肺が焼き付くようだった。
冷たい雨の湿気を含んだ空気を吸い込むたびに、喉の奥が鋭く痛む。
俺たちは追っ手の監視カメラや無人ドローンを避けるように、幾つもの入り組んだ路地裏を抜け、さらに深い廃墟の地下へと潜り込んだ。
リュウの肩に強く支えられながら、俺の意識は何度も遠のきそうになる。
視界の端が赤く点滅し、まるで体中が異常な高熱に侵されているかのように歪んで見えた。
体の中心に、まだあの赤い熱が執拗に残っている。
それは俺を守る盾であると同時に、内側から肉を焼き、細胞を突き破ろうとする未知のエネルギーのようでもあった。
自分の意思とは無関係に加速する赤い拍動が、周囲の激しい雨音よりも大きく、耳元でドクン、ドクンと不気味なリズムを刻んでいる。
このままでは自分が熱で溶けて壊れてしまうのではないか、そんな根源的な恐怖が、冷え切った指先を微かに震わせた。
「……ここまで来れば、奴らの追跡レーダーも届かないはずだ。この辺りは旧市街の地下道が複雑に重なっているから、電波が遮断される」
辿り着いたのは、かつて地下鉄の駅だった場所だ。
崩落した天井の隙間から、地上の灰色の光が僅かに差し込むだけの、湿り気を帯びた広大な暗闇。
かつては多くの労働者が行き交ったであろうプラットホームには、今はただ機械が死んだような静寂と、長年放置された鉄の錆びた臭いだけが漂っていた。
リュウは俺を硬いプラスチック製のベンチに横たえると、素早く小型の端末を操作し、周囲に動体感知センサーを設置した。
彼の動きには無駄がない。だが、その横顔には隠しきれない焦燥と、親友の体を心配する暗い影が滲み出ていた。
「リュウ、済まない……俺のせいで、お前まで危険な目に……」
「謝るな。お前があの出力を出さなきゃ、今頃俺たちはあの発電所の廃棄場で焼却処分されていた。それにしても、赤いブレイバーか。レジスタンス政府のデータベースにも、そんな熱反応を示す個体の記録は存在しなかったはずだ!」
リュウは照明の落ちた暗闇で、手元のライトを点けた。
絞られた光が、俺の右腕をじっと照らし出す。
そこには電子回路のような、あるいは皮膚の下で高温の液体が流れているような赤いアザが、一定の周期で発光していた。
触れれば金属をも溶かす熱さがあるはずなのに、俺自身の感覚は冷たい水の中にいるようだった。
まるで、全身の熱量をすべてこのアザが強制的に集約し、外部へと放射しようとしているかのように。
「旧時代の文献では、ブレイバーの発光現象は青……高エネルギーの安定した放出を意味する色だと記されていた。だが、お前のは完全に熱暴走の色だ。ハルト、あの瞬間、お前の中で何が起きた? システムの不具合か?」
「分からない。ただ、あの起動キーに触れた瞬間、全てを受け止めて、自分自身を燃料にしてでも闇を焼き払らわなきゃいけないって……そいつの生存本能がそう命じていたんだ」
俺は震える拳を握り締めた。
対抗する手段が欲しかったのは事実だ。
無力なまま消されるのは耐えられなかった。
だが、実際に得たこの力はあまりに過剰で、暴力的だ。
強化外骨格を装着した兵士を一瞬で蒸発させたあの物理的な破壊の感触が、今も右腕から神経を通って脳へと、鋭い電気信号として伝わっている。
その時、地下の静寂を切り裂くように、高周波のアラート音が響いた。
リュウが腰のデバイスから、使い古された通信機を取り出す。
暗号化されたデジタルノイズの向こうから、冷静ながらも切迫した女性の音声が流れてきた。
『リュウ、警告よ。即座にその座標を破棄して。敵の熱探知サテライトが君たちを捕捉したわ。“執行官”が高機動スラスターを使用して急行している。対象は発電所で観測された未登録の高熱源……赤い光よ。上層区の治安維持部隊が全展開しているわ。君たち何をしたの!?』
リュウの表情が一瞬で険しくなった。
「執行官だと!?......計算が合わない……!奴らの動力炉では、ここまで短時間での移動は不可能なはずだ! たかがスラムの一区画に、特殊兵装を投入するっていうのか!」
『科学局が異常な関心を示しているのよ。理論上あり得ない“赤”の波長を、彼らは致命的なシステムエラーとして排除する方針を固めたみたい。奴らはその波長を直接追っているわ。地下にいても無意味よ、街全体に量子スキャンの網が張られたわ。生存確率は秒単位で低下しているわよ』
通信が強制終了された。
リュウは激しく舌打ちをすると、俺の腕を強引に引き起こした。
「ハルト、立て! システムの復旧を待っている時間はない。最新の兵器がお出ましだ。一般兵の装甲なんてのは、ただの薄板みたいなものだが、次の相手は別次元だ」
その言葉と同時だった。
地上へと続く階段の上から、カツン、カツンと精密な機械のような規則的な足音が響いてきた。
それは生身の人間のような不安定なリズムではない。
最高水準の人工知能によって制御された、最適な歩行。
一歩、また一歩と近づくたびに、空気中の静電気が高まり、肌を刺すような緊張感が地下を満たしていく。
暗闇の中から姿を現したのは、特殊な合成繊維で作られた純白のプロテクターを纏った一人の男だった。
汚れきったこの地下街にはあまりに場違いな、光を反射する銀色の装飾。
そいつは、一切の無駄を削ぎ落とした動作で歩み寄り、高性能な義眼が発する青い光で俺たちを分析した。
「低層住民が保持するには、過大なエネルギーだな。その異常波長の赤……速やかにデリートする必要がある」
男が右腕のハードポイントをこちらへ向けると、内蔵されたリニア機構が高速で作動し、空気を切り裂く音とともに超硬質のワイヤーブレードが射出された。
磁場によって自在に軌道を変え、標的を正確に切断する特殊兵装。
科学の粋を集めて作られた、執行官の冷酷な牙だ。
彼から発せられる計算し尽くされた殺気に、俺の足が本能的に震え始める。
「リュウ、下がっていてくれ……こいつは、俺が対応するしかないんだ」
俺は床に転がっていた鉄パイプを武器として構えた。
体は細胞レベルでのオーバーヒートにより悲鳴を上げている。
腕の紋様は今や限界まで赤く輝き、周囲の空気を陽炎のように揺らしていた。
だが、目前の圧倒的な戦力差が、俺の精神を無理矢理に覚醒させる。
怖い。
逃げたい。
それでも、守ると決めた場所を放棄することだけは、もう二度としないと誓ったんだ。
「効率が悪い。その制御不能な熱量が、どこまで理論に基づく力に対抗できるか……実験といこう。無価値な個体の終焉をな」
執行官が左手のコンソールを操作する。同時に、空中に浮遊していた数機の攻撃ユニットから、目にも止まらぬ速さでレーザーが照射された。俺は奥歯を噛み締め、右腕に意識を集中させる。
「うぉぉぉぉぉ!」
叫びとともに、右腕から噴出した圧倒的な熱波が、持っていたパイプを一瞬でプラズマ化させ、巨大な光の剣を作り出した。
迫り来るレーザーを、俺は必死に薙ぎ払う。
激突の瞬間、駅舎全体を揺るがすほどの物理的な衝撃が発生し、堅牢なコンクリートの壁がドロドロに融解した。
「……信じがたい。生体ユニットからこれほどの物理出力が出せれるのか!」
リュウが背後で驚愕の声を漏らす。
だが、俺に精神的な余裕は欠片もない。
一撃を防ぐごとに、全身の毛細血管が破裂しそうなほどの負荷がかかっている。
視界は灼熱の赤に染まり、心拍数は致死域に達して脳を掻き回していた。
執行官は、わずかに機械の義眼をおさえ焦点を調整した。
それは驚きというよりは、未知のバグを発見した時の論理的な不快感に近い反応だった。
彼は右足の電磁アンカーを床に固定する。
今度は肩部から、小型ミサイルが自動追尾モードで発射された。
「ハルト、回避に専念しろ! 直撃すれば蒸発するぞ!」
リュウの指示に即座に反応し、俺は横へ跳んだ。
直後、さっきまで俺がいた地点をミサイルが粉砕し、地下施設の床に巨大なクレーターを作った。
俺は空中で姿勢を制御し、赤い光を纏った拳を地面に叩きつける。
「燃え尽きろぉ!」
俺の咆哮に呼応し、接触地点から高密度の熱エネルギーが放射状に広がった。
接近する無人機を焼き払いながら、熱波は執行官へと迫る。
地下駅の暗闇が、その瞬間だけは核融合の中心のような白濁した赤に塗り潰された。
衝撃の余韻が冷めぬ中、俺は激しく喘ぎながら床に膝を突いた。
意識を維持するだけで脳のヒューズが飛びそうだ。
だが、砂塵が晴れた先に立っていたのは、物理的な損傷を一切感じさせない、無傷の執行官の姿だった。
彼の周囲には、高周波振動による空気の壁が展開されており、俺の熱を力学的に逸らしていた。
(第 4話に続く)