3-11
――それから数時間が経過したころ。
窓の外の景色が徐々にオレンジ色から深い群青色へと変わり、夕暮れから夜へと移り変わっていた。
アヤトは眠り続けるミレナを一瞥し、重い足取りで星明かりの治療院を後にした。
大通りには魔石の街灯が灯り始め、探索を終えた冒険者たちや街の住人たちの賑やかな声が交差している。
だがアヤトの足取りは、その活気とは裏腹に鉛のように重い。
(……帰りづらい。死ぬほど帰りづらい。絶対怒ってたもんなリノアちゃん)
足を引きずるようにして石畳を歩きながら、アヤトは深い溜息を吐き出した。
あの冷え切った瞳と、病室を足早に去っていったリノアの背中が、脳裏に何度もフラッシュバックする。
彼女は明らかに怒っていた。いや、怒っていたというより、失望していたと言うべきか。
シレナと会ったことを隠した自分の不自然な態度と、服に染み付いた甘い香水のような匂い。
それが、献身的に世話を焼いてくれていた彼女の心をどれほど傷つけたのか。
(なんとかして誤魔化すか? いや、あれだけ不自然に動揺したんだから、今更嘘を重ねても逆効果だろ……。でも、シレナちゃんとの約束を破るわけにも……あー! どうしたらいいんだ)
思考が堂々巡りを繰り返すうちに、気がつけば見覚えのある小さな木造の家の前に辿り着いていた。
窓からは温かなオレンジ色の灯りが漏れ、煙突からは食欲をそそる煮込み料理の匂いが漂ってきている。
アヤトは玄関の古い木扉の前で立ち止まり、ゴクリ、と固唾を呑み込んだ。
(まずなんて言う?とりあえずごめん。からか? それから……)
震える手で、ゆっくりとドアノブに手を掛ける。
カチャリ、と小さな音が鳴り、鍵は掛かっていなかった。扉が軋む音を立てて開く。
「えっと……。お邪魔しまぁす」
恐る恐る家の中へと足を踏み入れる。
玄関先で靴を脱ぎ、居間へと繋がる薄い扉の向こうの気配を伺った、その時だった。
「――おかえりなさい、綾人さん」
パタパタと足音を立てて居間の扉が開き、ふんわりとした笑顔を浮かべたリノアが姿を現した。
制服の上から可愛らしいエプロンを身に着け、笑顔で少年の帰りを迎える姿は、まるで聖母のようだった。その顔には、数時間前に病室で見せた冷ややかな感情の欠片も、怒りの色も微塵もなかった。
まるであの気まずいやり取りなど、最初から無かったかのような完璧な出迎えだった。
「えっ……あ、うん。ただいま」
予想外の歓迎に、アヤトは目を丸くして完全に虚を突かれてしまった。
もっと冷遇されるか、無表情で淡々と出迎えられるかのどちらかだと想像していただけに、彼女の笑顔が逆に怖かった。
「もうすぐお夕食できますからね。手を洗ったら、座って待っていてくださいね」
リノアは流れるような動作でアヤトの背中を押し、洗い場へと促す。
アヤトは彼女に促されるままに手を洗い、居間のテーブルについた。
ほどなくして、リノアが木製のお盆に乗せて夕食を運んできた。
コトコトと煮込まれた温かいシチュー、新鮮な野菜のサラダ、そして香ばしく焼き上げられたパンが二つ。
「さぁ、どうぞ。冷めないうちに召し上がってくださいね」
リノアは自分も向かいの席に座り、両手を合わせる。
「いただきます」
「えと、い、いただき……ます」
アヤトも合わせるようにぎこちなく手を合わせ、木製のスプーンでシチューを口に運んだ。
野菜の甘みが溶け込んだ優しい味だが、今の彼にはその味が、どこか遠くに感じられた。
(やべぇ。いや、これ絶対に怒ってるパターンだろ……。静かな怒り? ってやつだ)
チラリと様子を伺うと、リノアは美味しそうにパンをかじっている。
その表情に、険悪な空気は微塵もない。
「――あのさぁ、リノアちゃん。その、昼間の件だけど」
「綾人さん、シチューのお味はいかがですか?」
アヤトの言葉を遮るように、リノアがふんわりとした笑顔で尋ねてきた。
「えっ? あっうん。それはもちろん、すっごく美味しいよ。……じゃなくて、昼間の匂いのことなんだけど、あの」
「よかったです! 前におばあちゃんに教わった通りに、少しだけ隠し味を入れてみたんですよ。綾人さんのお口に合って安心しました」
リノアは嬉しそうに微笑みながら、アヤトの言い訳を完全に封殺する。
その笑顔は完璧なまでに柔らかい。けれど、そこには「それ以上言わないでくださいね」とでも言いたげな、静かな圧があった。
「そ、そうなんだ。隠し味か。は、はは……」
アヤトは力なく引き下がり、再びシチューを口に運ぶ。
このままでは埒が明かない。 それに、これ以上下手に取り繕うのは無理がある。石の件はともかく、シレナと会ったことに関しては隠さないほうが賢明かもしれない。
「そのリノアちゃん。――実は治療院に来る前なんだけど、そこで」
「サラダのお野菜も、ちゃんと食べてくださいね? あっ! 残したらだめですよ? ほらさっきからトマトに手をつけていませんね」
リノアは、アヤトが少しでも弁明しようと口を開くたびに、絶妙なタイミングで別の話題を振り、その言葉を塞いでいく。
その表情は常に穏やかで、声のトーンも一定だ。
その完璧なまでの『普段通り』が、アヤトには逆に恐ろしかった。
まるで薄氷の上を歩かされているような、目に見えないプレッシャー。
「あ、えっと。トマトはその」
「だめですよぉ? 好き嫌いはよくありませんからね」
リノアはまるで幼い子どもにでも言い聞かせるような、優しい笑みを浮かべていた。
怒鳴られているわけではなければ、責められているわけでもない。
もちろん睨まれているわけでもない。――それなのに、彼女のその普段通りの優しさが逆にアヤトの恐怖心を煽っていた。
(こ、こえぇ……)
ある意味、ミレナのように怒りを剥き出しにしてくる相手は分かりやすい。
謝ればいいのか、弁解すればいいのか、まだ判断できる。
ただリノアはそうではない。
笑顔。終始、笑顔を絶やさない。こちらが例の件を切り出そうとしても、それを封殺するかのように。
その話題は、この食卓にも、この空間にも存在することを許さない、とでも言うかのように。
アヤトが何かを話そうとするたび、ふわりと別の話題へ誘導する。
気付けば会話の主導権は完全にリノアが握っており、アヤトはただ流されるまま、食事を続けることしかできなくなっていた。
(やべぇって。なんでリノアちゃんあんな怒ってるんだろう……。確かにバレバレの嘘だったけど。そんなに怒る!?)
恐る恐る視線を上げる。リノアはちょうどスープを口に運んでいるところだった。
「ふぅ……」と小さく息を吐き、満足そうに微笑む。どこからどう見ても、普段通りのリノア。
「さぁ綾人さん?」
「は、はい……」
言われるがまま、アヤトは震える手で問題のトマトをフォークで突き刺し、口へと運ぶ。もはや味などしない。頭の中で不安だけがよぎり、冷や汗をかきながら、夢中で咀嚼を繰り返し、トマトを呑み込んだ。
「はい、よくできました。えらいですね」
「はい……。ありがとう、ございます……」
思わず返事をしてしまった自分に気付き、アヤトは内心で頭を抱えた。
(どうすりゃいいんだこれ……)




