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(わたしが黙っていたら、この布は誰の目にも触れないまま、手がかりにすらならない)
そう思い至り、リノアは小さく息を吸い込んだ。
「……あの、ミレナさん。いいですか?」
「何かしら」
「先ほど治療院を出る時に、瓦礫の中から拾った布のことなんですけど……」
リノアがそう切り出すと、アヤトが「あぁあれか」と小さく声を漏らした。流石に覚えてはいるらしい。
屈んで何かを拾い上げていた様子だけは。
「ふと目についたもので、一応拾っておいたのですけれど……」
彼女は衣服の内側からそっと黒い布切れを取り出し、ミレナの前へ差し出した。
厚手の生地に、荒く引き裂かれたような断面。見るからに治療院の備品とは質の異なるもの。
「ベッドの脚の陰に引っかかっていました。もしかしたら、襲った方が残していったものではないかと思いまして」
ミレナの目つきが、すっと変わった。差し出された布切れを受け取り、指先で生地の厚みや織りを確かめていく。
その仕草は手慣れたもので、素材の良し悪しを見定める目に迷いはなかった。
「……安物じゃないわね。この織り。少なくとも、その辺の野盗やごろつきが着るようなものじゃないと思うわ」
「ってことは、やっぱりミレナさんを狙って動いてた奴が着てた……?」
「断言はできないけど、その可能性は十分にあるわね」
ミレナは布切れを裏返し、もう一度じっくりと眺める。それ以上の情報を読み取ろうとでもしているのか、しばし沈黙が落ちた。
リノアは、その様子を静かに見つめる。
香りのことは、言わなかった。ミレナの指先が布を検めている間、あの甘い花の香りに気づく素振りがあるかどうか、息を詰めて窺っていたが、ミレナはそこには触れなかった。
単純に気が付かなかっただけなのか、香りには気が付いたが、そこは重要ではないと考えたのかはまでは判断はつかなかったが。
(……今は、ここでは――)
リノアは自分にそう言い聞かせた。確かなことが何ひとつない今、下手に口にすれば、余計な疑念だけを生むことになりかねない。
仮に香りのことをミレナに話せば、きっと話はそこで終わらないだろう。
どこで嗅いだのか。誰から聞いたのか。なぜそれを気にしているのか。
そう問い詰められた時、自分はきっと、彼が話してくれた『恩人の女性』のことまで口にせざるを得なくなる。
アヤトが自分に必死に打ち明けてくれた話を、勝手に広げるべきではない。
ましてや、今のミレナにそれを聞かせれば、正直面倒な方向へ話が転がる予感しかしなかった。
リノアは膝の上で、そっと指先を握り込む。
(――まずは、二人だけで、綾人さんに確認しないと)
あの香りが、本当に彼の言っていた人のものと同じなのか。単に自分の思い違いなのかどうかを。
一方でミレナは、そんなリノアの沈黙に気づいた様子もなく、布切れを手の中で軽く広げていた。
「……これだけじゃ相手の正体までは分からないわね。ただ、身なりだけは整えていた可能性が高い、くらいかしら。まぁこれは私が預かっておくわ。仕立て屋を当たってみれば、何か掴めるかもしれないし」
ミレナが布切れを折り畳み、手元に収めた。
それでひとまず、この話は区切りがついた形になる。
室内に、ふっと緊張の糸が緩む。
その隙を見計らうように、リノアが立ち上がった。
「あのぅ……少し、買い出しに行ってきてもいいですか?」
「買い出し……? 今?」
ミレナが訝しげに眉を寄せる。
つい先ほどまで襲撃の手がかりについて話していたばかりだ。そこで急に買い出しと言い出せば、少なからずとも不自然に映るのも無理はなかった。
リノアは少しだけ肩を縮こませながら、慌てて言葉を足す。
「あ、はい。その……ミレナさんのお怪我のこともありますし、包帯や薬草も少し補充しておきたくて。それに、材料もあまり残っていませんから。そちらも……」
「まぁいちいち人の家庭の話に口を挟む気もないわ」
ミレナは興味なさそうに頷くと、アヤトの背中からおもむろに降りた。解放されたアヤトが、ほっと息をついて背中を反らす。
「それと、荷物も少し多くなると思うので……よければ、綾人さんにも手伝っていただけると助かるのですが……」
「え、俺?」
不意に名前を呼ばれ、アヤトが目を丸くする。
リノアは小さく頷いた。
「はい、できればまとめ買いしておきたいところですし、綾人さんがいて頂けるなら、と」
「それってつまり……デー」
嫌な視線を感じた。後ろを振り向かなくともミレナが目を補細くしながら、睨みつけている姿が容易に想像がついたからだ。口にしかけた言葉を、アヤトは慌てて飲み込こむ。
だがその未遂の一音だけで、リノアの頬にさっと朱が差した。
「で、ででっ、……!? ち、違いますよ! あ、あくまでその、お買い物のお手伝いを……!」
両手をぱたぱたと振りながら、声が上ずっていく。否定すればするほど顔が赤くなるあたり、どうにも隠しきれていない。
「あぁ、いや俺も別にそういうつもりでは……ほら冗談というか」
「わ、わかってます! わかってますからぁ!」
「この状況でその冗談が出るあたり、本当にあんたって危機感が足りないわね」
呆れたようなミレナの声が割って入る。
先ほどまでアヤトの背に腰掛けていた彼女は、今は『普通の椅子』に腰を下ろし、片肘をついて二人を眺めていた。
その目は半ば眠たげで、半ば疑わしげだ。
「荷物持ちなら連れていけばいいわ。どうせこいつをここに置いておいても、役に立つどころか邪魔になるだけだもの。むしろめざわりになるだけよ」
「ミ、ミレナそんな酷くないですか?」
「私は事実を言っただけよ」
「そんなぁ」
「え、えぇっと……」
おろおろと視線を泳がせるリノアだったが、やがて意を決したように、こほん、と小さく咳払いをした。
「と、とにかく行ってきますね。あ、あとミレナさん、そのお買い物です! 必要なものを買ってくるだけですから」
「ええ、分かってるわよ。はやく行ってきなさい。……そこのバカポーター、あんたもさっさと行きなさいよ」
「は、はい!」
ミレナはひらひらと手を振ると、椅子の背もたれに深く体を預けた。
先ほどまでの気丈な態度からは想像もつかないほど、その動作には疲労の色が滲んでいる。瞼が重たげに落ちかけているあたり、やはり体力の限界は近いようだ。
「何かあったら……」
「何もないわよ。人の家を物色する趣味はないの。さっさと行きなさい」
二度目の催促に、リノアはぺこりと頭を下げた。
アヤトもそれに倣い、小さく会釈をしてから玄関へと向かう。
小さな家に、ミレナのみが残される。彼女は目を閉じたまま、しばらく天井の方を向いていた。
やがてぽつりと呟く。
「――デート、ねぇ。はぁ、あのバカ……」
誰に聞かせるでもないその言葉のみを残し、ミレナはそっと寝息を立て始めた。
それが皮肉か、別の何かがあるのかは、自分自身でも理解はしていなかった。ただそれでも、『デート』という言葉には、多少の思うところがあったのだけは事実だ。




