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3-5

「ちがっ! ごめん、今のは言葉の綾というか、はい、俺の脳が勝手に暴走しただけで……!」



 アヤトも自分の失言に気づき、顔を真っ赤にしながら両手を振って必死に弁解する。

 しかし完全に許容量を超えてしまったリノアの耳には、もう届いていないようだった。


 顔を背けたまま早口で言い捨てると、リノアは足早に部屋の奥へと駆け出していった。

 勢いよく扉が閉まる音が響き、アヤトは再び一人取り残される。



 テーブルの上に残された二つのカップからは、まだ微かに湯気が立ち上っている。

 アヤトは自分のあまりのデリカシーの無さに、今度こそ床に突っ伏して頭を抱え込むのだった。



(やっべぇ……。今のは流石にまずったか?)



 自業自得とはいえ、あんなにも真っ赤になって怒る彼女の姿はひどく新鮮で、それでいて致命的なほどに可愛らしかった。


 床の木目に視線を落としながら、アヤトは先ほどからのリノアの言動を頭の中で反芻する。



(それにしても……)



 『お母さんの家事をお手伝いしていた』という言葉。

 その直後に見せた、あからさまな動揺と苦しすぎる言い訳。



 昨日、馬車の中で彼女が着ていた『ガク・セイ・フク』なる謎の伝統衣装もそうだ。

 あれはどう見ても、現代日本の女子高生が着る指定制服そのもの。


 胸元のエンブレムには『白花』という漢字まで刺繍されていた。

 この異世界で、あんな文字が偶然デザインされる確率など天文学的に低いだろう。



(――白花、白花……なんか聞いたことあるような。確か……そう、白花学園……? 結構いいとこの高校だったよな?)



 記憶が正しければ、県内でも有数の進学校のはず。

 その生徒が、なぜこんな異世界で一人、見知らぬ老婆と暮らしているのか。



(リノアちゃんも、多分。日本からここに来たんだよな……?)



 アヤトの中で、その推測はもはや確信へと変わっていた。


 言葉の端々に滲む現代日本的な感覚や、あの家庭的な料理の味付け。どれをとっても、このファンタジー世界で生まれ育った人間のものとは思えない。


 もし彼女が自分と同じ境遇なら、同郷の人間に出会えたことを喜んでもいいはずだ。仮に自分がリノアの立場であるならば、間違いなく嬉しいし、安心もするだろう。


 現にアヤト自身、もし彼女が日本人だと確定すれば、この心細い世界でどれほど心強いか分からない。

 それなのに、彼女はなぜあんなにも頑なに自分の素性を偽り、過去を隠そうとするのだろうか。



(『両親はいない』って言ってたのも……こっちじゃなくて、元の世界に。だから、そう言わざるを得なかったのか?)



 だとしたら、先ほどの『お母さん』という言葉に対するあの動揺も納得がいく。

 彼女は、元の世界にいる家族を、今も強く想っているのだろう。


 その想いを、見知らぬ異世界で、血の繋がらない相手に『ご近所付き合い』などという言葉で誤魔化さなければならない彼女の心境は、いかばかりか。



 彼女が抱えている事情は分からない。

 この世界に来てどれくらいの月日が経っているのか。

 なぜ病気がちな、あの『おばあちゃん』と暮らしているのか……。


 それにもう一つ、何よりも気がかりなことがある。彼女が既に自分のことを知っていたことだ。



 森でミレナを背負って歩いていた時、あるいは馬車の中で名前を言う前。彼女は既に、自分のことを知っているかのような素振りを見せていた。


 だが、アヤトが通っていたのは『常盤坂ときわざか高校』だ。県内でもごく普通の公立校である。



 一方、リノアの制服のエンブレムにあった『白花』は、おそらく白花学園。

 高校が違う。接点もまったくないはずの他校の女子生徒が、なぜ自分のことを知っているような反応をしたのか。



(リノア……リノア? そもそもリノアって名前も本名なのか? けど、なーんか聞いた事あるような、いや、ないような)



 記憶の糸をいくら手繰り寄せても、彼女の顔に結びつくような出来事は見当たらない。

 考えても答えが出ない迷路に入り込みそうになった時、部屋の奥の扉越しに控えめな声が届いた。



「綾人さん……あの、お湯、沸きましたから……どうぞ」



 まだ声には微かな震えと恥じらいが混じっている。

 先ほどの失言を思い出し、アヤトは慌てて立ち上がった。



「あ、ありがとう! 今行く!」



 扉の外には、綺麗に畳まれた見慣れない衣服を胸に抱えたリノアが立っていた。

 彼女はアヤトと目を合わせないように、少し視線を落としたままそれを差し出してくる。



「その……昨日から着ていたお洋服、かなり泥とかで汚れてしまっているので、わたしがお洗濯しておきますね。その間の着替えなんですけど……」



 差し出されたのは、麻のような丈夫な布地で作られた、この世界では一般的な村人や冒険者が着るようなシャツとズボンだった。



「おばあちゃんの旦那さん……わたしにとっては、もう他界してしまったおじいちゃん服なんですけど。綺麗に洗ってしまってあったので、よかったら着てください。……少しサイズが合わないかもしれないですが、一時的にでも」



「本当に何から何まで、ありがとう。洗濯までやってもらうなんて、悪いね」



 アヤトがありがたくそれを受け取ると、リノアはまだ少し頬を赤らめたまま、ふるふると首を横に振った。


「いえ……。冷えないうちに、早く入ってきてくださいね」



 大きな木桶にはたっぷりと湯が張られており、心地よい湯気が立ち上っている。


 泥と魔物の体液で汚れた学生服を脱ぎ捨て、手桶で湯を被る。

 温かな湯が肌を伝い落ちるたび、昨日からの過酷な死闘による疲労と恐怖が、少しずつ洗い流されていくような気がした。



「はぁ……やば。生き返るわこれ」



 ふと、自分の左胸元に目を落とす。心臓は、相変わらず昨日の死闘の余韻を感じさせるかのように、規則正しく、しかしどこか早鐘を打つように鼓動していた。



「……ま、今は考えるのやめよう」


 短く呟き、アヤトは手桶で勢いよく湯を被った。頭から滴る湯の熱さが、沈んでいた思考を無理やり引き剥がしていく。



 洗い場から出て、リノアに借りた服に袖を通すと、生地の硬い感触が新鮮だった。まだ自分の体には少しだけ大きく、袖口からは風が入り込む。


「綾人さん、終わりましたか?」


 外で待っていたリノアが、アヤトの声を聞きつけて戻ってきた。

 先ほどまで恥ずかしがっていたのが嘘のように、彼女はどこか事務的な、それでいて優しい表情でこちらを見つめていた。



「あ、うん。ありがとう」

「いいえ、あの……」



 言い淀むように視線が泳ぐ。

 さっきまで普通に話していたはずなのに、改めて風呂上がりの姿で向き合うと、どこか落ち着かなかった。



「ん?」

「あぁ、いえ、わたしもお風呂入りたいので、その」



 一瞬遅れて意味を理解し、アヤトは慌てて身を引いた。


「あっ……ごめん」

「……いえ。すみません……」



 沈黙が妙に長い。

 アヤトは慌てて木桶を後にし、リノアに場所を譲った。洗い場と母屋を隔てる薄い木の扉は、防音など期待できるはずもなく、内側から響く衣擦れの音や、柔らかな湯の音が否応なしに耳に届いてしまう。



 アヤトは居間のテーブルに力なく突っ伏し、さっきまでの気まずさと、これから訪れるかもしれない更なる恥ずかしい状況を想像して、悶絶しそうになっていた。



(今……この向こうで、リノアちゃんが。……服脱いで、お風呂に。……いやいやいや。いかん、いかん! 何想像してんだ俺)



 自分に言い聞かせるように頭を振るが、一度芽生えた邪念は、静寂の中でかえって際立ってしまう。

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