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3-1

 分厚い雲の隙間から、白み始めた空が顔を覗かせる頃。

 ずっと続いていた単調な馬車の揺れが徐々に緩やかになり、やがて完全に停止した。


 外から、御者の初老の男の声と、見知らぬ複数の声が微かに聞こえてくる。

 荷台の幌の隙間から差し込む朝の光の筋が、アヤトのまぶたをチカチカと刺激した。


 ざわめく声と、停止した馬車の変化によって、アヤトの意識は泥沼のような深い眠りからゆっくりと浮上した。

 重い瞼をこじ開け、周囲の状況を把握しようと首を巡らせる。体を動かそうとした瞬間、全身の筋肉が激しく抗議するように鈍い痛みを訴えた。



「うっ……ん、あ?」

「……あ、綾人さん。……おはようございます」



 痛みに顔をしかめるアヤトの耳に、静かで穏やかな声が届く。

 視線を向けると、目の前には少し目の下に隈を作ったリノアが、微かに微笑みながらこちらを見つめていた。


 彼女の太ももの上では、いまだにミレナが静かな寝息を立てている。

 リノアの服装は昨夜にも増して皺だらけになり、スカートには血や泥の汚れが痛々しく付着していた。


 アヤトの頭が急速に覚醒していく。

 彼女の顔色と状況から、一つの事実が明確に浮かび上がった。



「ん、おはよう……ってリ、リノアさん、もしかして……一睡もしてないんですか?」

「ふふ、わたしは大丈夫ですよ。ミレナさんの容態も夜の間に急変しませんでしたし、熱も少し下がったみたいですから」



 リノアは自分の疲労など微塵も感じさせないような、底抜けに優しい笑顔を向けてくる。

 アヤトたちが眠っている間、彼女はずっとミレナの体調の変化に気を配り、不意の揺れから頭を守り、看病を続けていたのだ。


 その一切の打算のない献身的な姿に、アヤトは胸の奥が締め付けられるような申し訳なさと、強い感謝の念を抱いた。



「もうすぐ、街の門番さんの検問が終わります。そうしたら、すぐに街の中の治療院へ向かいますからね」



 荷台の奥から差し込む朝の光が、彼女の乱れた髪を黄金色に透かして照らす。

 長く過酷だった夜が終わり、彼らはようやく安全な人間の領域へと帰り着こうとしていた。



 やがて、外から門番らしき男の野太い声で通行許可を告げる言葉が響き、馬車は再びゆっくりと動き出した。

 石畳の上を転がる車輪の振動が、森の土道とは違う硬質な響きを伴って荷台に伝わってくる。


 活気のある朝の喧騒、焼きたてのパンや香辛料の入り混じったような匂いが風に乗って漂い始め、アヤトはここが間違いなく人間の暮らす街の中であることを実感した。


 それから数分と経たないうちに、馬車は目的の治療院の前で完全に停車した。



「着いたぞ、お嬢ちゃん。ここなら腕のいい治癒士がいるはずだ」



 御者台から降りてきた初老の男が、荷台の幌を開けて中を覗き込む。

 アヤトは体を起こし、まだ眠っているミレナを慎重に背負い直す。一晩休んだとはいえ、全身の筋肉痛と疲労は色濃く残っており、立ち上がるだけでも足が微かに震えた。


 だが、街の安全な空気が精神的な重圧を取り払ってくれたおかげで、足取りは昨日よりも幾分か軽った。



「綾人さん、大丈夫ですか? 手伝います」

「あ、いえ、これくらい平気です。リノアさんこそ、寝てないんですし、無理しないで」


 気遣うリノアを制し、アヤトはゆっくりと荷台から地面へと降り立つ。



「あの、夜通し走っていただいて、本当にありがとうございました。おかげで助かりました」



 リノアもアヤトに続いて荷台から降りると、御者に向かって深々と頭を下げた。

 そして、腰に下げていた小さな革袋から銀色の硬貨を数枚取り出し、男の節くれだった手のひらに乗せる。



「おう、まっ気にすんな。お嬢ちゃんが無事で……って、おいおい」



 受け取った硬貨の枚数を確認した男が、目を丸くしてリノアの顔を見返した。



「こりゃあ、約束の額よりだいぶ多いぞ。間違えてないか? 銀貨七枚って。これ、倍以上あるじゃねぇか」



 男が不思議そうに尋ねると、リノアは困ったような、それでいて申し訳なさそうな笑みを浮かべた。



「いいえ、間違っていません。最初はわたし一人の予定でしたのに、急遽重傷者を乗せていただくことになってしまいましたから。それに……」



 リノアはちらりと、自分たちが乗っていた荷台の中へ視線を向ける。

 そこには、ミレナの傷から滲んだ血や、アヤトたちの衣服にこびりついていた泥が散乱し、お世辞にも綺麗な状態とは言えなかった。



「あのように、大切な荷台をひどく汚してしまいましたから。清掃の手間を取らせてしまうお詫びも兼ねてのお支払いです。むしろこれで足りるでしょうか」



 申し訳なさそうに両手を前で組むリノアの姿に、男は荷台の汚れと彼女を交互に見比べた後、大きな溜息をひとつ吐いた。

 その表情に怒りはなく、むしろ感心したような穏やかな笑みが浮かんでいる。



「……たく、最近の若いもんはしっかりしすぎてるな。わかった、お嬢ちゃんの心遣い、ありがたく受け取っとくよ」



 男は硬貨を自分の袋にしまうと、アヤトの背中で眠るミレナと、アヤト自身に視線を向けた。



「ま、そっちの兄ちゃんも、よく頑張ったな。早くそのお連れさんを診てもらって、あんたたちもゆっくり休みな」


「あ、はい……ありがとうございます」



 アヤトが頭を下げると、男は片手を軽く挙げて応え、再び御者台へと登っていった。

 馬のいななきと共に馬車が遠ざかっていくのを見送った後、アヤトたちは治療院の大きな木扉へと向き直るのだった。



 治療院の中は、朝の冷気とは打って変わって、暖炉の熱と薬草の香りが入り混じる温かな空間だった。

 急患の知らせを受けてすぐに出てきてくれた治癒士は、寝台に下ろされたミレナの体を念入りに診察すると、深く息を吐き出してアヤトたちへと向き直った。



「極度の魔力枯渇による衰弱と、それに伴う急性の疲労蓄積だな。ただ、道中での処置が的確だったおかげで最悪の事態は免れている。命に別状はない。ここで二、三日ほど安静にさせていれば、自然と目を覚ますだろう」



 その言葉を聞いた瞬間、アヤトの肩から、これまで背負い続けていた目に見えない重しがドスリと落ちたような気がした。

 無事に助かった。彼女を死なせずに済んだのだ。


 深い安堵とともに、極限まで張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、アヤトは崩れ落ちそうになる体をなんとか壁に寄りかかって支えた。


 ――と、その時。

 治療院の静かな部屋の中に、カエルの鳴き声を何倍にも大きくしたような、間の抜けた音が響いた。

音の震源地は、アヤトの腹だった。


「あ……」

 


 アヤトは思わず自分のお腹を押さえ、顔を一気に朱に染めた。

 よくよく考えてみれば、昨日森へ探索に出て以降、休む間もなく移動と戦いを繰り返し、まともに何も口にしていなかった。


 ミレナの無事が確認され、緊張が解けた途端に、肉体が強烈な空腹と生存本能を主張し始めたらしい。

 治癒士が目を丸くし、隣に立っていたリノアが、口元を両手で覆う。



「す、すみません……。なんか急に、安心したらお腹が空いてきたみたいで……そういや昨日からまともにメシ食ってなくて。えへへ……」


 恥ずかしさのあまり消え入りそうな声で言い訳をするアヤトに、リノアは堪えきれない様子で、ふふっと吹き出した。



「ふふっ、それなら無理もありませんよ。綾人さん、ずっと何も召し上がっていないんですから」


 ひとしきり笑った後、リノアは優しい微笑みを浮かべてアヤトの前に進み出た。



「あの、もしよろしければ……わたしの家で休んでいきませんか? 大したものはありませんが、温かいお料理くらいならすぐに作れますから」


「えっ、でも、これ以上リノアさんに迷惑をかけるわけには……」


「迷惑だなんて、とんでもないです。……それに、あんなに頑張ってくれた方に、お腹を空かせたまま帰っていただくなんて、わたしの気が済みません」



 少しだけ身を乗り出し、上目遣いで覗き込んでくるリノアの瞳には、有無を言わさぬ温かな圧があった。

 ここで断るのも、逆に無粋かもしれない。何より、彼女の手料理という甘美な響きと、限界を迎えている胃袋の誘惑に、アヤトはあっさりと陥落してしまった。



「でも本当にいいの? 眠くないの? 寝てないんでしょうリノアちゃん……」



 アヤトの気遣う言葉に、リノアは柔らかく首を横に振った。


「平気です。こう見えても、夜通しの看病には慣れていますから」



 そう言って微笑む彼女の案内で、アヤトは治療院を後にし、活気づき始めた朝の街並みを歩き出した。

 大通りを外れ、入り組んだ裏路地へと足を踏み入れる。道中、アヤトはふと気になっていたことを尋ねた。



「あの、リノアさん。看病に慣れてるって……もしかして、誰かご家族が具合悪いんですか?」



 アヤトの問いに、リノアは少しだけ歩調を緩め、前を向いたまま穏やかな声で答える。



「はい。今は、おばあちゃんと二人で暮らしているんですけど……少し前から体調を崩してしまって、最近は外出することも厳しくて」


「そうだったんだ……。二人暮らしってことは、ご両親はいないの?」

「えっと……その、いません」


 

 リノアは一瞬だけ口ごもり、視線を僅かに宙へと泳がせた。

 彼女の脳裏に、元の世界に置いてきてしまった両親の顔が微かによぎる。


(お父さん……お母さん……)



 自分が別の世界から来た人間であるなどとここで馬鹿正直に話せば、せっかく誤魔化した制服の件も含めて、余計な混乱を招いてしまうだろう。



「そっか……。ごめん、なんか変なこと聞いちゃったかな……」

「いえ……」


 彼女の語る生い立ちに、アヤトは申し訳なさそうに眉を下げた。



「あ、でも可哀想だなんて思わないでくださいね。わたしにはおばあちゃんがいますから。今のわたしがいるのも、全部、おばあちゃんのおかげで……」



 振り返ったリノアの笑顔には、悲壮感など欠片もなかった。

 目が覚めた時、知らない世界。どうすればいいのか分からずさまよっていたときに出会った恩人。


 見ず知らずの自分を、本当の孫のようにかわいがってくれた。リノアの胸には、自分を拾ってくれた恩人への深い愛情と感謝があった。

 


(突然この見知らぬ世界に迷い込んでから、もう一年以上……。色んなことがあったけれど……。こうしておばあちゃんと家族にもなれましたし、綾人さんとも出会えましたし)



 彼女はほんの少しだけ寂しそうに伏せていた目を上げると、元の世界の記憶を心の奥底にしまい込み、この世界での自分の境遇をあやふやに語ることで、うまくアヤトの追及を躱した。



「ミレナさんの応急手当てができたのも、おばあちゃんを少しでも楽にしてあげたくて、必死に薬草や治療の知識を覚えたからなんです! 結果的に、綾人さんたちのお役にも立ててよかったです」



 彼女の献身的な優しさと、いざという時の芯の強さは、決して生まれ持ったものだけではなく、そうした過酷な環境の中で誰かを守るために培われたものだったのだ。

 アヤトは彼女の真っ直ぐな心の在り方に、深く頭が下がる思いだった。

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