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2-4

 後方へ這いずるように逃げたアヤトは、溶け落ちる木を見て顔面蒼白になった。あんなものを浴びれば、人間など一瞬で骨まで溶かされてしまうだろう。


 グールスパイダーという魔物が、どのような習性を持ち、どのような攻撃を繰り出すのか、アヤトには一切分からない。

 それでも、眼前にいる『あの個体』に関しては、明らかに普通ではない。それだけはアヤトにでも理解できた。



(やばいやばいやばい……あのクソデカマキリよりも絶対やべぇやつだろこれ)



 アヤトの戦慄をよそに、ールスパイダーは八本の脚を不気味に蠢かせ、次々と酸の混じった糸を吐き出していく。



「念のために言っておくけれど、あの口から出た糸に触れたら終わりよ!」

「分かってますとも!!」



 言うが早いか、アヤトは這うような無様な姿勢で、少しでも安全な太い木の後ろへと身を隠した。

 一方のミレナは、雨霰と降り注ぐ酸の糸を、踊るようなステップでギリギリのところで躱していく。


 足元がジュワジュワと溶け、嫌な異臭が辺りに立ち込める中、ミレナは一瞬の隙を突き、地面を強く蹴った。



「ハァッ!」



 鋭い呼気と共に、踏み込みの勢いを乗せた細身の剣が、グールスパイダーの前脚の関節へと正確に叩き込まれる。


 硬い甲殻の継ぎ目を狙った、完璧な一撃。

 ――になるはずだった。




「ッ! うぐっ……」




 火花が散り、ミレナの手に強烈な痺れが走る。

 関節の隙間にすら、同種を食らい尽くして得たものなのか、あるいは別の要因なのか、異常な魔力が分厚い膜のように張り巡らされていた。



「嘘でしょ……刃が通らないなんて!」





 驚愕で動きが止まったミレナに対し、グールスパイダーは八つの複眼を不気味に瞬かせ、丸太のように太い毛むくじゃらの脚を薙ぎ払うように振るった。


「くっ!」


 咄嗟に剣を盾にして受け流そうとするものの、その暴力的なパワーを殺しきれず、ミレナは大きく後方へと押し込まれる。

 ブーツの底が地面を削り、かろうじて体勢を維持したものの、腕は麻痺したように重かった。



「ミレナさん!!」

「……来るな、バカ! 隠れてなさい!」



 駆け寄ろうとしたアヤトを鋭い声で制し、ミレナは剣を地面に突き刺す。

 剣での物理的な打撃が通用しないと悟った彼女は、右手を前方に突き出した。大気中の水分が急速に収束し、巨大な水の矢へと形を変えていく。



「穿てッ! 『リキッド・アロー』!」



 ミレナの鋭い呼気と共に放たれた水の矢は、螺旋を描きながら空気を裂き、グールスパイダーの巨大な胸郭へと吸い込まれていく。急所を捉えた完璧な一撃。

 しかし、高圧の水流が分厚い外殻に激突した直後、弾け飛んだのは水飛沫のほうだった


「嘘……弾かれた!?」



 同族を喰らい尽くして得た異常な魔力が、見えない膜となって、物理的な水圧すら完全に相殺していた。

 驚愕に目を見開くミレナを嘲笑うかのように、巨大蜘蛛は八つの複眼を不気味に瞬かせると、突然その肥大化した腹部を背後の木陰に潜むアヤトへと向けた。


(えっ?)


 アヤトが嫌な予感に身をすくませた瞬間、グールスパイダーの腹部の先端――糸疣から、白濁した太い粘糸が網状に射出された。

 口から吐き出される酸の糸とは違う、純粋に獲物を捕縛するための強靭な糸。逃げる間もなく全身を白い網に包まれたアヤトは、為す術もなく宙へと引き上げられた。



「ちょっ!? ウソ、解けない……ッ!」


 空中で蜘蛛の巣に絡め取られた羽虫のようにもがくアヤトを、巨大蜘蛛はゆっくりと、鋭い大顎の待つ口元へ手繰り寄せていく。



「ッ、あのバカ!!」


 ミレナは瞬時に状況を悟り、両手に魔力を収束させる。先ほどの水の矢よりもさらに高度な圧縮と鋭さを持たせた魔力の刃。


『ウォーター・カッター』


 極限まで薄く研ぎ澄まされた水圧の刃が一直線に飛び、アヤトを空中に拘束していた粘糸を正確に切断する。



「ちょ! まっ! あ、ああああ!!!? かはっ……いってぇ!」


 支えを失ったアヤトは、重力に従って地面へと落下し、激しく咳き込んだ。



「くっ、はぁっ……はぁっ……!」


 アヤトを救出した直後、ミレナの体から不自然に力が抜け、その場に片膝を突いた。

 ただでさえ剣戟で体力を消耗していたところに、魔力消費の激しい攻撃魔法の連続使用。彼女にとって、魔力の枯渇はそのまま肉体的な疲労に直結する。つまり、深刻な体力切れだ。


 肺が焼け付くように酸素を求め、全身の筋肉が鉛のように重くなる。


「ぐっ……このままじゃ……!」



 獲物を奪われた怒りに複眼を不気味に明滅させながら、グールスパイダーが圧倒的な質量でミレナへと迫る。

 迫り来る死の重圧を前に、ミレナは震える右手を前へと突き出した。残された僅かな魔力を根こそぎかき集め、最後の一撃に賭ける。



「貫け…『ウェーブ・ランス』!」



 生生み出された水流の槍が、真っ直ぐ蜘蛛の頭部へと射出される。

 だが、魔力が底を突きかけている状態での魔法は、本来の威力を大きく欠いていた。

 水の槍は敵の強固な外殻に触れた瞬間、何のダメージも与えられず無残に砕け散り、ただの水飛沫となって虚空に消えた。


「そんな……!」



 最後の反撃が無為に終わり、愕然とするミレナの肉体から完全に力が抜け落ちた。

 強引な連続魔法が、限界を迎えていた体力を完全に食いつぶしたのだ。鉛のように重くなった体では、迫り来る次の攻撃に反応することなど不可能だった。


 狡猾な捕食者が、その致命的な隙を見逃すはずもない。

 丸太のように太い毛むくじゃらの前脚が、無慈悲に薙ぎ払われる。


 地面に突き刺した剣を握りなおすも、震える体では防御姿勢を取ることすら間に合わない。


「――はっ!」



 ミレナの細い体は、その圧倒的な質量をもろに受け、木の葉のように宙を舞った。

 背後にある太い木の幹に激しく叩きつけられ、肺から強引に空気が搾り出される。手からすっぽ抜けた細身の剣が、乾いた音を立てて、少し先の地面に転がっていった。


 地面に崩れ落ちたミレナは、苦悶に顔を歪めながら立ち上がろうとするが、手足はもはや言うことを聞かなかった。



「かはっ……! はっ、は。クヒュー、ひゅー……ケホ!」




 ミレナが地面に崩れ落ちたその瞬間、戦場から少し離れた巨木の太い枝の上で、黒いローブを纏った少女が歓喜に身をよじらせていた。




「あははっ! はい死んだ死んだ! いいよいいよ、そのままあの男の前でとどめ刺しちゃって!」



 シレナは両足を子供のようにバタバタと揺らしながら、口元を三日月のように吊り上げて嗤う。

 本来の目的はミレナが所持している『水神の瞳』を奪取することだが、ただ殺して奪うだけではつまらない。

 自分を無自覚に見下し、滑稽なまでに騙されたあの愚かな男が、唯一の希望であるミレナを目の前で惨殺され、絶望に染まる顔が見たくてたまらなかったのだ。



「さぁ、最高のショーを見せてよね。あたしの可愛いペットちゃん」



 少女の狂気じみた呟きに呼応するかのように、グールスパイダーは勝利を誇示するように八本の脚を不気味に蠢かせた。

 そして、動けなくなったミレナへとゆっくりと距離を詰めていき、鋭い牙の並ぶ大顎を大きく開く。

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