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2-8

 リノアは軽やかな足取りで森の小道を先行していく。

 一方のアヤトはというと、その歩みは悲惨の一言に尽きた。


 背には気を失ったミレナ。意識のない人間の体重は想像以上に重く、ただでさえ疲労困憊の足腰にずしりと響く。

 さらに右手には、鉱石や巨大な虫の甲殻などがぎっしり詰まった革製の巨大なズタ袋。持ち上げることはおろか、地面を引きずるだけでも腕の筋肉が千切れそうになる。



「ぐっ……はぁっ、ぜぇ……ふっ」



 ズザザザザ……と、重い袋を引きずる音と、アヤトの荒い息遣いだけが周囲に響き渡る。

 一歩踏み出すたびに足がガクガクと震え、その歩みはまさに牛歩。

 先行するリノアとの距離は、あっという間に開いていく。



「あ、綾人さん! その、大丈夫ですか!?」



 リノアは数メートル進んでは立ち止まり、心配そうな顔で振り返る。

 彼女の目には、今にも倒れそうなアヤトの姿が、痛々しく映っていた。



「だ、だいじょぶ……です……! 余裕……ッスから……! は、へへ……はぁっ、はぁっ」



 アヤトは滝のような汗を流しながら、引きつった笑顔で、震える親指を立てる。

 しかし、その足元はおぼつかなく、今にも膝から崩れ落ちそうだ。



「でも、お顔が真っ青ですよ!? 息も絶え絶えですし……。うぅ、わたしが非力なばかりに……」



 リノアが小走りで戻ってきて、再びズタ袋の紐に手を伸ばそうとする。

 だがアヤトはそれを制するように首を横に振った。



「いいですよ。これ俺の役目ですから」



「うぅ……でも、綾人さんが倒れちゃったら……。わたし、お薬くらいしかお渡しできなくて……」


「いや、案内してくれるだけで……はぁ、マジで助かってるんで! それに、男がここで……へばる、わけにはいかないんで……!」



 強がるアヤトの額の汗を、リノアは自分の持っていた清潔なハンカチでそっと拭う。



「……綾人さんって、本当に優しいんですね」

「えっ」


 至近距離で見つめてくる慈愛に満ちた瞳と、ふわりと香る薬草と花を混ぜたような優しい匂い。

 ハンカチ越しに伝わる彼女の指先の柔らかさに、アヤトの心臓がドキンと大きく跳ねた。



「あの時から、そうやって誰かのために無理して一生懸命になれるところ、変わってないなぁって……ふふっ」

「あの……時?」


「あっ、い、いえ! なっ、なんとなく、そういう綾人さんってお人好しなオーラが出てるなぁって! ……その、そう! 勘です、勘!」



 天然じみた笑顔で必死に身振り手振りを交えながら、リノアは誤魔化した。

 アヤトは不思議に思いながらも、彼女の母性溢れる優しさに触れ、不思議と足に少しだけ力が戻ってくるのを感じた。

 ただ、彼女の言動には引っかかる部分がいくつもある。



「あの、そういえば……俺リノアさんに名前言ってなかったような?」

「えっ!? あ、あああ! あの、えっと! ……そ、そうでしたっけ?」


 図星を突かれ、リノアは顔を真っ赤にしてパニックに陥る。

 両手をぶんぶんと振り回し、視線をあちこちに泳がせた。



「えと……。そ、そう! 服! 綾人さんの着ているその不思議なお召し物のどこかに、お名前が書いてあったような……そう、名札! みたいなものが見えた気がしまして!」


「名札? 俺の服にそんなの……」


 アヤトが自分の泥だらけのシャツを見下ろして首を傾げた、まさにそのときだった。



「ん……あっ……あぅ」



 背負っているミレナが、苦しげな呻き声を上げてアヤトの肩にぐったりと顔を埋めた。


「み、ミレナさん!?」

「い、急ぎましょう綾人さん! 荷馬車はもうすぐそこですから!」



 名札の件は有耶無耶になり、アヤトは再び歯を食いしばって前へと進み始めた。

 リノアはホッと胸を撫で下ろしつつ、心の中で「助かった……」と呟いた。




◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇   



 アヤトたちが去った後の戦場跡地。

 粉砕された木々の残骸の陰から、泥と小水にまみれた黒いローブの少女が、ふらふらと立ち上がった。



「……あ、あいつら……っ」



 シレナの紫がかった瞳は、恐怖と、それを上回る激しい憎悪でどす黒く濁っていた。

 彼女の口元は小刻みに震え、ギリギリと歯ぎしりをする音が漏れている。


 完全な勝利になるはずだった。それなのに、あの謎の魔力の増大によって形勢が逆転した。

 怯える男の前で、女を魔物に貪り食わせて殺してやろうと、それを高みの見物しようと考えていたのに。

 なんなんだ、あの規格外の魔法は……。


「ふざけんな……! ふざけるなふざけるなふざけんなァッ!!」



 バンッ! と近くの切り株を蹴り飛ばす。


 自分は死にかけて、あまつさえ恐怖で失禁したのだ。

 あの絶対的な力の前では、自己の魔力を注いで強化したグールスパイダーすら、文字通り塵芥に過ぎなかった。



「あの男……!ただのアホな男じゃなかったのかよ。あの時いっそ殺してたらこんなことには!」



 シレナは自分の濡れたローブの裾を握りしめる。

 あの時、アヤトから奪い取った『炎神の瞳』は確かに自分たちのものとなった。

 だが、あの男自身が規格外の力を持っていたのだとしたら、あの時に殺しておかなかったのは完全な失態だ。



「……ミレナ・カワード。それに、アヤトとか言ったっけ、あの男……!」



 掴んでいた裾を、いっそう力強くぎゅっと握りしめた。



「絶対に許さない。次に会った時は、一番惨めな方法で殺してあげる……! あたしが殺す! この手で」



 森の奥に響く少女の呪詛は、夜の闇に深く溶け込んでいった。




◇◇◇    ◇◇◇   ◇◇◇    ◇◇◇     ◇◇◇   




 幾度かの小休憩を挟みつつ、リノアの案内で森の入り口まで辿り着くと、そこには一台の幌付きの荷馬車が停まっていた。

 御者台で居眠りをしていた初老の男が、三人の足音に気付いて目を覚ます。



「おっ、なんだお嬢ちゃん、随分と遅かったじゃねえか。心配したぞ……って、そりゃあ何事だ!?」


「急病人です! 荷台を使わせてください!」



 リノアの緊迫した声に、御者の男は慌てて荷台の扉を開けた。

 アヤトは背中のミレナをそっと荷台の中の毛布の上に下ろす。泥だらけの服で馬車を汚してしまうことを気にしたが、リノアは「命には代えられませんから。それに、綾人さんが一生懸命運んでくれた証ですしね」と優しく微笑んだ。



 荷馬車が出発し、ガタガタと揺れる薄暗い荷台の中で、リノアは手際よく薬草の処置を始めた。

 ランタンの灯りの下、先ほど森で摘んできた『月隠れ草』をすり鉢で潰していく。トントン、というリズミカルな音が狭い空間に響く。



「あの……俺に手伝えることありますか?」


 アヤトが尋ねると、リノアはすり鉢の手を止めて、ふんわりとした笑みを浮かべた。


「いえ、綾人さんはここまで一生懸命運んでくださったんですから、ゆっくり休んでいてください。あとはわたしに任せていいですから」



 そう言うと、リノアは自分の肩に羽織っていた薄い桃色のショールと、少し大きめの清潔な上着を躊躇うことなく脱ぎ始めた。



「えっ! リノアさん?」


 リノアはその脱いだばかりのショールと上着を、泥と血にまみれたミレナの体の上にふわりと掛けた。

 掛け布団のようにして、隙間風が入らないようにしっかりとミレナの体を包み込む。



「ちょっ……! リノアさん、それ……! ミレナさん泥だらけですよ!? せっかくの綺麗な服が汚れちゃいますって!」

「構いません。極度の魔力枯渇は、何よりも体温の低下が一番危険なんです。すぐに温めてあげないと」



 リノアのショールと上着には、あっという間にミレナの服についた泥や魔物の体液が染み付いていく。

 それでもリノアは顔をしかめるどころか、ミレナの体をさすりながら優しい眼差しを向けていた。



 その一切の打算もない献身的な姿に、アヤトは言葉を失う。

 だが、やはりどうしても気になってしまい、再び身を乗り出した。



「あの、リノアさん。ずっと気になってたんですけど……なんで学生服」

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