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2-6

「すっげぇ!!」



 背中から降りたミレナを見上げ、アヤトが興奮した様子で声を張り上げた。

 事態の深刻さも、自分がとんでもないバフをかけたことも、微塵も理解していない。無自覚で能天気な声だった。



「ミレナさんマジで最強じゃないですか! あんなでかい蜘蛛一撃なんて! いやぁ、俺も椅子になった甲斐がありましたよ!」



 無邪気に笑うアヤト。

 ミレナは歯を強く食いしばると、無言のままアヤトの髪を鷲掴みにし、強引に上方へと引っ張り上げた。



「痛い痛い痛い! ミレナさん、頭皮が! 頭皮が剥がれますって! はげる! はげる!」

「あんたねぇ……本当に自分が何をやったのか分かっていないわけ?」



 頭上から降り注ぐのは、北風よりも冷たい絶対零度の声。

 怒りで顔を歪めたミレナの青い瞳が、逃げ場のないほどの至近距離でアヤトを睨みつけていた。



「なにって……俺は言われた通りに四つん這いになっただけで」

「そのせいで! 私の魔法が異常な威力になって、換金素材が塵ひとつ残らず消滅したのよ!」



 ミレナは掴んでいた髪を乱暴に突き放す。

 アヤトは頭を押さえながら地面に転がったが、ミレナの怒りはまったく収まる気配がなかった。

 彼女は大きく肩を揺らし、深く抉られた地面を指差す。




「あのクラスの個体なら、魔石だけでも金貨数枚。強靭な糸疣や外殻まで持ち帰れば、当分の生活費どころか新しい装備すら余裕で新調できたのよ。それが全部、ただの泥と水たまりに変わったの。……あんたのその無駄に有り余る力のせいでね」



「えっ……それってつまり?」



 アヤトは自身の両手を見つめる。魔力などという実感はまるでない。

 ただ、ミレナの下敷きになった瞬間に感じたあの不思議な熱と多幸感。あれが彼女に規格外の力を与えていたという事実を、ようやくぼんやりと理解し始めていた。



「じゃあ……ある意味で俺のおかげで勝てたってことですよね? 命があってこそのお金ですし、ここは一つ俺の活躍に免じて……」

「調子に乗るんじゃないわよ!」



 冷徹な一言で言い訳を切り捨てられ、アヤトは肩をすくめる。

 ミレナは深い息を吐き出すと、乱れたグレーの髪を指先で梳き直した。怒りを通り越し、もはや呆れ果てているようだった。



「まぁいいわ。……これではっきりした」



 ミレナは冷ややかな視線をアヤトへと戻す。

 その目は、先ほどまでの怒りとは違う、極めて打算的で冷酷な光を帯びていた。有益な道具を値踏みするような、所有者の目だ。



「貴方のその異常な魔力供給のトリガーは、命の危機に瀕するような極限状態において、私に完全に服従し『椅子』として身を捧げること。条件は最悪だけど、効果は絶大ね。」


「えっと……それはつまり?」


「今日から貴方は、私の所有物として、荷物持ち兼、椅子として置いてあげるわ。光栄に思うことね」



 ミレナは右手を軽く持ち上げ、先ほど大魔法を放った指先をアヤトの鼻先に突きつけた。



「分かったわね?」



 冗談の色は一切ない。

 アヤトは激しく首を縦に振り、絶対服従の意志を全力で示した。

 自由を完全に奪われ、美少女の装備品として扱われるという屈辱。


 しかし、彼女の背中越しに伝わる感触や、自分が必要とされているという事実が、アヤトのどこか歪んだ自尊心を微かに満たしていたのもまた事実だった。


「は、はい」

「よろしい。じゃあ、そこに転がっている袋を背負いなさい。帰るわよ」



 ミレナは顎で、アヤトが戦闘の前に放り出していた大きな革製のズタ袋を指し示す。

 巨大蜘蛛の素材は手に入らなかったものの、道中で討伐した小物たちの素材や鉱石は残っている。手ぶらで帰るよりはマシだという判断なのだろう。



「は、はい! 喜んでお持ちします!」



 アヤトは泥だらけの服を払うことも忘れ、慌てて重いズタ袋を背負い直す。

 肩に食い込む重量は相変わらずだが、先ほどの絶体絶命の恐怖に比べれば、ただ重いだけの労働など天国のように思えた。

 夕闇が迫るノクスの森林を、二人は無言で歩き出した。



 異常個体という森の主が消滅した影響か、帰り道では魔物の影すら一切見なかった。

 木々のざわめきすらもどこか怯えているようで、先ほどの魔法の余波が森全体にどれほどの恐怖を植え付けたのかを物語っていた。


 前を歩くミレナの背中は、華奢でありながら一切の隙がない。

 アヤトはその背中を見つめながら、自分の置かれた数奇な運命に思いを馳せていた。



 ――しかし、その隙のない背中が、唐突に大きく揺らいだ。


 ミレナの足取りが急激に重くなり、土を擦るような不自然な歩き方に変わる。ピンと張られていた糸が不意に切れたかのように、彼女の膝が折れた。



「ミレナさん!?」



 アヤトは背負っていたズタ袋を地面に投げ出し、前のめりに倒れ込もうとするミレナの身体を慌てて支えた。

 腕の中に倒れ込んできた彼女の身体は、驚くほど熱を持っていた。

 その反面、顔色は透けるように青白く、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいた。



「ちょっと……。気安く触らないで、ちょうだい……」



 ミレナは弱々しい声でアヤトを突き放そうとするが、彼女の細い腕にはアヤトを振り払うだけの力すら残っていなかった。

 荒い呼吸を繰り返し、苦しげに顔を歪めている。



「強がってる場合じゃないですよ! 顔色、最悪じゃないですか。まさかさっきの蜘蛛の毒とか……」

「違うわよ……。ただの、魔力切れ……。やっぱりあの力。一時的にしか、魔力は増えないようね……」



 ミレナはアヤトの胸に額を押し付けるような体勢のまま、忌々しそうに言葉を絞り出す。

 アヤトという特級の魔力タンクを『椅子』にしたことで、彼女の魔力は一時的に限界を突破し、膨大な力を行使することができた。

 だがそれは、あくまで一時的な供給に過ぎなかったようだ。



 椅子から降り、アヤトからの魔力供給が絶たれた今、先ほどまでの反動が一気に肉体へ押し寄せているのだろう。

 魔力と体力が直結する彼女にとって、規格外の大魔法を放った代償は決して軽いものではなかった。



「えっと、じゃあ……もう一回俺の上に座りますか? 椅子になりますよ!」



 アヤトは真剣な顔で提案するが、ミレナは呆れたように小さく息を吐き出す。



「あんたね……あのトリガーの条件、さっき自分で検証したばかりでしょう……。命の危険もない今の安全な状況で座ったところで、魔力なんて回復しないわよ……バカ」



 悪態をつく口調も、いつものような鋭さはない。本当に限界なのだと悟り、アヤトはミレナの腕を自分の肩に回した。



「とりあえず、俺が肩貸しますから。このまま森にいたら危ないですし、少しでも街に近づきましょう」


「……重い荷物を持った上に、私の体重まで支えるつもり? あんたみたいな貧弱なポーターに……」

「大丈夫ですよ。ミレナさんは別に重くはな……あっいや、そういうわけじゃ……あれ?」



 ミレナはそれ以上反論する気力もなかったのか、おとなしくアヤトの肩に体重を預けた。

 左肩にずっしりと食い込むズタ袋の重みと、右肩に寄りかかる美少女の柔らかい感触と体温。

 相反する二つの重みを背負いながら、アヤトは歯を食いしばって歩みを進めた。



 夕闇が完全に夜の帳を下ろそうとする森の中を、二人は身を寄せ合うようにして不格好な足取りで進んでいく。

 ミレナの規則正しい寝息のような呼吸が耳元で聞こえるたび、アヤトは不甲斐ない自分の運命を嘆きつつも、頼られているという事実を不思議と悪くは思っていなかった。

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