4-7
ぽつりと、男が呟く。
そこには、もう陶酔の色はなかった。
「キミほどの美しい女性が、そのような男に執着するとは。……理解に苦しむよ。実に、嘆かわしい」
細い指先が、苛立たしげに指輪を撫でる。
まるで、完璧であるはずの一枚の絵に、たった一点、拭いきれない染みを見つけてしまったかのように。
「美しいものの隣には、ボクのような美しいものだけがあるべきなんだ。それが、世界のあるべき秩序というものだろう?」
「何が……言いたいのですか?」
リノアの声が、わずかに硬くなる。
男はその問いに、薄く微笑んだ。
「決まっているだろう……その汚らわしい染みを、隣から取り除けばいい。そうすれば、キミという絵は、本来あるべき完璧な、美しい姿を取り戻す」
「染み……?」
「彼のことだよ」
あっさりと、この男は言ってのけた。机の上の塵を指で払うほどの気軽さで。
「キミほどのものが、なぜそんな価値のないものに縛られているんだい? このボクが手を貸してあげようというんだ。……感謝してくれてもいいんだよ、リノア?」
「――お断りします!」
即答だった。
リノアの声が、震えながらも、はっきりと路地に響く。
「綾人さんは、染みなんかじゃありません。価値があるとかないとか、あなたに決められることでもありませんから」
「へぇ。理屈ではないと?」
「そうです。……理屈なんかじゃ、ありません」
リノアは一歩も退かなかった。
背後で立ち尽くすアヤトを庇うように、その細い身体を、男との間に挟み込んだまま。
男は、しばし無言で彼女を見つめた。それから、ひどく心外そうに、わざとらしく嘆息する。
「……可哀想に。実に、嘆かわしいことだねぇ」
男は、指先の指輪を、苛立たしげにもう一度撫でた。
「美しい器に、よりにもよって、こんな濁った水を満たしてしまうとは。……まぁいいさ。今日のところは、ここまでにしておこうか。無理に手折って、ヒビでも入れてしまっては元も子もないからねぇ」
くるりと踵を返し、外套をひらりと翻す。
「あ、あの!」
「まだ何か言いたいことでもあるのかい?」
男は振り返らずに言った。
その声は穏やかだった。けれど、先ほどまでリノアへ向けていた甘ったるい陶酔は、もうほとんど残っていない。
リノアは唇を引き結び、震える息を押し殺した。
「わたしは、ちゃんと名乗りました。あなたには……まだ、お名前教えていただいていません」
「ふむ、確かに。それもそうだねぇ」
男は小さく笑った。
「美しい女性から問われたのなら、答えないのも無粋、というものだねぇ」
外套の裾を揺らし、男はようやく半身だけ振り返る。
朝の光を受けた黄金の瞳が、細く、冷たく光った。
「――ヴェイン・アルセリオ・ローゼンフェルト」
男は片手を胸に添え、舞台の上で観客へ礼をする役者のように、優雅に頭を下げた。
「ボクはヴェイン。それだけ覚えていればいい」
「ヴェイン……」
もう一度、確かめるように、リノアがその名を口の中で繰り返す。
「そう、ヴェインだ。キミのような美しい女性にその名を呼んでもらえて光栄だ」
ヴェインは、満足げに目を細めた。
その瞬間、リノアの喉の奥に、ぞわりとした違和感が走る。
ただ名前を呼んだだけのはずだった。
それなのに、舌の上に残ったその響きが、いつまでも消えない。
「……っ」
「どうしたんだい、リノア?」
「き、気安く呼ばないでください」
「気安く、ねぇ」
ヴェインは、いっそ嬉しそうに目を細めた。
「おや。気づいたのかい?」
「な、何を……」
喉が、おかしい。声を出そうとするたび、奥のほうで、見えない糸が、つん、と引かれる。
たった一度、名を呼んだだけ。それなのに、その響きは舌の上から消えず、まるで自分の内側に、勝手に居座ってしまったかのようだった。
「リノアちゃん……?」
背後から聞こえたアヤトの声に、リノアははっと息を吸った。
喉の奥に引っかかっていた細い糸のような感覚が、ほんの少しだけ緩む。
「だ、大丈夫です。すみません」
「大丈夫、ねぇ」
ヴェインは楽しげに目を細めた。
「そう言いながら、ずいぶんと苦しそうじゃないか」
「何を、したのですか?」
男は答えない。
ただ、細い指先で指輪を撫でた。金色の魔石が、朝の光を受けて、ほんの一瞬だけ鈍く瞬く。
「何を、か。ボクがキミの名前を、そしてキミがボクの名を口にしただけのことじゃないか」
それきり、ヴェインは何も語らなかった。
問い詰めようとするリノアの視線を、のらりくらりとかわすように、ただ薄く笑っているだけ。
「まぁ、いいさ。……また会おう、リノア」
「……っ」
思わず喉元を押さえる。
ヴェインはその反応を見届けると、満足したように目を細めた。
まるで、見るべきものはもう見た、とでも言いたげな足取りで、男は朝の人混みのほうへと歩き出す。
「お、おい、待てよ……」
アヤトがとっさに呼び止めようとしたが、ヴェインはその呼びかけに振り返ることさえしなかった。
外套の裾が、朝の通りを行き交う人々の間でひらりと揺れる。
白銀の髪が一度だけ朝日を弾いたかと思うと、その姿はあっけないほど自然に人混みの中へ紛れていった。
まるで、最初からそこに異物などなかったかのように。
「……消えた」
アヤトが呆然と呟く。追いかけようと思えば、追いかけられたのかもしれない。
けれど、足が動かなかった。恐怖のせいだけでなければ、怒りのせいだけでもない。
リノアが、まだ喉元を押さえたまま小さく震えていたからだ。
「リノアちゃん」
アヤトは慌てて彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? どこか痛い?」
「……平気です。痛いわけでは、ありませんから」
リノアはゆっくりと首を振った。
ただ、額には、うっすらと汗。呼吸も、まだ浅く乱れていた。
「リノアちゃん、無理しないで。少し、座ったほうが……」
「いえ……大丈夫です。少しだけ、息が乱れただけですから」
そう言いながらも、リノアは胸元に手を当て、小さく息を吸った。
自分の呼吸の音を確かめるように、ゆっくりと繰り返す。さっきまで喉の奥に絡みついていたような嫌な感覚も、少しずつ薄れていった。
痛みもなく、声も出る。身体が動かないわけでもない。
ただ、あの男の視線と声が、まだ耳の奥に残っているだけだ。
「……すみません。もう、大丈夫です」
「……ごめん。俺が、情けないばかりに」
「違います」
リノアは、すぐに首を振った。
まだ呼吸は完全には整っていない。額には薄く汗が滲んでいて、声にも少しだけ震えが残っている。
それでも、その否定だけははっきりしていた。
「今のは、綾人さんのせいではありません」
「でも、俺がもっとしっかりしていれば。リノアちゃんを前に出させたりしなかったし……」
アヤトは言葉を詰まらせる。
リノアは胸元に添えていた手を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
さっきまで喉の奥に残っていた嫌な感覚は、まだ完全には消えていない。けれど、少なくとももう、自分の呼吸を見失うほどではなかった。
「綾人さんが、謝ることなんて、何もありませんよ」
「いや、あるって。……だって俺、結局、後ろで突っ立ってただけだろ。リノアちゃんが体を張って庇ってくれてんのに、ほんと、なんもできなくて」
アヤトは、ばつが悪そうに視線を逸らした。
あの男の前で、足はすくみ、喉はからからに渇いて。庇われている自分が、ただただ、情けなかった。
いつものことだ。みなもの前でも、ミレナの前でも。いつだって自分は、誰かの後ろで縮こまっている。
「綾人さんは、ちゃんと前に出てくれました。震えながらでも、わたしを庇おうとしてくれました。だから、何もできなかったなんて、言わないでください」
「……でも」
「でも、ではありません」
リノアは静かに言った。
強い口調ではなかった。けれど、その声には不思議と逆らえない響きがあった。
「わたしは見ていました。綾人さんが怖がっていたことも、苦しそうだったことも。……それでも、わたしを守ろうとしてくれたことも、ちゃんと見ていましたから」
「リノアちゃん……」
アヤトは、返す言葉を見つけられなかった。
胸の奥が、まだ重い。シレナに病室の場所を話してしまったこと。ヴェインの前で足がすくんでしまったこと。リノアに庇われたこと。
どれも消えたわけではない。けれど、リノアの言葉は、その重さの中に小さな隙間を作ってくれた。
「……ごめん。あと、ありがとう」
アヤトは、かすれた声でそう言った。
リノアは小さく頷いた。
「はい。……とにかく。買い出しを早めに済ませて、ミレナさんにこのことも伝えましょう」




