い粉塵で満たされていた。遅れて扉を蹴破るように開けた見張りたちは、思わず咳き込みながら腕で顔を庇う。
「シレナ・エルシア・ノワール!!」
「どこだ、姿が見えないぞ!?」
「逃げられると思うな!」
怒号が飛ぶ。
その声を背中で聞きながら、シレナは壁に空いた穴へ片足をかけた。
外から流れ込む冷たい空気が、頬を撫でる。急げば抜けられる。迷っている暇はない。
だが、そのまま逃げるほど、シレナは甘くなかった。
「……あぁ、そうだ。バカ共にお土産くれてやるよ」
彼女はふと振り返り、粉塵の中で目を細めた。
床に散らばる瓦礫。
さきほど壁だったもの。自分の力で仮初めの命を与え、今はただの石へ戻りかけている残骸。
シレナは胸元の魔石に指を添え、唇の端を吊り上げた。
「最後にもう一仕事してもらおうか」
紫の魔力が、指先から床へ滴るように落ちた。
それは蜘蛛の糸のように瓦礫の間を走り、割れた石片のひとつひとつへ染み込んでいく。
直後、床の瓦礫がびくりと跳ねた。
「なにっ!?」
見張りの一人が息を呑む。
石片がぎちぎちと音を立てて組み上がっていく。割れた石の端が牙のように尖り、砕けた壁材が短い脚めいた突起を生やす。
ほんの一瞬で、床の上に小さな石の獣たちが生まれた。
それは魔物と呼ぶには歪で、命と呼ぶにはあまりにも乱暴なものだった。それでも、足止めには十分だった。
歪な石の獣たちが、ギチギチと軋む音を立てて一斉に這い出す。
短い脚で床を掻き、牙めいた石の端を打ち鳴らしながら、見張りたちの足元へと殺到した。
「うわっ!? なんだこいつら、石が!」
「振り払え! ただの石くれだ、蹴り砕けばいい――ぐっ!?」
剣を振り下ろした見張りの一人が、石の獣をぱきりと砕く。
砕けたそばから別の石片が脚に絡みつき、ずるりと体勢を崩させる。命がないぶん、痛みも恐怖も知らない。倒しても倒しても、ただ無心に獲物へまとわりついてくる。
その様を、シレナは穴の縁から肩越しに眺め、心底愉快そうに喉を鳴らした。
「ッフ、一緒に踊ってなよ!」
ひらり、と。
崩れた壁の穴へ、身を躍らせる。
冷たい朝の外気が、頬を撫でた。背後で響く怒号も、石の獣を蹴散らす音も、もはや彼女を捉えてはいない。
「ま、五分も保ちゃしないけどね。……それだけありゃ、十分。さぁて、さっさと」
「――どこへ行く?」
低い声が、薄明の空気を裂いた。
思わず心臓が、跳ねる。
「ッ!? ガレン……」
シレナの身体が、空中で強張った。
塔の外壁から身を躍らせた、その先。崩れた石壁の縁から少し下がった屋根の上に、一人の男が立っていた。
白と黒を基調にした、飾り気のない服装。風に揺れる外套の裾も、無駄に目立つ装飾もない。
だが、その地味な出で立ちの中で、腰元のバックルに嵌め込まれた紺色の魔石だけが、鈍く光を帯びていた。
灰色の瞳が、逃げ出そうとするシレナを静かに見上げている。
責めるでもなく、驚くでもない。まるで、彼女がそこから出てくることなど、最初から分かっていたかのように。
「邪魔すんな!」
シレナは空中で体勢を捻り、外壁の突起を蹴った。
そのまま屋根の端へ降り立つ。瓦が鋭く鳴ったが、彼女はすぐに姿勢を立て直した。
背後では、部屋の中から見張りたちの怒号が聞こえている。石の獣たちが砕かれる音も混じっていた。
一刻の猶予もない。
「――邪魔立てする気はない。忠告をしに来ただけだ」
屋根の端で身構えたまま、シレナはじろりとガレンを睨み上げる。
逃げの体勢は崩さない。
灰色の瞳に殺気のひとつも見当たらないことを確かめ、ほんの少しだけ、爪先の力を緩めた。
「忠告ぅ、はぁ!? あんた何様のつもり」
「謹慎を破れば、反逆と見なす。ミラはそう言った。……始末する、とも」
「知ってるっつーの。だから止めに来たんだろうがよ」
「違う」
シレナは苛立たしげに眉を吊り上げた。
「何が言いたいわけ? てめぇ、寝ぼけてんの?」
「寝ては、いない……」
「そういうことは聞いてねぇし」
シレナは舌打ちし、背後を一瞥した。
塔の中では、まだ見張りたちの怒号が飛び交っている。石の獣たちも、そう長くは保たない。
あと数分もすれば、連中はこの穴から外へ出てくるか、下から回り込んでくるだろう。
こんなところで話し込んでいる暇などない。
「どきなよ! 邪魔すんならあんたも殺す」
「邪魔をする気はない、と言ったが。ミラはお前がどういう経緯で逃げ出すかなど理解しているだろう。それでもお前から魔石を取り上げていない。何故だかわかるか?」
「知るかよ。あの女の考えることなんか、あたしが知るわけないでしょ」
シレナは吐き捨てるように言った。
だが、その声にはほんのわずかな揺らぎが混じっていた。
魔石を取り上げられなかったこと。それは、確かに引っかかっていた。
「取り上げる必要がないと判断されたからだ」
「……うぜぇ!」
嚙みつくように叫んだ。
シレナは認めたくなかった。
ミラに読まれていたなど。自分が逃げ出すことまで、最初から織り込み済みだったなど。
「っは! あたしをみすみす逃がしたこと、せいぜい後悔させてやるよ!
吐き捨てるように言って、シレナは屋根を蹴った。
瓦が鋭く鳴る。朝の冷たい空気を裂くように、彼女の身体が屋根伝いに跳ねていく。
背後では、見張りたちの怒号がなおも響いていたが、シレナは一度も振り返らない。
白み始めた空の下、黒いリボンがひらりと揺れたかと思うと、その姿は屋根の連なりの向こうへ消えていった。
追えないわけではなかった。ただ、追う理由がなかっただけだ。
ガレンは灰色の瞳で、その背中を静かに見送っていた。




