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2-5

「ミ、ミレナさん……っ!」


 アヤトは恐怖で震える足に鞭打ち、どうにか立ち上がろうとするが、膝が笑ってしまい力が入らない。


「ケホッ! けほ……」


 ミレナが咳き込むと、喉の奥でドロリとした生温かいものが逆流し、口から血が飛び散った。

 口端から溢れる血を手の甲で乱暴に拭いながら、迫り来る死の影を前にしてもなお、その青い瞳から闘志の光を消してはいなかった。

 震える体に鞭を打つように、両手に力を込め、地面を掴む。


 ふいに彼女の視線が、離れた地面に落ちている自身の剣ではなく、後方で腰を抜かしているアヤトの手元――正確には、彼が震える手で握りしめている短剣へと向けられた。



「ぐ、アヤト……!」


 掠れた、しかし芯のある声が戦場に響いた。


「あんたの持ってるそのなまくら……こっちに寄こしなさい!」

「え……?」


 絶体絶命のこの状況で、敵に立ち向かえというのか。

 アヤトは呆然とミレナを見つめ返す。


「耳が腐ってるの!? 早くしなさい!!」



 死の恐怖で竦む足。それでも、このままではミレナが死ぬ。彼女が死ねば、自分も確実に魔物の餌食になる。

 アヤトは地面に爪を立て、なりふり構わず泥まみれになりながら這って進み、ミレナの傍へと滑り込んだ。



「こ、これでどうするんですか!?」

「……私の横の幹に、思い切り刺しなさい! 早く!」


 ミレナは震える顎をしゃくって、自身が寄りかかっている太い木の幹を示す。

 巨大な蜘蛛が、地響きを立てながら眼前へと迫ってくる。


 アヤトは言われるがまま、シレナから貰った錆びついた短剣を両手で握りしめ、ミレナのすぐ脇の木の幹へと渾身の力で突き立てた。


「うぐ……ふっ……!」


 ミレナは幹に深く刺さった短剣の柄を震える腕で掴むと、それを取っ手代わりにして強引に身体を引き上げた。

 全身の痛みに顔を歪めながらも、背後にある太い木の幹に背中を預け、なんとかその身体を起こす。ガクガクと震える足は、今にも崩れ落ちそうだった。



「ミレナさん、はやく逃げ……」

「黙って! 早く私の下に入って『椅子』になりなさい!!」


「な、なにを言って」

「いいから! もう、あれしかない、のよ!」


 ミレナのただならぬ気迫と、すぐ目の前まで迫っている巨大蜘蛛の凶悪な顎。

 意味を問いただしている猶予など一秒たりともないようだ。

「はっ、はいぃ!」


 アヤトは泥だらけの地面に両手両膝を突き、ミレナの足元に滑り込むようにして、四つん這いの姿勢をとった。


 それと同時に、ミレナは幹に刺さった短剣の柄から手を離し、限界を迎えていた両足の力を完全に抜いて、アヤトの背中へと深く腰を下ろした。




「……は? はぁ!?」


 戦場を見下ろす巨木の上。

 狂気的な笑みを浮かべていたシレナの顔が、突如として真顔に戻った。


 死の間際、追い詰められた獲物がどんな無様な足掻きを見せるのか。あるいは、どんなふうに絶望に顔を歪めるのか。それが楽しみだった。

 彼女の視界に映ったのは、這いつくばった男の背中に女が腰を下ろすという、この極限状況においてあまりにも意味不明で、場違いな光景だった。



「なにやってるのあいつら……キモっ。死ぬ間際に頭おかしくなったわけ?」



 理解の及ばない狂態に完全にドン引きし、蔑むような視線を送るシレナ。

 しかし、彼女のその冷ややかな軽蔑は、次の瞬間、心底からの驚愕へと塗り替えられることになった。


「え……嘘、でしょ?」


 シレナの紫がかった瞳が限界まで見開かれる。

 離れた場所からでも、はっきりと視認できるほどの異常な現象が起きていた。


 アヤトの背に腰を下ろしたミレナの身体から、青白い魔力のオーラが爆発的に噴き上がり、巨大な柱となって立ち上り始めたのだ。

 大気がびりびりと震え、周囲の魔素が竜巻のように彼女のもとへと急速に収束していく。その圧倒的な密度の魔力に、安全圏にいるはずのシレナですら、背筋に悪寒が走った。



(……来た!)



 アヤトの背中に密着した瞬間、ミレナの全身を強烈な電流のような熱が駆け巡っていた。

 洞窟のときの比ではない。底を突いていたはずの魔力が瞬く間に満たされ、さらに上限すら容易くぶち破り、規格外の力が際限なく溢れ出してくる。


 魔力枯渇による激しい疲労で鉛のように重かった肉体が、嘘のように羽より軽くなる。

 全身の細胞が、漲る力に歓喜しているようだった。

 極限状態での主従関係、あるいは命の危機という条件。ミレナの立てた仮説は、戦場のど真ん中で完全に証明されたのだ。



「すげっ……ミレナさん、なんか光って……ません?」



 四つん這いになっているアヤトは、上に乗っているミレナから発せられる熱気と、押し潰されそうなほどのプレッシャーに身をすくませていた。

 自身が何かをしている自覚など微塵もなく、ただ目の前で起きている超常現象に、目を丸くしているだけだった。



「黙ってなさい。……動いたら舌を噛むわよ」



 ミレナは口元に好戦的な笑みを浮かべ、右手をグールスパイダーへと向けた。

 その声には、先ほどまでの疲労の色など微塵もない。


 目の前の巨大蜘蛛もまた、本能的に死の危機を感じ取ったのだろう。勝利を確信していた不気味な蠢きは止まり、八本の脚で後ずさりしながら、威嚇するように激しい鳴き声を上げた。



「水よ、極限まで圧縮し、すべてを穿つ矛となれ!」


 ミレナの詠唱と共に、彼女の右手の前に展開された魔法陣が激しく明滅する。

 先ほど放った水の槍とは次元が違う。大気がびりびりと震え、周囲の魔素が竜巻のように彼女のもとへと急速に収束していく。

 その圧倒的な密度の魔力に、安全圏にいるはずのシレナの背筋にすら、悪寒が走った。


 それはもはや、ただの魔法ではない。アヤトから供給された規格外の魔力によって、本来の限界を遥かに超えた超高密度のエネルギーの塊だった。



「消し飛びなさい……! 『ウェーブ・ランス』ッ!!」



 解き放たれた巨大な水の槍は、光の束となって一直線にグールスパイダーへと飛んだ。

 巨大蜘蛛は迎撃しようと太い前脚を振りかざしたが、超高圧の水流はそれを紙細工のように容易くへし折り、そのまま分厚い外殻ごと胸郭を完全に貫いた。


 蜘蛛の体内で圧縮された水圧が爆発的に弾け――グールスパイダーの巨体は、内側から破裂するどころでは済まず、細胞の一片すら残さず文字通り虚空へと消し飛んだ。



 さらに威力を一切減衰させることなく、敵を貫いた水圧の槍は、止まることなく一直線に森の奥深くへと飛翔していく。

 射線上にある巨木を何本も容易くへし折り、粉砕しながら進んだその一撃は、戦場を高みから見下ろしていたシレナの潜む木の枝の、ほんの数センチ横を通り抜けた。


「え……?」


 鼓膜を破るほどの強烈な風圧と、頬を掠めた鋭利な水の刃。

 かぶっていたフードが突風で舞い上がり、シレナの結い上げた黒髪の毛先が数本、音もなく切断されて宙を舞う。

 ほんの少しでも射線がズレていれば、自分もあの蜘蛛と同じように、肉片すら残らず消滅していた。


 その事実を理解した瞬間、狂気を孕んでいた彼女の紫色の瞳に、初めて明確な死の恐怖が浮かび上がり、冷や汗がどっと背中を伝った。


(やば……なに、いまの……。あんなの、もし、直撃したら、あたし……――死ん)



 ふいに腰が抜け、その場にへたり込む。ガタガタと震える膝。

 じんわりと生暖かくなる下半身の感触。小水は枝に染み込みきらず、はたはたと水滴になって下へ零れ落ちていた。シレナがそれに気づくのは、もう少し後になってからだった。



「うっ、はぁ……はぁ」






 一方、眼下の戦場。

 ミレナは荒い息を吐きながらも、自身の放った魔法の異常な破壊力に呆然としていた。



 魔力は充実している。疲労もない。だが……。

 眼前に広がるのは、深く抉り取られた地面と、一直線に薙ぎ払われた木々の残骸だけ。蜘蛛の死骸はおろか、糸や魔石といった換金素材の欠片すら一切残っていなかった。



「ちょっと……嘘でしょ」



 ミレナの口から、絶望のこもった声が漏れる。



「私の……私の大事な収入源が、全部……消し飛ん、だ……?」

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