3-6
薄い木の板一枚を隔てた向こう側から、水面が揺れる音や、湯が床に落ちる微かな水音が否応なしに耳に届く。
アヤトは居間のテーブルに突っ伏したまま、両手で固く耳を塞ごうとする。
それでも、聴覚を遮断しようとすればするほど、静寂に包まれた家の中ではその音が、鮮明に脳裏へと反響するだけだった。
自分がひどく不純な思考に陥っていることを自覚し、自己嫌悪に苛まれながらも、年頃の少年の肉体と精神は容易には鎮まってくれそうにない。
(……考えるな。そうだ、善の精神だ。心を無にすれば、不純な想いなど……消える、消える……わけねぇだろうが!)
理性の堤防が、内側から押し寄せる本能の波によって徐々に決壊していく。
この見知らぬ異世界に放り出され、わけもわからないまま危うく死にかけた。
これくらい過酷な目に遭っているのだから、ほんの少しの役得というか、神様からのご褒美があっても罰は当たらないのではないか。――そうに違いない。いやきっとそうだ。
自暴自棄とも呼べる、ずいぶん身勝手な都合の良い言い訳が、急速に脳内を支配し始める。
気がつけば、アヤトは椅子から立ち上がっていた。
まるで目に見えない糸で引かれているかのように、ふらふらとした足取りで、洗い場へと続く扉の方へ向かう。
頭の片隅では激しく警鐘が鳴り響いているというのに、身体は全く別の生き物のように言うことを聞かなかった。
古い木目の扉が目の前に迫る。
手を伸ばせば今にも届く距離。あと少し、ほんの数センチだけ開けて隙間を作れば、その向こう側が……。見てはいけない、禁断の光景が。
呼吸を忘れ、無意識のうちに右手を持ち上げ、扉の縁へと指をかけようとした。
「――ッ!?」
扉の向こうから、不意に木桶が床にぶつかるような、コトンという物音がした。続いて、衣擦れのような微かな音が聞こえた。
まもなく彼女が、この扉を開けて戻ってくる気配が一瞬で伝わった。
その物音に、アヤトの肩がビクンと大きく跳ねる。
冷水を頭から浴びせられたように一気に理性が引き戻され、彼は火傷でもしたかのように慌てて右手を引っ込めた。
(っぶねぇ!!)
心臓が早鐘を打ち、全身からどっと冷や汗が吹き出す。
アヤトは足音を殺しながら、逃げるようにテーブルの席へと戻る。
まるで何事もなかったかのように背筋をピンと伸ばし、両手を膝の上で固く組んで硬直した。
それから数十秒後、蝶番が軋む音とともに扉が開く。
むせ返るような温かな蒸気とともに姿を現したのは、身支度を終えたばかりのリノアだった。
生成り色のゆったりとした部屋着を身に纏い、濡れた長い髪を布で拭きながら居間へと入ってきた。
湯上がりの白い素肌はほんのりと桜色に染まり、洗い立ての微かな石鹸の香りが部屋に広がった。
「すみません、お待たせしました……って、綾人さん? どうかなされたんですか?」
不自然なほど背筋を伸ばし、顔を引きつらせているアヤトを見て、リノアが不思議そうに小首を傾げた。
その無防備な姿と甘い香りに、アヤトの鼓動は再び跳ね上がったが、彼は必死にそれを押し殺した。
自分の下心を少しでも悟られまいとするあまり、その態度はひどく不自然でよそよそしいものになってしまう。
「あ、いや、何でもない! 全然待ってないし。あぁ、むしろ……そう、もっとゆっくり、ゆっくり入っててくれてもよかったっていうか、お風呂って最高だよね! うん! うひっ、いひひ……」
アヤトは明後日の方向を見つめながら、裏返った声で早口にまくし立てた。
リノアは目を丸くして彼を見つめていたが、それ以上深く追及してくることはなく、首を傾げながら様子のおかしい少年をただただ不思議がった。
「は、はぁ……?」
これ以上この空気を引きずるのは危険だと本能で悟り、アヤトは誤魔化すようにわざとらしく大きな咳払いをした。
「そ、それよりさ。俺、ちょっとギルドに行ってこようと思うんだ」
「ギルド、ですか?」
「うん。昨日、ミレナさんが倒した魔物の素材とか鉱石とか、まだあのデカい袋に入ったままだからさ。とりあえず換金しておかないと、これからの治療費とか生活費もどうなるか分からないし」
アヤトが部屋の隅に置かれた革製のズタ袋に視線を向けると、リノアも納得したように頷いた。
「なるほど、そうですね。でしたらわたしは、先に治療院へ向かって、ミレナさんの様子を見ておきますね」
「いいの? リノアちゃんも疲れてるのに」
「平気です。おばあちゃんのお薬の準備も終わりましたし、それに……わたしもミレナさんの容態が気になっていましたから」
彼女の申し出に、アヤトは胸を撫で下ろした。
一人で治療院に向かい、仮にミレナが目覚めて機嫌が悪かった場合、真っ先に理不尽な八つ当たりをされるのは目に見えている。
あえて言葉を選ばずに言うならば、『緩衝材』となってくれるリノアがいてくれるのは、アヤトにとって心強いことこの上なかった。
「ありがとう、助かるよ。じゃっ、換金が終わったらすぐ治療院に向かうから」
外出の支度を整え、二人は静かに家を出た。
すっかり日が昇っており、二人は石畳の敷かれた大通りを並んで歩いていく。
やがて交差点に差し掛かると、リノアが立ち止まって微笑む。
「ギルドはあちらの通りですね。わたしはここを右に曲がりますから、後ほど治療院でお会いしましょう」
「うん、気を付けてね」
小さく手を振って遠ざかっていくリノアの背中を見送った後、アヤトはずしりと重いズタ袋を背負い直し、冒険者ギルドのある方角へと足を踏み出した。
重厚な木の扉を押し開けてギルドの中へ入ると、朝の施設内には、昨日の夜に感じたような、荒くれ者たちの酒場めいた淀んだ空気はなかった。
壁の掲示板に群がり依頼を吟味する者、装備の手入れをしながら仲間と談笑する者など、これから仕事へ向かう冒険者たちの引き締まった熱気が満ちている。
昨日今日で冒険者登録をしたばかりの、見慣れないひ弱そうな男に、冒険者たちは興味すら示そうともしない。彼らはまるで最初からアヤトなどいないものかのように、談笑を続けている。
アヤトはそんな彼らを無視して真っ直ぐに受付カウンターへと向かった。
カウンターには、以前も冒険者登録手続きを担当してもらった、黒髪で眼鏡姿の受付嬢が座っている。
「お疲れ様です。貴方は、えぇっとアヤト様でしたね」
「えぇ、はい。まぁ」
アヤトは苦笑気味に返事を返す。登録したばかりの新人の名を覚えられていたことが、少しだけ意外だった。どんな形であれ、ミレナと行動を共にしていたからだろうか。
「あのぅ、ミレナさんは? ご一緒ではないのでしょうか」
「――それが……」
アヤトは受付嬢に対し、昨日森で起きた事の顛末を手短に報告した。
「ええっ、ミレナさんが……? 命に別状はないとのことですが、あの凄腕の彼女がそこまで追い詰められるなんて、ノクスの森林で一体何が……」
受付嬢は驚きに目を丸くし、口元を片手で覆った。
ギルド内でも一目置かれている存在である彼女が倒れたという事実は、受付嬢にとっても少なからず衝撃だったようである。
「それで、まぁ。俺が代わりに昨日の依頼の報告と、道中で拾った素材の換金に来たんです」
アヤトは肩からずしりと重いズタ袋を下ろし、カウンターの上に置いた。
「承知いたしました。……ミレナさんが昨日お受けになった依頼は、……ええと。『糸吐きグールスパイダー』の討伐ですね。では、討伐証明部位の提出をお願いいたします」
受付嬢はプロフェッショナルな表情に戻り、羊皮紙の束をめくりながら事務的に告げた。
「えっと……それが、その、ですね……」
アヤトは言葉を濁し、視線を泳がせる。
あの時ミレナの放った規格外の魔法は、巨大蜘蛛の分厚い外殻ごと胸郭を貫き、内側から破裂させ、細胞の一片すら残さず虚空へと消し飛ばしてしまった。
物理的な痕跡は何一つ残っていない。
「あのデカい蜘蛛は確かに倒したんですけど……いや証拠? っていうか、その……跡形もなく消し飛んじゃいまして。いや本当なんですよ!」
「……はい?」




