3-2
やがて、街の片隅にある小さな木造の一軒家の前に辿り着く。
決して大きな家というわけではないが、家族四人程度が住むなら十分すぎるほどの規模だ。
「ここがわたしの家です。おばあちゃんは奥の部屋で寝ていると思うので、少しだけ静かにしてくださいね」
リノアがそっと扉を開けると、年季の入った木の匂いと、微かな薬草の香りが漂ってきた。室内は隅々まで掃除が行き届いており、慎ましくも温かな生活感が満ちている。
アヤトは言われた通りに足音を殺し、案内された木製の椅子に腰を下ろした。
皮肉なことに今の自分にとっての定位置となってしまった『椅子』だが、今はただ体を休めるための安らぎの家具でしかない。
「少し待っていてくださいね。温かいスープと、パンを焼きますから」
リノアはそう言うと、制服の上から淡い色合いの、可愛らしいエプロンを身に着けた。
後ろ手に回して腰の後ろできゅっと紐を結び、背中まで伸びた長い髪を手早く一つにまとめる。
その流れるような一連の動作には、日々の生活の中で培われた家庭的な空気が、色濃く漂っていた。
台所に立つ彼女の後ろ姿を見つめていると、やがて小気味よいリズムで食材を刻む音が聞こえ始める。
続いて、火にかけた鍋の中で具材が静かに煮える心地よい音が響き、温かく、暴力的なまでに胃袋を刺激する美味しそうな匂いが部屋の中に広がり始めた。
背中越しに伝わってくる、見返りを求めない純粋な献身。
家の中を満たす絶対的な安心感と温もり。
極限の死地に身を置き、理不尽な扱いに耐え、限界まで摩耗しきっていたアヤトの精神は、そのあまりにも眩しい光景を前に、彼女に母性のようなものを強く感じていた。
(あっママ……。リノアママ……)
気づけば、アヤトは無意識のうちにそんな言葉を脳内で反芻し、テーブルの縁に突っ伏したまま、完全に腑抜けただらしのない顔になっていた。
異世界の過酷すぎる現実から一転、目の前に現れた家庭的で圧倒的な『母性』の奔流に、彼は抵抗することも忘れ、その温かな空間に身を委ねるしかなかった。
「もう、綾人さん。よっぽどお腹が空いてるんですね。もう少しだけ待っていてくださいね」
完全に気が抜けてしまっている彼の姿は、森で魔物相手に必死に立ち回っていた時とはまるで違い、どこか年相応の少年のようで微笑ましかった。
やがて、木製の丸いテーブルの上に、湯気を立てる二つの木の器が並べられた。
一つは、細かく刻まれた根菜と少量の干し肉が煮込まれた、琥珀色の温かなスープ。もう一つは、軽く火に炙られて香ばしい匂いを放つ、厚切りのパン。
決して豪華な食事とは言えないが、極限まで空腹をこじらせたアヤトにとっては、どんな高級料理よりも輝いて見えた。
「お待たせしました。粗食で申し訳ないんですけど……」
リノアが席につくや否や、アヤトは勢いよく体を起こし、木のスプーンを手に取った。
「いただきます!」
行儀など気にする余裕もなく、アヤトは熱々のスープを掬い、一気に口の中へと流し込む。
野菜の甘みと肉の旨味がしっかりとスープにしみ出し、どこか懐かしくなるような優しい味わいが、空っぽの胃の腑にじわじわと染み渡っていく。
「……うまっ!? なにこれ、めちゃくちゃ美味しい……!」
「ふふっ、よかったです。おばあちゃんから教わった薬草の知識を応用して、森で採れる香草で出汁……えっと、旨味を引き出しているんです」
少しだけ慌てたように言葉を言い換えるリノアだったが、食事に夢中なアヤトはそれに気づく様子もなく、猛烈な勢いでパンをちぎってはスープに浸し、胃袋へと詰め込んでいく。
ただそのスプーンの動きが、ふと不自然に止まる。
スープの底に沈んでいた、緑色をした見慣れない葉野菜。特有の苦味がありそうな見た目に、アヤトは無意識のうちにスプーンの先でそれを器の端へと器用に避けてしまったのだ。
元の世界での、実家での食事の癖が思わず出てしまった形である。
そのささやかな抵抗は、向かいに座る少女の目から逃れられるはずもない。
「あのぅ、綾人さん」
「えっ?」
ビクッと肩を揺らして顔を上げると、頬杖をついたリノアが、ニコニコとした満面の笑みでこちらを見つめていた。
「好き嫌いは、だよくないですよ? ちゃんとお野菜も食べないと」
首をこてんと傾げ、春風のように優しく、しかし有無を言わさぬ慈愛に満ちた声色。
怒っているわけではない。ただ純粋に、相手の健康を思っての温かな注意。
そのあまりの『母親』っぷりに、アヤトの背筋がしゃんと伸びる。
「ご、ごめん。リノアママ……」
「マっ、ママ……!?」
思いがけず口を突いて出た呼称に、リノアは目を丸くし、一気に耳の先まで朱に染まった。
「あ、いや、ちがっ……! その、なんていうか……つ、つい」
アヤトも慌てて手を振って弁明するが、リノアは両手で熱を持った頬を覆い、ぶんぶんと首を横に振る。
「もっ、もう……そういうふうに呼ばれるのは……その、ものすごく恥ずかしいですから、やめてください……っ。わたし、綾人さんのお母さんになれるほど年上じゃありませんし……」
俯き加減で上目遣いに抗議するリノア。ただその声色には怒りや不快感など微塵も含まれていない。
むしろ、指の隙間から覗く彼女の瞳は戸惑いながらもどこか嬉しそうに揺れており、隠しきれない口元の緩みが、その内心を雄弁に物語っていた。
異性の少年に甘えられ、素直に頼られているという事実が、彼女の内に眠る母性をひどくくすぐり、完全にまんざらでもない顔をさせていた。
「は、はい! ……とにかく、お野菜もちゃんと食べてくださいね!」
赤面したまま誤魔化すように念を押され、アヤトは全く逆らう気など起きず、大人しくスプーンで避けていた緑の野菜を掬い上げ、口に運んだ。
噛んでみれば、見た目ほどの苦味はなく、少々顔こそしかめたが、胃が受け付けないほどではなかった。
「はぁい、よくできました。そのまま残さずに、ちゃんと食べてくださいね」
気を取り直してふわりと咲き誇るような笑顔で褒められ、アヤトは気恥ずかしさと強烈な安心感に包まれながら、残りの食事をあっという間に平らげてしまった。
見ず知らずの異世界で、死の恐怖に怯えながら過ごした数日間。
まともな食事もとれず、ただ生き延びるためだけに神経をすり減らしてきた彼にとって、この温かな手料理は、冷え切っていた心と体を芯からじんわりと解きほぐしていくようだった。
「ごちそうさまです。本当にリノアちゃんがいなきゃ今頃どうなってたか」
空になった器を前に、アヤトは深く頭を下げた。
「そんな、わたしは案内をしただけで……。それに、綾人さんが美味しそうに食べてくれるだけで、わたしもすごく嬉しいですから」
照れたように視線を落とす彼女の姿に、アヤトの胸の奥が再びじんわりと温かくなる。
満たされた胃袋と極上の安心感は、やがてアヤトの肉体に次なる強烈な欲求を突きつけてきた。
限界をとうに超えていた肉体が、急速に休息を求める。
アヤトは立ち上がろうと椅子から腰を浮かせたものの、足にうまく力が入らなかった。膝から崩れ落ちるようにして、木板の床に体を投げ出してしまう。
「あえ……やば」
「あ、綾人さん!?」
驚いたリノアが慌てて駆け寄るが、アヤトはピクリとも動かない。すでに意識を手放し、深く規則的な呼吸を繰り返していた。
泥のように眠る彼を見て、リノアは小さく安堵の息を漏らす。彼を奥の部屋のベッドまで運ぼうと試みたが、小柄な彼女の腕力では、同年代の少年の体を持ち上げることは到底不可能だった。
「もう、仕方ないですね……」
苦笑いを浮かべたリノアは、奥の部屋から厚手の掛け布団を抱えて戻ってくると、床で眠るアヤトの体の上に、それを優しく被せた。
泥だらけの服で寝かせてしまうことには少なからず抵抗があったが、今は何よりも休息が優先だ。首元までしっかりと布団を掛け、彼の寝顔を満足げに見つめる。
そんな彼女自身の足もまた、鉛のように重く固まっていた。
本来ならミレナの様子を確認しに行こうと思っていた彼女だったが、強烈な疲労感と睡魔には抗えそうにもなかった。
よく考えれば、彼女も昨夜から一睡もしていない。張り詰めていた緊張の糸が、アヤトの穏やかな寝顔を見たことで完全に切れてしまったのだ。
「少しだけ……ここで休んでから……」
誰に言い訳するでもなく小さく呟くと、リノアはアヤトのすぐ横に座り込み、壁に背中を預けた。
ほんの少し目を閉じるだけのつもりだった。温かな室内と、隣から聞こえる安心しきった寝息の誘惑には勝てず、彼女の意識も深い微睡みの底へと急速に吸い込まれていった。
そのまま姿勢を崩し、気がつけば彼女もまた、アヤトと向かい合うような形で床に横たわり、静かな眠りへと落ちていった。




