4-5
扉が閉まり、鍵の回る小さな音が朝の静けさに溶けた。
外に出ると、冷えた空気が頬を撫でる。
まだ陽が低く、石畳には長い影が伸びていた。通りに人の姿はまばらで、遠くから荷車の車輪が石を噛む音だけが、ぽつりぽつりと聞こえてくる。
リノアは半歩ほど前を歩きながら、南通りの薬草店へと足を向けた。
隣を歩くアヤトは、先ほどのやり取りの気まずさをまだ引きずっているのか、後頭部をがしがしと掻きながら、どこか落ち着かない様子。
「……いやぁ、すみませんさっきは。変なこと言いかけて」
「い、いえ。わたしこそ、少し取り乱してしまって」
リノアは視線を前に向けたまま答える。頬の赤みはこそ引いていたが、耳の先にはまだ熱が残っている気がした。
しばし、二人の間に沈黙が落ちる。
気まずいのに、不思議と嫌ではない。
朝の空気が冷たいぶん、隣を歩く彼の気配がいつもより近く感じられて、リノアはそっと半歩だけ距離を広げた。
「あ、あー。えっと、それで。まずはどこのお店に?」
沈黙に耐えかねたように、アヤトが切り出す。 何事もなかったように話を切り替えようとしているのが、分かりやすいくらいに伝わってくる。
「南通りの薬草店に。それから市場で食材を少し」
「了解です。荷物持ちなら任せてよ。これでも一応、ポーターだから」
胸を張るアヤトに、リノアは小さく微笑む。
だがその笑みの奥で、彼女の思考はすでに別のところへ向かい始めていた。
買い出しは口実ではない。本当に必要なものは山ほどある。けれどこの機会を逃せば、次に二人きりで話せる時間がいつ訪れるかも分からなかった。
(……聞かなきゃ。今のうちに)
あの布に残っていた香り。それが、彼の語った恩人の女性と結びつくのだろうか。
聞き方を間違えれば、アヤトを傷つけるかもしれない。そう思うと、胸の奥が重くなる。
それでも、黙ったままでいることはできなかった。
薬草店への道のりは、もうそう長くはなかった。
リノアは一度だけ、隣を歩くアヤトの横顔をそっと見上げた。
何も知らない、いつも通りの穏やかな表情。その無防備さに、言葉を飲み込みそうになる。
「……あの、綾人さん」
「ん?」
「少し、お聞きしたいことがあって。いいですか?」
自分でも分かるほど、声が静かになっていた。
アヤトは怪訝そうに首を傾げたが、すぐに頷いてくれる。
「どうかしたのリノアちゃん?」
「綾人さんがお話してくださった、昨日の……その、恩人の女性のことなんですけれど」
その言葉に、アヤトの足がわずかに止まった。
「あー、えっと。何か、気になること……まだあった、かな?」
アヤトは記憶を探るように、視線を宙へさまよわせた。昨日少しだけ話したきりのことを、今になってまた蒸し返されるとは思っていなかったのだろう。
「いえ、その……新しく何かを伺いたい、というわけではなくて、ですね」
リノアは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと歩を進める。
「昨日少しだけお聞きした、その恩人の方のことで、ひとつだけ確かめておきたいことがあって」
「確かめたいこと?」
アヤトが首を傾げる。
リノアは一度、唇を結んだ。朝の冷たい空気を吸い込んでも、胸の奥に沈んだ重さは少しも薄れなかった。
遠くで荷車の車輪が石畳を噛む音がする。その音が通りの向こうへ遠ざかっていくのを待ってから、リノアは静かに口を開いた。
「はい。……その方が、どんな香りをまとっていたか、覚えていらっしゃいますか?」
「香り、かぁ……どうだったかな」
アヤトは思いがけない質問に、何度か瞬きをした。
けれど怪しむ様子はなく、視線を少し上へ向けて、素直に記憶を手繰り寄せている。
「そういえば、花みたいな甘ーい匂いがしたかな。抱きつかれた時に、結構はっきりしたような……」
そこまで言ってから、アヤトは何かを思い出したようにぎょっとした顔になる。
「あっ、いや、抱きついてきたのは向こうからで、俺は何もしてないからね」
「……そのことは、大丈夫、です」
「ですよね。すみません」
謝るアヤトに、リノアは曖昧に頷いた。
けれど、その胸の内では今の言葉だけが静かに沈んでいく。
花のような、甘い香り。やはり、と言い切れるほどの確信はまだない。
それでも、あの黒い布切れに残っていた匂いと、まったく無関係だとは思えなかった。
リノアは数歩、黙って歩いた。石畳を踏む自分の足音が、やけに大きく耳に響く。
どう切り出せばいいのか。何度も頭の中で組み立てた言葉が、いざとなると喉の手前でつかえてしまう。
「あ、綾人さん……」
「うん? どうしたのリノアちゃん」
いつも通りの声音で返されて、リノアは一瞬だけ言葉を失った。
こんなこと、ただの偶然かもしれない。
香りが似ているなど、それだけで何かを決めつけるべきではないと。
それでも、ここまで聞いてしまった以上、今更引き返せなかった。
「わたしが拾った、あの黒い布のことなんですけれど……」
「ん? あぁ今ミレナさんが持ってるやつだよね」
「……はい。あの布に、少しだけ香りが残っていました」
アヤトの歩く速度が、わずかに落ちた。
「香り……?」
アヤトの表情が、少しずつ怪訝なものへと変わっていく。話の向かう先が、まだ見えていないのだろう。
「花のような、甘い香り、でした。その……」
言いかけて、リノアは一度だけ言葉を止めた。
アヤトがこちらを見ている。いつものように気軽に相槌を打つでもなく、ただ次の言葉を待っていた。
もう、誤魔化せない……。
「先ほど綾人さんが仰っていた香りと、少し似ているように思えたんです」
「……に、似てる?」
アヤトの声から、わずかに軽さが消えた。
それまで何気なく動いていた足が、ゆっくりと止まる。リノアも数歩先で立ち止まり、振り返った。
「同じだと断言できるわけではありません。香りだけで何かを決めつけるべきではないと思います。けれど……わたし、やっぱり気になってしまって」
アヤトは、すぐには言葉を返さなかった。
差し込み始めた朝の光の中で、その顔がわずかに強張っているのが見て取れる。たった今聞かされた話の意味を、頭の中で何度も組み立て直しているようだった。
「……いや、でも」
ようやく絞り出した声は、戸惑いに揺れている。
「シレナちゃんが? いや、そんなわけ……。あの子が? あんなに優しかったシレナちゃんが?」
それは、リノアへ向けた言葉というより、自分自身に言い聞かせるような声だった。
アヤトはリノアを見ていなかった。
視線は足元の石畳に落ちたまま、そこに答えでも探すように揺れている。
信じられない、というよりも、信じたくないという響き。
彼にとってシレナは、見知らぬ世界に放り出された自分へ、最初に手を差し伸べてくれた相手なのだ。
武器を譲り、優しい言葉をかけてくれた、恩人。その面影と、ミレナを襲った何者かの像は、どうやっても重るはずがなかった。
「あの子はそんなことする人じゃないよ。ただの偶然だって! ほら、同じ香水を使ってる人なんて、街に……いくらでも、いる、はずだし」
「……それは、そうかもしれません」
リノアは静かに頷いた。彼の言うことは、もっともだ。
香り一つで人を疑うなど、本来あってはならない。
「わたしは、そのシレナさん、という方を決して悪く言いたいわけではないんです。本当に偶然なら、それでいいんです」
リノアは一度言葉を切り、まっすぐにアヤトを見上げた。
「ただ、もし。万が一にでも何か関わりがあったとしたら……綾人さんが、知らないうちに巻き込まれてしまうかもしれない。わたし……それが、心配で」
最後の言葉は、思っていたよりも小さくなった。
アヤトは何か言い返そうとして、けれど口を開いたまま言葉を失った。リノアの声に、責める響きがなかったからだ。
むしろ、自分の身を案じてくれているのだと分かるからこそ、簡単に「考えすぎだ」と笑い飛ばすこともできなかった。




