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4-6

 アヤトは、しばらく何も言わなかった。


 差し込み始めた朝の光が、彼の頬に薄く陰をつくっている。否定の言葉も、肯定の言葉も、どちらも喉の手前で固まってしまったような顔だった。



「いや、その……リノアちゃんがさ、嘘とか適当なこと言う人じゃないってのは、分かってんだよ。うん、それは分かってるんだけど……けど」


 アヤトはそこで言葉に詰まり、ガシガシと頭を掻いた。


「あのシレナちゃんが……そんなことするわけないって思いたい。……思いたいんだけど」

「……はい」


 それでも、嫌になるほど脳裏に過る昨日のシレナとの会話。


「……はっ」

『もしよろしければ……後でわたし、ミレナさんにお見舞いの品をお持ちしてもいいですかぁ?』


 あのとき、自分はへらへらと笑って、そう答えた。何もおかしいだなんて、感じなかったから……。

 断る理由なんて、ひとつも浮かばなかった。

 むしろ自分のことだけじゃなく、ミレナのことまで気にかけてくれる、そのことがただただ嬉しかった。


「綾人、さん?」


 あの時の自分は、聞かれてもいないことまでぺらぺらと喋っていた。聞かれてもいないことまで、進んで。親切のつもりだった。道案内まで、丁寧に、病室の詳細まで。


「あ、あぁ……」


 二人だけの秘密。

 その言葉に、自分はだらしなく鼻の下を伸ばして頷いていた。男に二言はない、なんて、得意げに胸まで張って。


「綾人さん、綾人さん! ……大丈夫、ですか?」



 アヤトは返事をしなかった。


 ただ顔から、血の気が引いていくのが分かった。唇が震え、喉が何度も上下する。

 それなのに、そこから言葉は出てこなかった。


「綾人さん、お、落ち着いてください」


 リノアは、震えるアヤトの腕を両手で包み込むように握った。

 自分よりも頭ひとつ大きいはずのその身体が、今はまるで、迷子になった子供みたいに頼りなく見える。



「ゆっくりで、いいですから。息を、吸って……ね? わたしも、ここにいますから」


 濁っていたアヤトの瞳が、ようやくリノアのほうへ向きかける。

 その焦点が定まりかけた、まさに、そのとき。



「――美しい」

「えっ!?」


 ふいに場違いなほど涼やかな声が、二人の間へすうっと滑り込んできた。

 アヤトの肩が、びくりと跳ねる。


 声のしたほうへ目を向けると、すぐ脇の路地の入り口。煉瓦壁にゆったりと背を預けた一人の男が、こちらを眺めていた。


 白銀の髪。

 朝の光を弾いて、黄金色の瞳が細められる。

 仕立ての良い外套に、細い指先には大ぶりの指輪。指輪には金色の魔石を思わせる装飾。そのどれもが、この朝の喧騒に少しも馴染んでいない。

 

 近づいてくる足音も、気配すら、二人ともまるで感じ取れなかった。


「あ、あの……どなたですか?」


 リノアが、半歩だけアヤトを庇うように前へ出る。

 男はその誰何の声には答えず、ただうっとりと目を細めたまま、指先の指輪をゆるりと撫でた。


「あぁ、美しい。そこのキミ、名はなんというんだい?」


 リノアの肩が、わずかにこわばった。

 名を問われたというのに、その声音には、どこか素肌を指先でなぞられたような、薄ら寒さがある。



「……リ、リノア、ですけれど」



 名乗ってしまってから、リノアは小さく唇を噛んだ。

 答える義理などなかったはずなのに。それなのに、あの黄金の瞳に見据えられた瞬間、まるで喉を絡め取られたかのように、勝手に名がこぼれていた。


「リノア。……あぁ、いい響きだね」



 男はその名を舌の上で転がすように、うっとりと繰り返す。


「怯えを噛み殺した、その声。震えを押し殺して、それでも凛と前に出ようとする、その佇まい。あぁ、いい。実にいいねぇ。……最近どうも、品のない醜いものばかり見せられていたものでね。全く、キミのような美しい女性は目の保養になるよ」



 黄金の瞳が、リノアの輪郭をなぞるように動く。

 値踏みというより、美術品の良し悪しでも見定めているかのような、ぞっとする視線だった。


「そう、ですか……」


 リノアは曖昧に返しながら、アヤトの腕を握る手に力を込めた。


 礼を言うべきなのか、拒むべきなのか、一瞬だけ判断が遅れる。

 褒められているはずなのに、胸の奥に冷たいものが落ちていくような感覚があった。


 この人は、何かがおかしい。そう思ったときには、男の瞳が、リノアの指先へと向けられていた。



「いいねぇ、素晴らしいよ、恐怖に怯え、震え、それでも逃げようとはしない。自分よりも他人を庇って、必死に足を止めている。そういう健気さは、実に美しい」

「……っ」


 リノアは息を呑んだ。見られている。

 表情だけではなく、仕草だけでもない。胸の内側まで、薄い刃物でこじ開けられているような気さえする。


「や、やめ……」


 かすれた声が、リノアの背後から漏れた。アヤトだった。

 まだ顔色は悪く、呼吸も浅い。けれど濁っていた瞳には、わずかに焦点が戻り始めていた。


「だ、誰だか、知らない、けど。リノアちゃんを……変な目でみるな」


 異常なほどに喉が渇く。不安と、恐怖が体を支配しているというのに。

 それでもアヤトは一歩だけ、前へ出た。


 男の視線が、ゆっくりとアヤトへ移る。

 その瞬間、黄金の瞳に浮かんでいた陶酔が、ほんの少しだけ薄れた。


「おや? 誰かいたとでもいうのかな?」


  男は目を眇め、たった今そこに「何か」があると気づいたかのように、アヤトのほうへ視線を向けた。


 いや、向けた、というのも正しくない。

 瞳は確かにアヤトの顔のあたりを捉えている。それなのに、その焦点だけが、まるで彼の輪郭をすり抜けて、すぐ後ろの煉瓦壁のあたりで止まっているように見えた。



「……おや、いたねぇ。確かに。ボクの目には美しいものしか視界に入ってこないんだよ。キミのような醜い存在には、まるで気が付かなかったよ。フフッ、いやぁ失敬失敬」



 くすり、と男が笑う。軽い調子で告げられた言葉に、アヤトの喉が詰まった。


 怒ればよかったと、ふざけるなと、怒鳴り返せばよかった、と。けれど、できなかった。

 なによりも、アヤトの胸の奥で、ずっと前に塞いだはずの古傷が、ぴしりと音を立てたからだ。


『ていうか、そもそもあんた誰?』


 屋上で、みなもから浴びせられた、あの言葉。

 風に靡く銀髪と、こちらを心底不思議そうに見据えた青い瞳。

 あのときと同じ温度の視線が今、目の前にあった。


「……ッ」



 あのとき味わった感覚そのものだった。胃の底が冷えて、足元が抜け落ちるような、あの感じ。

 膝が、また笑い出しそうになる。

 うずくまって、聞こえなかったふりをして、誰かの背中に隠れてしまえばいい。そのほうがずっと楽だと、身体が覚えている。


「待ってください!」


 リノアが、震える声で叫んだ。

 アヤトの腕を握っていた手を離し、彼の前へ出る。膝はまだ小さく震えていた。喉も乾いている。

 それでも、今ここで自分が退いてしまえば、アヤトが本当にそのまま崩れてしまう気がした。



「綾人さんを、そんなふうに言わないでください」

「そんなふうに、とは?」


 男は心底不思議そうに首を傾げた。



「ボクはただ、見えなかったものを見えなかった。……と言ったまでのことじゃないか。美しくないものが視界に入らないのは、仕方のないことだろう?」

「仕方なくなんかありません」


 リノアは唇を噛みしめた。


 ……この男の目が怖い。声も、こちらの心の奥を、勝手に覗き込んでくるような気配が怖い。

 それでも、リノアは逃げなかった。



「それに、綾人さんは醜くなんかありません!」



 男の黄金の瞳が、わずかに、リノアへと戻る。



「ほう……」

「彼は、今自分のことで頭がいっぱいで、いっぱいいっぱいで。それでも、必死にわたしを庇おうとしてくれました。震えながら、前に出てくれたんです」



 後ろのアヤトの腕を再び掴み、強く引き寄せた。

 まるで、自分のほうがこの男に晒してなるものかと言わんばかりに。



「あなたの目に、それがどう映るのかは知りません。……でも、わたしにはちゃんと見えています。綾人さんは、ここにいます」


 その一言は、すぐ後ろにいたアヤトの胸の奥を、思いがけず強く打った。

 ここにいる、と。


 男は、しばし無言だった。

 リノアの言葉を、まるで聞き慣れない異国の言語を翻訳でもしているかのように、ゆっくりと黄金の瞳を眇める。



「……ふぅ、理解できないねぇ」

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