3-3
どれほどの時間が経過したのだろうか。
アヤトの意識が、暖かく心地よい暗闇の中からゆっくりと浮上してくる。
重い両瞼をこじ開けると、視界の端に白んだ窓の光がぼんやりと映った。
体を動かしてみると、体の節々に微かな気怠さは残っているものの、あの命を削るような絶望的な疲労感や重たさはすっかり抜け落ちていた。
(あれ……床?)
背中に伝わる硬い感触で、自分がベッドではなく床で寝ていることに気づく。どうやら食後にそのまま力尽きてしまったらしい。
深く息を吸い込むと、肺の中を満たしたのはほんのりと鼻腔をくすぐる甘い花と薬草の香りだった。
状況を整理しようと、アヤトはゆっくりと首を横に向けた。
自分の視界いっぱいに飛び込んできた光景に、アヤトの思考は完全に停止した。
「うえっ!?」
すぐ隣。手を伸ばせば触れられるほどの至近距離に、リノアが丸くなって眠っていたのだ。
彼女はアヤトと同じ掛け布団の端を少しだけ共有するような形で、腕を枕にして静かな寝息を立てていた。
窓から差し込む柔らかな光が、彼女の無防備な寝顔を淡く照らし出している。
閉じた目元に落ちる長い睫毛の影。微かに開いた小さな唇から漏れる、規則的で穏やかな呼吸。
起きて甲斐甲斐しく世話を焼いてくれていた時とは違う、完全に力の抜けた無垢な表情がそこにはあった。
すぐ隣から伝わってくる、微かな体温。呼吸のたびに、彼女の髪からふわりと漂ってくる甘い匂いが、容赦なくアヤトの鼻腔をくすぐる。
同世代の女の子と、こんな至近距離で顔を突き合わせて寝た経験など、今までのアヤトの人生にあるはずがない。
状況を脳が理解した瞬間、一気に全身の血が沸騰したように熱くなる。アヤトの胸の奥で心臓が警鐘を鳴らすように大きく跳ねた。
(ちょっ、ちか……っ、近すぎるって……!)
鼓動がどんどん早まり、肋骨を突き破ってしまいそうなほどの勢いで高鳴っていく。
つい先ほどまで『ママ』だのなんだのと、心の中で甘えていた自分が恥ずかしくなるほど、目の前にいるのは紛れもなく一人の可憐な年頃の少女だった。
自分の激しい心音で彼女を起こしてしまうのではないかと、アヤトは慌てて口元を両手で覆い、呼吸の音すら殺そうと身を硬くする。
視線を逸らそうにも、すぐ目の前にある彼女の美しい寝顔からどうしても目を離すことができない。
(いやいやいや……だめだって! それはだめだって。抑えろ俺!)
無意識に伸びる右手が、リノアに向けられる。必死に伸びていく手を抑えようとするも、本能に抗うことができない。
指先が、リノアの柔らかそうな頬に触れるまで、あと数センチ。
アヤトの鼓動はすでに限界を超え、喉の奥から心臓が今にも飛び出しそうだった。
――だめだ。こんなことしたら、間違いなく嫌われる。変態扱いされて、この温かな場所から追い出されてしまう。
それどころか、目を覚ましたミレナになんと言われるだろうか。居場所すら全て手放しかけない。
理性がそう叫んでいるのに、アヤトの指はまるで意思を持ったかのように、彼女の白磁のような肌へと吸い寄せられていく。
震える指先が、彼女の産毛に触れるか触れないかの、その刹那。
「……んっ……」
ふいに、リノアの長い睫毛が小さく震えた。
「――ファッ!?」
アヤトの心臓が、キュッと音を立てて縮み上がった。
反射的に引こうとした指先は、まるで金縛りにでも遭ったかのようにその場に凍りつく。
ゆっくり。本当にゆっくりと……。
彼女の閉ざされていたまぶたが、朝の光を嫌うように細く開かれる。
蜂蜜のように甘く溶けた橙色の瞳が、ぼんやりと焦点を探すように揺れた。
次の瞬間。その瞳が、眼前に迫ったアヤトの指先と、真っ赤に茹で上がったアヤトの顔を捉えた。
「え? ……あ、あのぅ……?」
とろりとした微睡みの残る声が、静かな部屋にこぼれ落ちた。
彼女はきょとんとした表情のまま、状況を理解しようと瞬きを繰り返した。
自分の目の前で、少年の指先が今にも自分に触れようとして止まっている。そして、自分たちがあまりにも近い距離で寝そべっているということ。
「あっ、いや……えと……その、おっ、おはよう……ございます?」
自分の指先に、リノアの顔の輪郭が掠めた。
「いっ!?」
アヤトはまるで雷に打たれたかのように、凄まじい勢いでその場から飛び退いた。
「ち、ちがっ! これは、その! なんていうか、そう。あっ朝の挨拶、っていうか! ほほ、ほら、寝癖がついてないかなぁって確認しただけで、決して、はい。へ、へへへ変な、つもりじゃ……!!」
支離滅裂な言い訳をまくし立てながら、アヤトは壁に背中を打ち付けそうな勢いで飛び退いた。
心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに響いている。
(やばいやばいやばい。終わったかこれ……)
リノアは掛け布団を胸元まで引き上げ、まるで鎧のように身を隠しながら、もじもじと落ち着きなく体を揺らした。
その仕草は、さっきまでの頼りがいのある世話焼きな面影を完全に消し去り、年相応の初々しい少女そのものだった。
「も、もう……寝癖なんて、そんな近い距離で確認しなくてもいいじゃないですか……」
俯き加減でボソリと呟くリノアの声は、怒りというよりも、恥ずかしさで湿り気を帯びている。
リノアは自分の指先を弄ぶように絡め合わせ、俯いたまま、ふわりと口元を緩めた。
羞恥で染まった空気が部屋を満たした。
アヤトは自身の軽率な行動を呪いながら、必死に言葉を紡ごうと口を開閉させた。
「ご、ごごっ、ごめん。本当に他意はなくて、その、ただ……」
言葉を濁すアヤトに対し、リノアは掛け布団から顔を半分だけ出し、上目遣いで彼を見つめた。その瞳には責める色はなく、むしろ年相応の戸惑いが揺れている。
彼女は布団を握る指先に力を込め、視線を伏せがちにしながら、わずかに震える声で紡いだ。
「いえ……。その……ごめんなさい。ただ、少し驚いてしまっただけで……」
「あ……えっと。その……」
言葉を探すものの、気の利いた返しなど思いつくはずもない。
アヤトは口を数回パクパクと開閉させた後、たまらず視線を床へと逃がした。
リノアもまた、気恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、掛け布団を鼻先まで引き上げ、身を小さく縮こまらせている。
部屋の中に、妙に重く、それでいてひどく甘い沈黙が降りた。
互いに視線を合わせることもできず、わずかな衣擦れの音さえも躊躇われるような、極度に気まずい空間だった。
窓から差し込む朝の光の中、二人はただ己の鼓動の早さを悟られまいと、息を潜めることしかできない。
そんな膠着状態を破ったのは、部屋の奥へと続く古い木製の扉が開く、軋むような音だった。
「リノちゃん……かえってたの?」
かすれがちな、けれど温かみを帯びた声。
ゆっくりとした動作で姿を現したのは、柔らかな白髪を上品にまとめた年配の女性だった。
病気がちだという彼女の足取りはひどく重く、少し息を弾ませながら、皺の刻まれた手で壁を伝うようにして、少しずつ歩みを進めてくる。
「おばあちゃん……」
壁伝いにゆっくりと歩みを進めてきた祖母は、床で身を固くしているリノアと、そのすぐ隣で真っ赤な顔をして硬直している見知らぬ少年の姿を交互に見比べた。
祖母は二人の様子に、まるで何かを合点したように目を細め、口元をふわりと綻ばせた。
「あら、お客さん。……もしかしてリノちゃんの彼氏さんかしら?」
悪気など微塵もない、純粋な好奇心と温かな歓迎の入り混じった問いかけ。
その一言は、極限まで張り詰めていた二人の間の空気を、完全に吹き飛ばす爆弾となった。
「か、かっ……かか、かれっ!?」
リノアは掛け布団を放り投げるようにして勢いよく跳ね起きた。
首から耳の先まで、火が点いたように真っ赤に染まり上がっている。
リノアは両手を空中ででたらめに振り回し、声にならない悲鳴を上げながら祖母へと向き直った。
「おっ、おばあちゃん! そ、その綾人さんはその……えっと」
言葉の迷路に入り込み、完全に思考がショートしてしまった孫娘の姿に、アヤトもこれ以上沈黙しているわけにはいかないと焦りを覚える。
どうやってこの場を収めるべきか、なんと言おうかと迷っているうちに、干からびかけた喉から反射的に声が飛び出していた。
「あ、あの! 誤解です。俺とリノアさんは、昨日森で偶然知り合っただけで……その、彼氏とかそういう関係では決してないですから!」
必死に取り繕ったアヤトの明確な否定の言葉が、部屋の中に響き渡る。
その瞬間に、空中ででたらめに振り回されていたリノアの両手がピタリと止まった。
「あらあら、そうなの。ごめんね、年寄りの早とちりだったみたいだねぇ」
祖母が申し訳なさそうに、けれどどこか楽しげに目を細めて引き下がる。
誤解は解けた。これで先ほどまでの、極度にいたたまれない空気は消え去るはずだった。
ただ一人を除いては……。アヤトの言葉を聞いたリノアの表情からは、先ほどまでの熱に浮かされたような動揺がすっと引き、代わりにどこか別の感情が浮かび上がっていた。




