3-13
「その子は、俺がこの世界に来て一番最初に出会った子で……身を守るための短剣をくれた恩人なんだ。それで……街で偶然再会して、俺が生きてたことをすごく喜んでくれて……その時に、感極まったみたいで、少し抱きつかれちゃったっていうか、なんというか。匂いが移ったのは、多分その時のことで……」
アヤトは冷や汗を滲ませながらも、言葉を選ばずに必死で説明を続ける。
ミレナが青い石を持っているか探っていたこと、そしてシレナとの『秘密』の部分だけは巧みに伏せつつ、彼女と会ったこと、そして匂いの原因が彼女との接触にあることだけは正直に打ち明けた。
「俺も不意打ちで避けられなかったっていうか、本当にただの再会の挨拶みたいなもので……。でも、嘘をついて誤魔化そうとしたのは俺が悪かった。本当にごめん」
深く頭を下げるアヤトの姿に、リノアの胸の奥を覆っていた重い雲が、少しずつ晴れていくのを感じた。
彼が他の誰かと親しくしていたという事実に、胸が痛まないわけではない。しかし、こうして自分に対して誠実に打ち明けてくれたこと、誤魔化したままにせずに向き合ってくれたことは、何よりも嬉しかった。
張り詰めていた空気が緩み、リノアの口元から小さく吐息が漏れる。
「……そう、ですか。一番最初に出会った恩人の方に、偶然お会いしたんですね」
怒りでも、失望でもない。
憑き物が落ちたような穏やかな声に、アヤトは恐る恐る頭を上げる。
「うん。だから、本当にその……変なことは……何もしてないから」
「ふふっ。わたし、綾人さんが変なことをしたかなんて、一言も言っていませんよ?」
リノアは困ったように微笑み、テーブルの上の空になった食器を重ね合わせる。
その仕草はいつもの家庭的で優しい彼女のものに戻っていた。
「ただ……ただほんの少しだけ。わたしが待っている間に、他の女性の方と仲良くなされていたと思うと、ほんの少しだけ……。さ、寂しかったのは事実、ですけれどね」
視線を落とし、少しだけ恥じらうように紡がれた言葉。
そのあまりに素直な心情の吐露に、アヤトは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
怒られるよりも、責められるよりも、その純粋な寂しさを告げられる方が、彼の良心を何倍も強く苛んだ。
「ご、ごめん。その……これからは」
「いいんです。こうしてまっすぐ話してくださっただけで十分ですから。」
リノアは重ねた食器を持ち上げると、少し軽くなった足取りで洗い場へと向かう。
振り返った彼女の瞳には、先ほどまでの疑心や不安の色はなく、いつものような優しい光が宿っていた。
「さぁ、お茶を淹れますから、座っていてくださいね。明日はミレナさんのところへ、一緒にお見舞いに行きましょう」
「う、うん……」
その言葉に、アヤトは深い安堵とともに大きく息を吐き出し、ようやく心から表情を緩めることができた。
――翌朝。
窓の隙間から差し込む朝日に目を細める間もなく、アヤトは体を激しく揺さぶられる感覚で意識を覚醒させた。
「綾人さん! 綾人さん起きてください! 大変です!!」
切羽詰まった声に跳ね起きると、目の前には、昨夜の穏やかな表情とは打って変わって、ひどく血相を変えたリノアの姿があった。
彼女の呼吸は荒く、額にはうっすらと汗がにじんでいる。どうやら、ただ事ではないらしい。
「ん、あ……リノアちゃん? おはよ……どうしたの、そんなに慌てて……?」
寝ぼけ眼をこすりながら尋ねるアヤトの腕を、リノアは強い力で掴み引いた。
「急いでください! ミレナさんのところへ向かわないと!」
「……えっ? ミレナさんがどうかしたの!?」
「わたしも先ほど街の人の騒ぎで知ったばかりなんです。とにかく! 今すぐミレナさんの病室へ!」
そのただならぬ雰囲気に、アヤトの眠気は一瞬で吹き飛んだ。
寝起きのまま、リノアから手渡された昨日の服――綺麗に洗濯され、すっかり乾いた学生服に慌てて袖を通し、転がるようにして家を飛び出す。
朝の冷たい空気が肺を刺すのも構わず、二人は石畳の大通りを全力で駆け抜けた。
すれ違う街の住人たちが、皆一様に不安げな顔で同じ方向へ視線を向けている。その視線の先にあるのは、間違いなくミレナが入院している『星明かりの治療院』だった。
治療院の前に辿り着くと、すでに大勢の野次馬が集まっていた。槍を手にした衛兵たちが、建物を遠巻きに取り囲んでいる。
人だかりの隙間から見えた建物の外観に、アヤトは思わず息を呑む。
「なんだこれ!?」
二階の角部屋。昨日、ミレナが寝かされていたはずのその部屋の窓ガラスが、外枠ごと完全に吹き飛んでいた。
それだけではない。窓の周囲の壁までもが大きく崩落し、内部の様子が外から露わになっていた。周囲の地面には、鋭く尖った無数のガラス片と、砕けた木材、石材の塊が散乱しており、事態の異常さを雄弁に物語っていた。
「すみません通してください! 俺の知り合いがいるんです!!」
「おい!!」
制止しようとする衛兵の腕を振り解き、アヤトはリノアと共に治療院の中へと飛び込んだ。
一階は避難した患者や治癒士たちでごった返していたが、二階へと続く階段には瓦礫の粉塵が白く舞っており、誰一人として近づこうとしていない。
一段飛ばしで階段を駆け上がり、廊下の突き当たりにある病室へ飛び込む。
扉の蝶番は外れかけ、床には砕けた石材と木片が絨毯のように敷き詰められていた。
冷たい朝の風が、崩れ落ちた壁の大きな穴から容赦なく吹き込んでいる。
「ミレナさん! ミレナさん!!」
アヤトの叫び声が、粉塵の舞う部屋に響き渡る。
崩落した壁のすぐそば、埃にまみれたベッドのシーツが、乱暴に払いのけられていた。
そのベッドの縁に、ミレナが腰を下ろしている。肩まで伸びた銀色の髪が、吹き込む風に煽られて激しく揺れていた。
「……遅いわよ」
ひどく掠れた、しかし芯の通った声が瓦礫の部屋に響く。
ミレナは目を覚ましていた。彼彼女は崩れた壁の向こう側を睨みつけていた。その横顔だけで、夜の間に何者かの襲撃を受けたのだと分かる。
「な、何が……ここで?」
「さぁ? 少なくとも、何者かがここで私を殺そうとしたのは確かでしょうね。」
「さっ、さぁって……」
ミレナの視線は鋭く、まだ完全に回復していない体調を押して臨戦態勢をとっているようだった。
ミレナの口から語られたのは、ごく短い経緯だった。深い眠りに落ちていた最中、突如として建物を揺るがすほどの凄まじい衝撃が部屋を襲ったという。
壁が砕け散る轟音と共に大量の瓦礫が降り注ぎ、朦朧とする意識の中で跳ね起きた時には、すでにこの惨状が広がっていたのだと。
襲撃者の姿はすでになく、ただ破壊の痕跡と吹き抜ける冷たい風だけが残されていた。
「ミレナさん、怪我は……?」
アヤトは崩落した壁の惨状に息を呑みながら、彼女の身体を案じる。
「幸い直撃は免れたわ。けれどもし、目覚めるのがあと少し遅れていたら、瓦礫の下敷きになっていたでしょうね」
リノアが駆け寄り、ミレナの体調を素早く確認する。
「魔力枯渇の影響はまだ色濃く残っていますが、新たな外傷はないようです。でも、無理はしないでください」
「貴方は……。確か、森で?」
「えぇ、その。リノアといいます」
リノアの自己紹介を受け、ミレナは鋭い視線で彼女を上から下まで観察する。
アヤト同様、見慣れない奇抜な装いではあるが、自分の体内に残る治癒魔法の温かな痕跡が、この少女によるものだと理解するのに時間はかからなかった。
「……そう。貴女が応急処置をしてくれたのね。感謝するわ」
素直な謝意の言葉に、リノアは控えめに首を横に振る。
「いえ、わたしは少しだけお手伝いをしただけです。それに綾人さんが、必死にミレナさんを運んできたんですから」
その言葉を聞いたミレナは、瓦礫の横で所在なげに立っているアヤトへと冷ややかな視線を向ける。
「ふぅん、ポーターとしての最低限くらいの仕事はしたようじゃない。まっ、そこだけは評価してあげてもいいわよ?」
「はぁ……」
相変わらずの傲慢な物言いではあったが、その声色には以前のような他者を傷つけるような鋭い棘は、わずかに鳴りを潜めていた。




