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4-3

 拾い上げた黒い布切れを、リノアは何の気なしに目の高さへと持ち上げる。

 繊維から染み込んだ微かな残り香が、彼女の鼻先をかすめた。

 ――甘く、むせ返るような花の香り。リノアの指先が、わずかに強張った。


 この匂いには覚えがある。昨日アヤトの衣服から漂った、あの香りと同じ。彼自身の口から打ち明けられた、この世界で最初に出会ったという、恩人の女性がつけていた思われる香水の香り。



 恩人だと、彼はそう言っていた。命を救ってくれた優しい人なのだと。

 であるならば何故その同様の香りが、ミレナを襲った何者かの遺した布きれからも漂うのか。


 ただの偶然か、それとも――。



「リノアちゃん? どうかした」



 ミレナを支えたまま、アヤトが怪訝そうに振り返った。

 リノアは一拍だけ間を置き、いつもと変わらぬ柔らかな笑みを取り繕う。



「……いえ、なんでもありません。少し、変わった布が落ちていただけです」



 今これを口にしたところで、確かなことは何ひとつ言えない。

 曖昧な疑いでアヤトを惑わせるような行動は取りたくない。彼女はそう自分に言い聞かせるように、布切れを丁寧に折り畳むと、衣服の内側へとそっと忍ばせた。




   

   ◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇   



「え、えぇっと……あのぅ、これは一体……?」



 よく片付いた小さな室内に、リノアの戸惑った声が落ちる。

 当然困惑の対象は、目の前の二人だ。床に四つん這いとなったアヤトの背の上に、ミレナが我が物顔で堂々と腰を下ろしている、異様な光景。

 長い足を優雅に組み、胸の前で腕まで組んで、まるで玉座にでも腰掛けた女王様かのように泰然と構えていた。



 その重みを一身に受けるアヤトはというと、ぷるぷると震える腕でどうにか姿勢を保ちながら、すでに半ば諦めの境地に至った顔をしている。



「あぁ、気にしなくても結構よ。こいつは私の椅子だから」

「い、椅子……」


 ミレナは何食わぬ顔でそう言い放つと、組んだ足を組み替える。その些細な動作にすら、下のアヤトの背がぐらりと揺れる。



「ちょっと揺らすんじゃないわよ!」

「無茶言わないでくださいよ……。人間そんな安定した椅子になれませんって」


「何よ?私が重いだとか言いたいわけ!?」

「め、滅相もございません」



 即答、あまりにも即答だった。

 下手に余計なことを口走れば、頭上からさらなる理不尽が降り注ぐ未来しか見えないだろう。

 アヤトは悟りきった表情と、床を見つめるしかなかった。



 そんな二人のやり取りを見ていたリノアは、ぱちぱちと何度か瞬きを繰り返す。



「え、えぇ……。綾人さん、大丈夫なんですか?」

「大丈夫……じゃないけど、大丈夫です……」



 アヤトは床に視線を落としたまま、力なく答える。

 すでに反抗する気力も尽き果てているようだ。その諦観の滲んだ横顔に、リノアの胸にはなんとも言えない同情の念が湧き上がった。



 しかしそれ以上に、彼女の思考を占めていたのは、また別の疑問だ。

 病み開けで運ばれてきたばかりの少女が、なぜか当然のように人を椅子に変えている。

 そして椅子にされた青年も、文句を言いつつ結局はその役目から逃げようとしない。


 二人の姿を前にして、リノアの中にひとつの可能性が芽生えてしまった。



「あのぅ……お二人は、そっその……」


 頬をほのかに染めながら、彼女は遠慮がちに、それでも確かめずにはいられないといった様子で問う。



「そういった……特殊な趣味趣向の、ご関係……なのでしょうか……?」


「ち、違います違います!? なんでそうなるんですか!」



 顔を真っ赤にして声を上げたのは、アヤト。背中のミレナを支えていることも忘れて身を起こしかけ、その拍子にぐらりと体勢を崩しかける。



「バカ! 揺らすなって言ってるでしょう」


 対するミレナは、まるで動じる様子もなかった。崩れかけた姿勢を踵で軽く小突いて正させると、組んだ腕の位置すら直さぬまま、心底どうでもよさそうに言い放つ。



「別にそんなわけないじゃないわよ。こいつはただの『椅子』っていうだけよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」

「そっそんな言い方は……」



 弁解になっているのかいないのか分からないミレナの一言に、アヤトはたまらず突っ込みを入れる。だが当のミレナはすでに興味を失ったのか、視線を窓の外へと流していた。



 リノアは「は、はぁ……」と曖昧に頷きながら、なおも釈然としない面持ちで二人を見比べている。

 否定されたはずなのに、目の前の構図があまりに異様なせいで、いまひとつ腑に落ちきらないらしい。



「……まぁいいわ。くだらない話はここまでよ」



 ミレナはひとつ息を吐くと、ようやく組んでいた腕をほどいた。窓の外へ向けていた視線が、すっと鋭さを取り戻していく。先ほどまでのふざけた空気が、嘘のように引いていった。



「――本題に入るわよ。私を襲った相手のこと、いい加減はっきりさせておかないとね」

「はっはい!」




 話の矛先が変わったことを察して、リノアも居住まいを正す。アヤトもまた、椅子にされたままではあったが、その背筋にわずかな緊張が走った。


「と言っても……肝心の相手の姿を、私もまるで見ちゃいないのよ」


 ミレナは忌々しげに吐き捨てる。


「眠っていたところを、いきなりやられたんだから。建物ごと揺れるような衝撃で叩き起こされて、跳ね起きた時にはもう壁が吹き飛んで、あの有様。相手の顔どころか、影すら拝めなかったわ」



「結局、襲ってきた相手については三人とも、何ひとつ見ていない、ということですよね……」


 アヤトが力なく状況を整理する。リノアに叩き起こされ、訳も分からぬまま治療院へ駆けつけた頃には、すべてが終わった後。




「それじゃぁ、どうしようもないんじゃ」

「そう簡単に投げ出すんじゃないわよ。……とはいえ」


 ミレナは言いさして、わずかに眉根を寄せた。考え込むように、視線が宙をさまよう。



「襲撃犯はどうして撤退したのか。あの惨状を引き起こしたのは襲撃犯ではないのか、どうか」

「案外ミレナさんが寝てる間になんかの力が覚醒して撃退したとか?」

「あんた適当なこと言ってるんじゃないわよ」



 即座に切り捨てられ、アヤトは「ですよねぇ……」と肩を落とした。

 軽口を叩いてみたものの、部屋の空気は思った以上に重いままだった。結局のところ、誰も何も知らなければ、襲撃者の姿を見た者はいない。


 ミレナは腕を組んだまま、露骨に眉をしかめた。


「気に入らないわね……」

「何がですか?」

「何って、全部に決まってるでしょ!」

「おっ、落ち着いてください、ミレナさん……」



 思わずリノアが声を挟む。

 柔らかな声ではあったが、その表情には薄い緊張が浮かんでいる。ミレナの苛立ちが本物であることくらい、彼女にも十分に分かっていた。


「大丈夫よ……」


 吐き捨てるような声。おそらく事実を知っているのは襲撃犯だけなのだろう。

 事件の真ん中にいたのに、実際は何も分からないことに、ミレナは不満を募らせるばかりだった。



「相手も分からない。反撃した記憶すらない。そのうえ敵は私が寝込んでいることを知って襲ってきた。こんな気分の悪い話がある?」



吐き捨てるような声音に、室内の空気がわずかに重くなる。



 ミレナの苛立ちも無理はない。

 敵の顔も見ていなければ、何が起きたのかも分からないまま。

 戦った記憶も一切ない。


 唯一はっきりしているのは、自分が眠っている隙を正確に突かれた、という一点のみ。



「だいたい、寝込みを正確に狙ってきたってこと自体、気に入らないのよ。私がいつ、どこで、どんな状態で眠っているか。相手はそれを正確に掴んでいたってことでしょう」


 ミレナの言葉に、アヤトの背筋がひやりと冷えた。



「それって……たまたま通りかかった奴の仕業、とかじゃなくて……」

「ええ。最初から私を狙って、機会をうかがっていた誰かがいた。そう考える方が自然ね」



 ミレナは忌々しげに舌打ちする。

 それでいて分からないのは、やはり相手の引き際だった。

 あれだけ確実に仕留められる状況で何故、止めの一つも刺さずに撤退したのか。


 直撃を免れたとはいえ、あの時の自分は朦朧として、抵抗らしい抵抗もできなかったというのに。



「何か犯人が手掛かりの一つでも落としているならいいんだけどね」

「えっ」


 ミレナの何気ない一言に、リノアの肩がぴくりと跳ねた。

 手がかり。その言葉が、胸の奥に突き刺さる。衣服の内側に忍ばせたあの布切れの感触を、リノアは無意識に指先でなぞった。



 あの場では「変わった布が落ちていた」とだけ言って取り繕った。

 確証のない疑いで、アヤトを惑わせたくなかった。今もその気持ちは変わっていない。

 ――けれども……。

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