3-4
祖母が申し訳なさそうに、けれどどこか楽しげに目を細めて引き下がる。
誤解は解けた。これで先ほどまでの、ひどくいたたまれない空気は消え去るはずだった。
けれどもアヤトの言葉を聞いたリノアの表情からは、先ほどまでの熱に浮かされたような動揺がすっと引き、代わりにどこか別の感情が浮かび上がっていた。
「……ええ、そうです。綾人さんの言う通り、わたしたちは昨日……知り合ったばかり、ですから……」
自分の膝の上に視線を落とし、小さく呟く彼女の声。
パニックが収まって安堵した、というよりは、アヤトの口から直接「昨日知り合ったばかり」、「彼氏ではない」と線を引かれたことへの、理屈ではない微かな寂しさが滲み出ているようだった。
掛け布団を握る彼女の指先に少しだけ力がこもり、伏せられた長い睫毛が微かに震える。
ほんの少しだけ下がった口元と、先ほどの熱気を失った声色が、彼女の内心に芽生えたささやかな『残念さ』を雄弁に物語っていた。
(なんでわたし、こんなに……)
胸の奥で燻り始めた正体不明の感情に、彼女自身が戸惑いを覚えた、まさにその時。
「――コホッ! ケホッ……」
祖母の細い体が、突如として大きく跳ねた。
喉の奥からひどく掠れた、それでいて空気を切り裂くような激しい咳が部屋に響き渡る。
一度始まった発作は容易には収まらず、祖母は壁に手をついたまま、苦しそうに胸元を押さえて何度も肩を震わせた。
「お、おばあちゃん!?」
先ほどまでの微かな感傷など一瞬で吹き飛び、リノアは掛け布団を跳ね除けて祖母の元もとへと駆け寄った。
細い背中をさすりながら、血の気の引いた顔でその表情を覗き込む。
「だっ、だいじょう……ぶ、ですか?」
アヤトも慌てて立ち上がり、手を貸すべきか迷いながら二人の傍へと歩み寄った。
「ごめん、ねぇ……。少し、冷えた空気を吸い込んじゃったみたいで、ね……」
途切れ途切れに紡がれる言葉すらも、苦しげな呼吸に掻き消されていく。
リノアは祖母の体をしっかりと支えながら、アヤトの方へと振り返った。
「すみません綾人さん。今から昨日採ってきた薬草で、すぐに気管を広げるお薬を煎じます。おばあちゃんは奥の部屋へ連れて行きますから、綾人さんはここで少し待っていてください」
有無を言わさぬ真剣な表情。そこには、つい先ほどまで顔を真っ赤にしてパニックになっていた少女の面影はなかった。
アヤトはただ静かに頷き、道を空けることしかできなかった。
リノアに肩を支えられながら、祖母がゆっくりと奥の寝室へと消えていく。
やがてくぐもった音を立てて、古い木製の扉が閉じられると、部屋の中には再びアヤト一人だけが取り残された。
静寂が降りた空間には、窓から差し込む朝の光の筋と、空気中を舞う細かな埃だけが残されていた。
アヤトは所在なげに視線を彷徨わせた後、自分が先ほどまで寝ていた布団の横に、力なく腰を下ろした。
(……なんか気まずい。ど、どうしよう。それに、なんか俺まずいこと……言ったかな?)
台所のほうから、薬草をすり潰す微かな音が聞こえてくる。
アヤトの脳裏には、先ほど「昨日知り合ったばかりだ」と告げた時の、彼女のほんの少しだけ悲しそうに伏せられた視線がこびりついて離れない。
嘘は言っていない。事実を伝えただけだ。
それなのにどうして、あんなにも罪悪感を煽られるような表情をさせてしまったのか。
一人残された部屋の中、なんとも言えない気まずさと己の無神経さへの微かな後悔が入り混じり、アヤトは深く息を吐き出しながら頭を抱え込んだ。
――どれほどの時間が経っただろうか。
頭を抱えていたアヤトの耳に、軋むような音を立てて静かに扉が開く音が届いた。
顔を上げると、空になった小さな木の器を手にしたリノアが、ほっとしたような表情で戻ってくるところだった。
「すみません、お待たせしました。お薬が効いて、呼吸も落ち着きました。……今はもう、静かに眠っています」
その報告に、アヤトは胸を撫で下ろして立ち上がった。
「そっか、よかった……。やっぱりリノアちゃんはすごいね。薬草の知識とか、看病の手際とかさ」
「そんな、すごいだなんて……」
リノアは照れたように微笑むと、手にした器を洗い場へと持っていく。
そのまま流れるような動作で湯を沸かし、戸棚から茶葉を取り出すと、手早く二人分のお茶を淹れ始める。
道具を扱う所作に一切の無駄がなく、背中越しに見るその姿は、長年台所に立ち続けてきた熟練者のような安心感を漂わせていた。
馬車の中で見せた献身的な看病や、先ほどの温かく美味しいスープ。
そのあまりにも家庭的で手慣れた様子に、アヤトは感心したように言葉をこぼした。
「本当に、なんでもできるんだね。料理とか家事とか、すごく手慣れてるっていうか」
褒められたリノアは、温かな湯気を立てる二つの木製のカップをテーブルに運びながら、嬉しそうに目を細めた。
「ふふっ、ありがとうございます。昔から、よくお母さんの家事をお手伝いしていましたから。そのおかげです」
カップを置き、向かいの席に腰を下ろそうとした彼女の言葉に、アヤトの動きがピタリと止まった。
「……え? お母さんの?」
「はい。母は別にいいよって、言ってはくれるんですけれどね。でも一緒にお母さんとお料理するのが好きで……」
懐かしむように語るリノアの言葉。
ただその内容は、アヤトの記憶にある彼女自身の過去の言葉と、決定的に矛盾していた。
「あれ? リノアちゃん、両親はいないって言ってなかったっけ?」
アヤトの指摘が静かな部屋に落ちた瞬間。
リノアの動きが、まるで時が止まったかのように完全に硬直した。
テーブルの縁に添えられていた手はピクリとも動かなくなり、穏やかな笑みを浮かべていた口元が、わずかに引きつっている。
「あっ……」
彼女の口から、小さく、ひどく間の抜けた声が漏れた。
蜂蜜色の瞳が激しく揺れ動き、見る見るうちに血の気が引いていくのがわかる。
自らの失言に気づき、致命的なミスを犯してしまったと悟ったのだろう。
リノアは慌てて視線をあちこちへと泳がせると、動揺を隠しきれない様子で両手で自身の口元を覆い隠した。
「えっと、それは……その」
激しく瞬きを繰り返し、彼女の頭脳がフル回転で言い訳を模索しているのが、傍目から見ても手に取るようにわかった。
「あ、あの! 違うんです! 今のはその……育ての親? と言いますか、村ですごくお世話になったご近所の方のことでして! あまりにも優しかったから、つい小さい頃からの癖で『お母さん』って呼んじゃってて……!」
身振り手振りを交え、早口でまくし立てる。
『ガク・セイ・フク』の時と同じ、明らかに苦しすぎる言い訳だった。
しかし彼女がこれ以上追求されたくない、触れられたくない事情があることだけは痛いほど伝わってくる。
アヤトはそれ以上踏み込むのは野暮だと悟り、努めて穏やかな声で頷いた。
「そ、そうなんだ。うん、そういうことってあるよね。うん、ご近所付き合い、大事だし……ね」
「は、はい! そうなんです、ご近所付き合いです!」
アヤトが同調してくれたことに、リノアは大げさなほど何度も首を縦に振った。
それでも依然として、部屋を覆う気まずい空気は拭い切れない。
なんとかこのいたたまれない空気から逃れようと、リノアはパンッと両手を打ち合わせた。
「そ、そうだ! お風呂! 綾人さん、お風呂に入りませんか!?」
「えっ、お風呂に入りませんかって……。 それって……ま、まさか一緒に!?」
アヤトの口から思わず飛び出したその言葉に、部屋の空気が一瞬だけ完全に静止した。
リノアは目を丸くして数秒間固まっていたが、やがてその言葉が意味する状況――『混浴』という事実を理解した瞬間。
みるみるうちに首筋から耳の先まで、火が点いたように真っ赤に染まった。
「なっ……ななななっ!?」
彼女は両手を胸元で交差させるようにして隠し、大きく数歩後ずさった。
「なっ、何を言ってるんですか!? あっ綾人さん! セクハラです!」
涙目になりながら放たれたその言葉は、怒りというよりも極度の羞恥とパニックからくるものだった。




