表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/53

4-7

 ぽつりと、男が呟く。

 そこには、もう陶酔の色はなかった。


「キミほどの美しい女性が、そのような男に執着するとは。……理解に苦しむよ。実に、嘆かわしい」


 細い指先が、苛立たしげに指輪を撫でる。

 まるで、完璧であるはずの一枚の絵に、たった一点、拭いきれない染みを見つけてしまったかのように。



「美しいものの隣には、ボクのような美しいものだけがあるべきなんだ。それが、世界のあるべき秩序というものだろう?」

「何が……言いたいのですか?」


 リノアの声が、わずかに硬くなる。

 男はその問いに、薄く微笑んだ。



「決まっているだろう……その汚らわしい染みを、隣から取り除けばいい。そうすれば、キミという絵は、本来あるべき完璧な、美しい姿を取り戻す」


「染み……?」

「彼のことだよ」



 あっさりと、この男は言ってのけた。机の上の塵を指で払うほどの気軽さで。


「キミほどのものが、なぜそんな価値のないものに縛られているんだい? このボクが手を貸してあげようというんだ。……感謝してくれてもいいんだよ、リノア?」

「――お断りします!」


 即答だった。

 リノアの声が、震えながらも、はっきりと路地に響く。



「綾人さんは、染みなんかじゃありません。価値があるとかないとか、あなたに決められることでもありませんから」


「へぇ。理屈ではないと?」

「そうです。……理屈なんかじゃ、ありません」



 リノアは一歩も退かなかった。

 背後で立ち尽くすアヤトを庇うように、その細い身体を、男との間に挟み込んだまま。


 男は、しばし無言で彼女を見つめた。それから、ひどく心外そうに、わざとらしく嘆息する。



「……可哀想に。実に、嘆かわしいことだねぇ」


 男は、指先の指輪を、苛立たしげにもう一度撫でた。



「美しい器に、よりにもよって、こんな濁った水を満たしてしまうとは。……まぁいいさ。今日のところは、ここまでにしておこうか。無理に手折って、ヒビでも入れてしまっては元も子もないからねぇ」


 くるりと踵を返し、外套をひらりと翻す。


「あ、あの!」

「まだ何か言いたいことでもあるのかい?」



 男は振り返らずに言った。

 その声は穏やかだった。けれど、先ほどまでリノアへ向けていた甘ったるい陶酔は、もうほとんど残っていない。


 リノアは唇を引き結び、震える息を押し殺した。


「わたしは、ちゃんと名乗りました。あなたには……まだ、お名前教えていただいていません」

「ふむ、確かに。それもそうだねぇ」


 男は小さく笑った。


「美しい女性から問われたのなら、答えないのも無粋、というものだねぇ」


 外套の裾を揺らし、男はようやく半身だけ振り返る。

 朝の光を受けた黄金の瞳が、細く、冷たく光った。



「――ヴェイン・アルセリオ・ローゼンフェルト」


 男は片手を胸に添え、舞台の上で観客へ礼をする役者のように、優雅に頭を下げた。


「ボクはヴェイン。それだけ覚えていればいい」

「ヴェイン……」


 もう一度、確かめるように、リノアがその名を口の中で繰り返す。


「そう、ヴェインだ。キミのような美しい女性にその名を呼んでもらえて光栄だ」



 ヴェインは、満足げに目を細めた。


 その瞬間、リノアの喉の奥に、ぞわりとした違和感が走る。

 ただ名前を呼んだだけのはずだった。


 それなのに、舌の上に残ったその響きが、いつまでも消えない。


「……っ」


「どうしたんだい、リノア?」

「き、気安く呼ばないでください」


「気安く、ねぇ」



 ヴェインは、いっそ嬉しそうに目を細めた。



「おや。気づいたのかい?」

「な、何を……」



 喉が、おかしい。声を出そうとするたび、奥のほうで、見えない糸が、つん、と引かれる。

 たった一度、名を呼んだだけ。それなのに、その響きは舌の上から消えず、まるで自分の内側に、勝手に居座ってしまったかのようだった。



「リノアちゃん……?」


 背後から聞こえたアヤトの声に、リノアははっと息を吸った。

 喉の奥に引っかかっていた細い糸のような感覚が、ほんの少しだけ緩む。


「だ、大丈夫です。すみません」

「大丈夫、ねぇ」


 ヴェインは楽しげに目を細めた。


「そう言いながら、ずいぶんと苦しそうじゃないか」

「何を、したのですか?」


 男は答えない。

 ただ、細い指先で指輪を撫でた。金色の魔石が、朝の光を受けて、ほんの一瞬だけ鈍く瞬く。


「何を、か。ボクがキミの名前を、そしてキミがボクの名を口にしただけのことじゃないか」



 それきり、ヴェインは何も語らなかった。

 問い詰めようとするリノアの視線を、のらりくらりとかわすように、ただ薄く笑っているだけ。


「まぁ、いいさ。……また会おう、リノア」

「……っ」



 思わず喉元を押さえる。

 ヴェインはその反応を見届けると、満足したように目を細めた。


 まるで、見るべきものはもう見た、とでも言いたげな足取りで、男は朝の人混みのほうへと歩き出す。


「お、おい、待てよ……」



 アヤトがとっさに呼び止めようとしたが、ヴェインはその呼びかけに振り返ることさえしなかった。


 外套の裾が、朝の通りを行き交う人々の間でひらりと揺れる。

 白銀の髪が一度だけ朝日を弾いたかと思うと、その姿はあっけないほど自然に人混みの中へ紛れていった。


 まるで、最初からそこに異物などなかったかのように。


「……消えた」


 アヤトが呆然と呟く。追いかけようと思えば、追いかけられたのかもしれない。


 けれど、足が動かなかった。恐怖のせいだけでなければ、怒りのせいだけでもない。

 リノアが、まだ喉元を押さえたまま小さく震えていたからだ。


「リノアちゃん」


 アヤトは慌てて彼女の顔を覗き込んだ。


「大丈夫? どこか痛い?」

「……平気です。痛いわけでは、ありませんから」



 リノアはゆっくりと首を振った。

 ただ、額には、うっすらと汗。呼吸も、まだ浅く乱れていた。



「リノアちゃん、無理しないで。少し、座ったほうが……」

「いえ……大丈夫です。少しだけ、息が乱れただけですから」


 そう言いながらも、リノアは胸元に手を当て、小さく息を吸った。

 自分の呼吸の音を確かめるように、ゆっくりと繰り返す。さっきまで喉の奥に絡みついていたような嫌な感覚も、少しずつ薄れていった。



 痛みもなく、声も出る。身体が動かないわけでもない。

 ただ、あの男の視線と声が、まだ耳の奥に残っているだけだ。



「……すみません。もう、大丈夫です」

「……ごめん。俺が、情けないばかりに」

「違います」



 リノアは、すぐに首を振った。

 まだ呼吸は完全には整っていない。額には薄く汗が滲んでいて、声にも少しだけ震えが残っている。


 それでも、その否定だけははっきりしていた。



「今のは、綾人さんのせいではありません」

「でも、俺がもっとしっかりしていれば。リノアちゃんを前に出させたりしなかったし……」


 アヤトは言葉を詰まらせる。


 リノアは胸元に添えていた手を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。

 さっきまで喉の奥に残っていた嫌な感覚は、まだ完全には消えていない。けれど、少なくとももう、自分の呼吸を見失うほどではなかった。



「綾人さんが、謝ることなんて、何もありませんよ」

「いや、あるって。……だって俺、結局、後ろで突っ立ってただけだろ。リノアちゃんが体を張って庇ってくれてんのに、ほんと、なんもできなくて」



 アヤトは、ばつが悪そうに視線を逸らした。

 あの男の前で、足はすくみ、喉はからからに渇いて。庇われている自分が、ただただ、情けなかった。

 いつものことだ。みなもの前でも、ミレナの前でも。いつだって自分は、誰かの後ろで縮こまっている。



「綾人さんは、ちゃんと前に出てくれました。震えながらでも、わたしを庇おうとしてくれました。だから、何もできなかったなんて、言わないでください」


「……でも」

「でも、ではありません」


 リノアは静かに言った。

 強い口調ではなかった。けれど、その声には不思議と逆らえない響きがあった。



「わたしは見ていました。綾人さんが怖がっていたことも、苦しそうだったことも。……それでも、わたしを守ろうとしてくれたことも、ちゃんと見ていましたから」

「リノアちゃん……」



 アヤトは、返す言葉を見つけられなかった。

 胸の奥が、まだ重い。シレナに病室の場所を話してしまったこと。ヴェインの前で足がすくんでしまったこと。リノアに庇われたこと。


 どれも消えたわけではない。けれど、リノアの言葉は、その重さの中に小さな隙間を作ってくれた。


「……ごめん。あと、ありがとう」



 アヤトは、かすれた声でそう言った。

 リノアは小さく頷いた。


「はい。……とにかく。買い出しを早めに済ませて、ミレナさんにこのことも伝えましょう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ