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3-12

 冷や汗を拭いながら、アヤトは目の前で微笑むリノアの様子を窺う。

 このまま流されていては駄目だ。誤魔化しきれない嘘をついたまま、彼女の底知れない優しさに甘え続けることなどできない。


 アヤトは意を決して、フォークを置き、居住まいを正した。


「リ、リノアちゃん! あのさっ、やっぱりちゃんと説明させてくれないかな? 俺実は、ミレナさんの病室来る前に――」

「あっ! パンがもう一つありましたね。せっかくですから、温め直してきますね。あぁ、そうそう。シチューのおかわりもまだありますから、遠慮しないで食べていってくださいね」



 リノアはアヤトの言葉を遮るように立ち上がり、空になった皿を手に取ろうとする。

 またしても完全に封殺されそうになり、アヤトはたまらず少しだけ声を張った。



「ねぇ……リノアちゃん。怒ってる、よね?」



 その直球の問いかけに、リノアの動きがピタリと止まる。

 静寂が居間に降りた。鍋の中でシチューが微かに煮立つ音だけが聞こえる。


 やがてリノアは、ゆっくりと振り返った。

 空になった器へ伸ばしかけていた彼女の手が宙で凍りつき、部屋を包んでいた温かな空気が急激に温度を下げる。

 橙色の瞳が微かに揺らぎ、彼女はゆっくりと息を吐き出しながら手を引っ込めた。



「……いえ、怒ってなんかいませんよ」



 穏やかな、それでいて温度を感じさせない声。

 彼女は立ち上がると視線をアヤトから外し、部屋の奥へと視線を向けた。



「それより、お風呂の準備ができています。お湯が冷めないうちに、さぁ先に入ってきてください」



 有無を言わさぬ、静かな圧力。

 それは提案ではなく、明確な拒絶の合図だった。

 彼女の笑顔の奥にある拒絶の壁を前に、アヤトはそれ以上、言葉を紡ぐことができなかった。


「う、うん……。ありが、と」



 彼が重い足取りで洗い場へと向かい、扉が完全に閉ざされるのを見届けると、リノアはその場で肩をすくめ、俯いた。






 静寂が戻った居間で、リノアは服の胸元をぎゅっと握りしめた。

 怒っていない、というのは嘘になる。だが、それ以上に彼女の心を支配していたのは、どうしようもないほどの惨めさと、泥のように重い暗い感情だった。



 アヤトの服から漂ってきた、むせ返るような甘い花の香り。

 それは、絶対にミレナのものではない。ミレナの傍で夜通し看病を続けていたリノアには、確信があった。あの銀髪の少女からは、血と汗、そして魔物との過酷な死闘を思わせる鉄のような匂いしかしていなかったからだ。



 ならば、あの香りは誰のものなのか。

 彼がギルドへ赴き、治療院へ戻ってくるまでのわずかな時間で、あれほど濃厚に匂いが移るほど近づいた相手。


 見知らぬ女性の影が、彼の背後にはっきりとちらついていた。


 リノアは目を伏せ、血が滲むほど強く唇を噛む。

 あの銀髪の美少女、ミレナ。彼女が倒れたとき、アヤトがどれほど必死に命を救おうとしていたか、その切実な姿はリノアの目に焼き付いている。

 身を挺してでも守り抜こうとするほどの相手なのだから、彼にとってミレナが特別な存在であることは疑いようがなかった。


 それなのに、彼の背後にはさらに別の女性の影がちらついている。



 昨日出会ったばかりの自分が、彼の人間関係に口を挟む権利などないことは痛いほど分かっている。

 自分はただの恩人でしかなく、彼の過去や事情を知る由もない。特別な関係でもなんでもないのだと、彼自身の口からきっぱりと否定されたばかりではないか。


 唯一の繋がりである、この世界に来る前の『あの一日』。一年前に出会ったあの日の一件ですら、彼は覚えていないという。彼にとっては、この世界での出会いこそが「初めまして」なのだ。



 頭では理解しているはずなのに、胸の奥で渦巻く黒く重い感情が、リノアの呼吸を浅くさせる。この苛立ちは、彼に向けたものというより、そんな暗い感情を抱いてしまう自分自身へのものだった。


 誰に向けたらいいのか分からないこの苛立ちと、自分の立ち位置の脆さに、リノアはただ服の胸元を強く握りしめることしかできなかった。



「こんなこと……。でも、また。お父さんや、お母さんに『ごめんなさい』って言えないままお別れのようなことはもうしたくない。わたし……」



 静寂に包まれた居間で、リノアは自身の胸元を力強く握りしめたまま、小さく震える息を吐き出した。

 固く閉じた瞼の裏に浮かぶのは、元の世界で過ごした最後の夜の記憶。


 些細なすれ違いから生じた両親との口論。


『――どうして分かってくれないの!? お父さんとお母さんなんて大嫌い!』


 心にもないひどい言葉を投げつけて、制服姿のまま家を飛び出してしまった。


 まさかあれが、家族と交わす最後の会話になるなどと誰が想像できただろうか。

 見知らぬ異世界に放り出され、帰る術もなく途方に暮れたあの日から、どれほどの涙を流したか分からない。

 縁あって優しい老女に拾われ、この街で懸命に生きることで、心の奥底に開いた虚無感を必死に埋め合わせてきた。

 それでも消せない両親との思い出。――そして、その日に出会った一人の少年の記憶。


 もう一度だけでいいから、両親に会って「ごめんなさい」と謝りたい。そして、あの時に出会った少年に会って、お礼を言いたい。

 この世界に転がり落ちてきてからも、あの夜の記憶だけを心の支えにして、今まで頑張ってこられた。



 それが現実になった。両親はいなかったが、会いたかった一人に会えたのだ。森で倒れそうになっている彼の姿を見たとき、すぐに分かってしまった。


 泥と汗にまみれていたけれど、あの日出会った少年であることに間違いはなかった。


 ただ残念なことに、彼はこちらの世界に来て間もないせいなのか。それとも、ただ気まぐれな善意で人助けをしただけだったからか、リノアの顔など、まったく覚えてはいなかった。


 リノアは深く息を吸い込み、両手で自身の頬を包み込む。

 後悔しても、過去は変わらない。自分が今できることは、両親に伝えられなかった分まで、目の前にいる大切な人たちに誠実に向き合うことだけだ。



 ――どれほど時間が経っただろうか。

 洗い場へと通じる扉の向こうから、彼が体を拭き着替えを済ませる衣擦れの音が微かに届く。

 やがて蝶番が軋む音と共に扉がゆっくりと開き、湯気を纏ったアヤトが居間へと戻ってきた。



「……あ、あの。お風呂、ありがとう。その……すごくさっぱりしたよ」



 どこか居心地の悪そうな顔で、アヤトは借り物の衣服の裾を弄りながら口を開いた。

 リノアは一度目を閉じ、自身の中に渦巻いていた暗い感情を全て奥底へと封じ込める。

 そして、いつものような温かな笑みを浮かべて彼を明るく迎えた。



「それは良かったです。綾人さん、身体の芯まで温まりましたか? まだ夜は少し冷えますから、温かいお茶を淹れますね」



 椅子から立ち上がり、何事もなかったかのように振る舞う彼女の背中を、アヤトは静かに呼び止めた。



「待って、リノアちゃん。……その前に、話。少しだけでいいから聞いて、くれないかな?」



 その声の真剣な響きに、リノアの足が止まる。

 振り返るとそこには、これまでの気まずさを振り払うように、真っ直ぐな視線を向けてくるアヤトの姿があった。



「誤魔化すようなこと言ってごめん! ミレナさんの病室に来る前に……俺、女の子と、会って話してた」

「――ッ!」


 リノアの心臓が、微かに跳ねる。

 聞きたくないという思いと、真実を知りたいという思いが交錯する。

 彼女は無言のままテーブルの縁をきつく握りしめた。

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