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アヤトは、しばらく何も言わなかった。
差し込み始めた朝の光が、彼の頬に薄く陰をつくっている。否定の言葉も、肯定の言葉も、どちらも喉の手前で固まってしまったような顔だった。
「いや、その……リノアちゃんがさ、嘘とか適当なこと言う人じゃないってのは、分かってんだよ。うん、それは分かってるんだけど……けど」
アヤトはそこで言葉に詰まり、ガシガシと頭を掻いた。
「あのシレナちゃんが……そんなことするわけないって思いたい。……思いたいんだけど」
「……はい」
それでも、嫌になるほど脳裏に過る昨日のシレナとの会話。
「……はっ」
『もしよろしければ……後でわたし、ミレナさんにお見舞いの品をお持ちしてもいいですかぁ?』
あのとき、自分はへらへらと笑って、そう答えた。何もおかしいだなんて、感じなかったから……。
断る理由なんて、ひとつも浮かばなかった。
むしろ自分のことだけじゃなく、ミレナのことまで気にかけてくれる、そのことがただただ嬉しかった。
「綾人、さん?」
あの時の自分は、聞かれてもいないことまでぺらぺらと喋っていた。聞かれてもいないことまで、進んで。親切のつもりだった。道案内まで、丁寧に、病室の詳細まで。
「あ、あぁ……」
二人だけの秘密。
その言葉に、自分はだらしなく鼻の下を伸ばして頷いていた。男に二言はない、なんて、得意げに胸まで張って。
「綾人さん、綾人さん! ……大丈夫、ですか?」
アヤトは返事をしなかった。
ただ顔から、血の気が引いていくのが分かった。唇が震え、喉が何度も上下する。
それなのに、そこから言葉は出てこなかった。
「綾人さん、お、落ち着いてください」
リノアは、震えるアヤトの腕を両手で包み込むように握った。
自分よりも頭ひとつ大きいはずのその身体が、今はまるで、迷子になった子供みたいに頼りなく見える。
「ゆっくりで、いいですから。息を、吸って……ね? わたしも、ここにいますから」
濁っていたアヤトの瞳が、ようやくリノアのほうへ向きかける。
その焦点が定まりかけた、まさに、そのとき。
「――美しい」
「えっ!?」
ふいに場違いなほど涼やかな声が、二人の間へすうっと滑り込んできた。
アヤトの肩が、びくりと跳ねる。
声のしたほうへ目を向けると、すぐ脇の路地の入り口。煉瓦壁にゆったりと背を預けた一人の男が、こちらを眺めていた。
白銀の髪。
朝の光を弾いて、黄金色の瞳が細められる。
仕立ての良い外套に、細い指先には大ぶりの指輪。指輪には金色の魔石を思わせる装飾。そのどれもが、この朝の喧騒に少しも馴染んでいない。
近づいてくる足音も、気配すら、二人ともまるで感じ取れなかった。
「あ、あの……どなたですか?」
リノアが、半歩だけアヤトを庇うように前へ出る。
男はその誰何の声には答えず、ただうっとりと目を細めたまま、指先の指輪をゆるりと撫でた。
「あぁ、美しい。そこのキミ、名はなんというんだい?」
リノアの肩が、わずかにこわばった。
名を問われたというのに、その声音には、どこか素肌を指先でなぞられたような、薄ら寒さがある。
「……リ、リノア、ですけれど」
名乗ってしまってから、リノアは小さく唇を噛んだ。
答える義理などなかったはずなのに。それなのに、あの黄金の瞳に見据えられた瞬間、まるで喉を絡め取られたかのように、勝手に名がこぼれていた。
「リノア。……あぁ、いい響きだね」
男はその名を舌の上で転がすように、うっとりと繰り返す。
「怯えを噛み殺した、その声。震えを押し殺して、それでも凛と前に出ようとする、その佇まい。あぁ、いい。実にいいねぇ。……最近どうも、品のない醜いものばかり見せられていたものでね。全く、キミのような美しい女性は目の保養になるよ」
黄金の瞳が、リノアの輪郭をなぞるように動く。
値踏みというより、美術品の良し悪しでも見定めているかのような、ぞっとする視線だった。
「そう、ですか……」
リノアは曖昧に返しながら、アヤトの腕を握る手に力を込めた。
礼を言うべきなのか、拒むべきなのか、一瞬だけ判断が遅れる。
褒められているはずなのに、胸の奥に冷たいものが落ちていくような感覚があった。
この人は、何かがおかしい。そう思ったときには、男の瞳が、リノアの指先へと向けられていた。
「いいねぇ、素晴らしいよ、恐怖に怯え、震え、それでも逃げようとはしない。自分よりも他人を庇って、必死に足を止めている。そういう健気さは、実に美しい」
「……っ」
リノアは息を呑んだ。見られている。
表情だけではなく、仕草だけでもない。胸の内側まで、薄い刃物でこじ開けられているような気さえする。
「や、やめ……」
かすれた声が、リノアの背後から漏れた。アヤトだった。
まだ顔色は悪く、呼吸も浅い。けれど濁っていた瞳には、わずかに焦点が戻り始めていた。
「だ、誰だか、知らない、けど。リノアちゃんを……変な目でみるな」
異常なほどに喉が渇く。不安と、恐怖が体を支配しているというのに。
それでもアヤトは一歩だけ、前へ出た。
男の視線が、ゆっくりとアヤトへ移る。
その瞬間、黄金の瞳に浮かんでいた陶酔が、ほんの少しだけ薄れた。
「おや? 誰かいたとでもいうのかな?」
男は目を眇め、たった今そこに「何か」があると気づいたかのように、アヤトのほうへ視線を向けた。
いや、向けた、というのも正しくない。
瞳は確かにアヤトの顔のあたりを捉えている。それなのに、その焦点だけが、まるで彼の輪郭をすり抜けて、すぐ後ろの煉瓦壁のあたりで止まっているように見えた。
「……おや、いたねぇ。確かに。ボクの目には美しいものしか視界に入ってこないんだよ。キミのような醜い存在には、まるで気が付かなかったよ。フフッ、いやぁ失敬失敬」
くすり、と男が笑う。軽い調子で告げられた言葉に、アヤトの喉が詰まった。
怒ればよかったと、ふざけるなと、怒鳴り返せばよかった、と。けれど、できなかった。
なによりも、アヤトの胸の奥で、ずっと前に塞いだはずの古傷が、ぴしりと音を立てたからだ。
『ていうか、そもそもあんた誰?』
屋上で、みなもから浴びせられた、あの言葉。
風に靡く銀髪と、こちらを心底不思議そうに見据えた青い瞳。
あのときと同じ温度の視線が今、目の前にあった。
「……ッ」
あのとき味わった感覚そのものだった。胃の底が冷えて、足元が抜け落ちるような、あの感じ。
膝が、また笑い出しそうになる。
うずくまって、聞こえなかったふりをして、誰かの背中に隠れてしまえばいい。そのほうがずっと楽だと、身体が覚えている。
「待ってください!」
リノアが、震える声で叫んだ。
アヤトの腕を握っていた手を離し、彼の前へ出る。膝はまだ小さく震えていた。喉も乾いている。
それでも、今ここで自分が退いてしまえば、アヤトが本当にそのまま崩れてしまう気がした。
「綾人さんを、そんなふうに言わないでください」
「そんなふうに、とは?」
男は心底不思議そうに首を傾げた。
「ボクはただ、見えなかったものを見えなかった。……と言ったまでのことじゃないか。美しくないものが視界に入らないのは、仕方のないことだろう?」
「仕方なくなんかありません」
リノアは唇を噛みしめた。
……この男の目が怖い。声も、こちらの心の奥を、勝手に覗き込んでくるような気配が怖い。
それでも、リノアは逃げなかった。
「それに、綾人さんは醜くなんかありません!」
男の黄金の瞳が、わずかに、リノアへと戻る。
「ほう……」
「彼は、今自分のことで頭がいっぱいで、いっぱいいっぱいで。それでも、必死にわたしを庇おうとしてくれました。震えながら、前に出てくれたんです」
後ろのアヤトの腕を再び掴み、強く引き寄せた。
まるで、自分のほうがこの男に晒してなるものかと言わんばかりに。
「あなたの目に、それがどう映るのかは知りません。……でも、わたしにはちゃんと見えています。綾人さんは、ここにいます」
その一言は、すぐ後ろにいたアヤトの胸の奥を、思いがけず強く打った。
ここにいる、と。
男は、しばし無言だった。
リノアの言葉を、まるで聞き慣れない異国の言語を翻訳でもしているかのように、ゆっくりと黄金の瞳を眇める。
「……ふぅ、理解できないねぇ」




