3-10
『――ミレナさんに直接お聞きするのは、遠慮していただけますかぁ?』
ミレナの顔を窺った瞬間、脳裏に記憶が走る。彼女の言葉通り、ミレナが青い石を所持しているのかは定かではない。
ミレナの機嫌を損ねるリスクを冒してまで石の件を深掘りする理由など、今のアヤトには一切ない。
何よりも、あの可憐なシレナと交わした『二人だけの秘密』という、極上に甘美な約束を破るわけにはいかなかった。
(今は……ミレナさんが目を覚ますことだけを祈るしかない。起きたら、きちんと報酬がなかったことを報告するしかない、か)
アヤトは心の中で固く決意し、小さく頷いた。
余計な勘繰りをして、自分から墓穴を掘るような真似だけは絶対に避けなければならない。自分の身の安全を守り、シレナとの関係を今後も良好に保つためには――沈黙。それこそが最善の選択なのだ。
「えっと……綾人さん? どうかしましたか? 少しお顔が険しいようですけれど……」
じぃっと、ミレナを見下ろしたまま微動だにしないアヤトを心配し、リノアが小首を傾げて覗き込んでくる。
「あっ、いや! ……なんでもないよ。ただ、ミレナさんが起きた時のことを想像したら、ね。ちょっと胃が痛くなってきちゃってさ。ほら、やっぱり報酬ゼロだったから……」
「あぁ……そうだったんですね」
リノアも困ったように苦笑いを浮かべ、同情するように眉を下げた。
「大丈夫です。綾人さんだってあの後、必死に動けなくなったミレナさんを街まで運ぼうと頑張ったじゃないですか。ミレナさんだって正直にお話すれば分かって頂けると思いますよ」
その純粋な心配の眼差しにアヤトは慌てて表情を緩め、誤魔化すように頭を掻いた。
「はは、だといいんだけどね」
アヤトは乾いた笑いを漏らしながら、再びミレナへと視線を戻す。正直、感謝の言葉など微塵も期待できない。というよりも、あの『暴君』が素直にそんなことを言うだろうか……。
目を覚ませばすぐにまた『椅子』として扱われ、理不尽な命令を下される未来しか考えられなかった。
それでも、今はただ静かに眠り続ける彼女の規則正しい呼吸音だけが、病室の空間を穏やかに満たしていた。
「大丈夫です。いざとなったらわたしも一緒に謝りますから……。それでもミレナさんの機嫌がよろしくなかったときは……一緒に怒られちゃいましょうか? えへへ……」
冗談めかして笑うリノアだったが、その声音には本気で自分を庇おうとする優しさが滲んでいた。
その言葉にアヤトも感動を覚え、「ありがとう」の五文字が喉元まで出かかりそうになった。
ただ、ふと冷静に考えた時、はっとなる。一緒に怒られる、ということは無関係のリノアまで巻き込むという事。
(いやいや。それはよくないような……)
みすみす自分のせいで被害者を増やしてしまうのは、いくらなんでも申し訳なさが勝った。
「うん、気持ちは嬉しいんだけど、できればリノアちゃんは逃げてほしいかな」
「そう、ですか?」
病室に微かな風の音が響く。カーテンがゆらゆらと風に揺れ、また元の位置へ戻る。
眠り続けるミレナの青白い顔を見つめながら、アヤトとリノアは静かな時間を共有していた。
互いに言葉を交わすわけでもなく、ただ規則正しい呼吸音だけが、張り詰めていた二人の心を少しずつ解きほぐしていく。
ふいに、リノアが小さく鼻を鳴らした。
最初は気のせいかと思ったが、彼女は明らかに何かを嗅ぎ取るように、何度か短く息を吸い込んでいる。
「えぇっと、その、綾人さん……?」
不思議そうな、それでいてどこか探るような声。
アヤトが振り向くと、リノアは首を傾げ、橙色の瞳でじっとこちらを見つめていた。
これまでの穏やかな慈愛の眼差しとは違う、どこか不安そうな表情。
「ん? ど、どうかしたのかな」
「あ、えっと。なんだか、綾人さん。そのぅ……香りがするような」
「えっ?」
アヤトは思わず自分の服の袖口を嗅いだ。
今朝リノアの家で風呂に入った時に借りた、服の匂い。石鹸の清潔な香りはするが、彼女が言うような『甘い匂い』などしないはずだ。
「そう? 石鹸の匂いじゃないかな」
「いえ、違います。なんというか……お花のような、香水、のような……」
リノアはさらに鼻をひくつかせ、無意識のうちにアヤトへと顔を近づけてくる。
その距離が思いのほか近く、アヤトは朝の出来事を思い出してしまい、顔を赤くしてドギマギと身を引いた。
「こ、香水!? 俺そんなのつけないよ」
この世界に来てから、いやそもそも日本にいたときからも、香水のようなものを使用したことは一度だってない。アヤトは必死に否定したが、脳裏に一つの映像がフラッシュバックした。
――ふわりと鼻先をくすぐった、甘い花の香り。
そして、腕に押し当てられた柔らかな感触。
意図的に密着させられたそれによって、アヤトの脳内は瞬時に沸騰し、微かに抱きかけていた疑問も、思考のすべてが忘却の彼方へと葬られた。
『あひっ……し、シレナちゃん……む、む、むむむ胸が、ががが』
『ひゃぁん! ごごごっ、ごめんなさい。わたしったらつい……』
シレナは耳まで真っ赤に紅潮させながらわざとらしくのけ反り、両手で自身の胸元をギュッと隠すように身をすくめた。
その瞳はほんのりと潤んでおり、何度も視線を合わせては逸らした。
『ご、ごめんなさい……わたしったら、つい嬉しくて……はしたなかった、ですよね……』
先ほど、大通りでシレナと交わした会話。
彼女が不意に身体を密着させ、自身の腕がその豊かな膨らみに触れた時の、あの生々しい感触。そして、その時にふわりと漂ってきた、むせ返るような甘い花の香り。
(ま、まさか……あのときの、シレナちゃんの?)
アヤトは顔から血の気が引くのを感じた。
シレナとの密会。そして『二人だけの秘密』。それがこんな形で露呈するなど、微塵も想像していなかった。不幸中の幸いは、ミレナが今の話を聞いていないことだった。
「あ、いや! これはその、あれだよ! ギルドに行った時に、すれ違った女の人の冒険者の匂いが移ったとか、そういうやつ! ほら、ギルドっていろんな人がいるし! ね?」
裏返った声で、身振り手振りを交えて必死に弁解する。
しかしその不自然すぎるほどの動揺は、かえってリノアの疑念を一層深めるだけだった。
「そうですか……? でもすれ違っただけで、こんなにしっかりと匂いが移るものなんでしょうか……。まるで、かなり密着していたかのような……」
リノアの瞳が、スッと細められた。
いつもは温かく優しい橙色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、温度のない冷ややかな光が宿ったのを、アヤトは見逃さなかった。
「綾人さん。ギルドからここに来るまで、少し時間がかかっていたようですが……寄り道でもされたんですか? それとも、誰かにお会いになったとか?」
問い詰めるような口調ではない。あくまで世間話の延長のような、穏やかなトーン。
だがその声色には、嘘を許さない静かな圧があった。
「よ、寄り道なんてしてないよ! たっ、ただ、ギルドの受付でちょっとゴタゴタがあって……それで遅くなっただけで! ほら、報酬の件とかでさ!」
アヤトは冷や汗を流しながら、必死に取り繕う。
シレナとの接触を隠さなければならないという焦りが、彼の言葉をひどく上擦らせていた。
「そう……なん、ですか」
リノアはそれ以上深く追及することはなかった。
だが、その眼差しには明らかな疑いの色が残っている。彼女は小さく息を吐くと、再びミレナの額のタオルを替える作業へと戻った。
病室に重苦しい沈黙が降りる。
先ほどまでの穏やかな空気は消え去り、居心地の悪さだけが空間を満たしていた。
「――あの」
いたたまれなくなったアヤトが、何か言葉を探そうと口を開きかけた時だった。
「わたし、先に帰りますね」
ふいに、リノアが立ち上がった。
その声はひどく平坦で、感情が読み取れない。
「え? あっ、えと。その……」
「空き部屋はありますから、綾人さんは今日はうちで休めばいいですよ。……夕食を作っておきますので、後で来てください。お洗濯した服も預かっていますしね」
それだけを告げると、リノアはアヤトの顔を見ることもなく、逃げるように病室の扉へと向かった。
バタン。と静かに、だがどこか少しだけ拒絶を感じさせる音を立てて扉が閉まる。
一人取り残されたアヤトは、ただ呆然とその扉を見つめることしかできなかった。
彼女がなぜあんなにも急に態度を硬化させたのか。その理由が、あの『甘い匂い』にあることは明白だった。
(り、リノアちゃん怒ってる、よな? ど、どうしよう……)




