第六十話 成る駒
楓は、隣を歩く千尋をちらりと見た。
箒と雑巾を抱えた1年生は、さっきまで体育館で繰り広げられていたくじ引きを思い出しているのか、まだ少し笑っている。
部室へ向かう廊下は、その体育館が嘘みたいに静かだった。
「でも、なんでクリスマスに大掃除なんですか?」
「ああ、これ?」
楓は抱えていたバケツを持ち直した。
「ほら、年始早々に春高だから。年末ぎりぎりまで引っ張ると忙しいし、毎年この辺になるんだよ」
「クリスマス感、全然ないですね」
「あるよ」
「どこにですか?」
「このあとお菓子パーティー」
「急にクリスマスになりましたね」
千尋が妙に納得した顔をした。
今年が初めてなのだから、知らなくて当然だ。楓にとっては3度目になるけれど、改めて考えれば、クリスマスに全員で大掃除をして、そのあと部室で菓子を食べるというのも変な伝統だった。
「だから部室、ちゃんと綺麗にしないとね。今日の会場ここだから」
「なるほど。一番楽な場所を引いたと思ったら、ちゃんと仕事があるんですね」
「他より楽なのは本当だよ」
扉を開ける。
普段使っている机やロッカーだけなら、確かに大したことはない。
問題は、その奥だった。
何年置いてあるのか分からない段ボールやファイル、古い大会資料や備品が、棚の奥にぎっしり詰まっている。
千尋が中を見回した。
「……一番楽?」
「風呂よりは」
「その比較、強すぎません?」
「沙耶に聞いたら怒るよ」
「やめておきます」
まず机と椅子を端へ寄せ、棚の中身を一度出していく。捨てていいものと残すものを分けながら、千尋には古い資料の整理を頼んだ。
「これ、捨てていいか分からないものは?」
「こっちの箱に入れて。あとで確認する」
「はい」
しばらくは、紙の擦れる音と、たまに千尋がくしゃみをする音だけが続いた。
「うわ、埃すごい」
「年に1回しか触らないところだからね」
「絶対去年も『来年ちゃんと整理しよう』って言ってますよね」
「……言った気がする」
「やっぱり」
千尋が笑いながら、棚の一番奥から平たい箱を引っ張り出した。
「楓先輩、これ何ですか?」
「ん?」
開けてみると、中には何冊ものアルバムが入っていた。
「ああ、昔の写真だ」
「見てもいいですか?」
「掃除の手が止まらない程度なら」
「善処します」
「止まるやつだ、それ」
案の定、数分後には止まっていた。
大会の集合写真、合宿、卒業式、春高の会場で撮ったもの。年代ごとに並んでいて、今いる先輩たちの幼い顔も混じっている。
「あ」
千尋が1枚の写真を指差した。
「これ、綾香先輩たちですよね?」
「1年の時だね」
「……多くないですか?」
楓も覗き込んだ。
今の3年生も人数は多いが、その写真にはさらに多くの部員が並んでいる。
「多いよ。私たちの代までは、中等部のバレー部にいた子は全員そのまま高等部に上がれたから」
「全員?」
「うん。今とは全然違う」
千尋がもう一度写真へ目を落とした。
「じゃあ、沙耶先輩たちの代は?」
「そこから変わった。高等部へ上がれたのは、たしか半分くらい」
「半分……」
「で、伊織の代は1人」
千尋の指が止まる。
「1人?」
「伊織だけ」
しばらく写真を見たあと、千尋が言った。
「じゃあ伊織って、1人だけ残ったんですね」
「違うよ」
ほとんど考えるより先に、言葉が出た。
千尋が顔を上げる。
「伊織は残ったんじゃない。選ばれた」
「……選ばれた」
「うん」
あの学年で、高等部へ上げる内部生を1人だけ選ぶ。
その1人が伊織だった。
楓にとっては、不思議でも何でもなかった。
伊織が中等部3年だった時のことを、楓はよく覚えている。
レギュラーの中で、3年生は伊織1人だった。
キャプテンで、セッター。
周りはほとんど1、2年生だった。
それで全国大会まで行った。
外から結果だけ見れば、「強いセッターがいた」で済むのかもしれない。
けれど、楓にはそれがどれだけおかしいことか分かっていた。
自分もセッターだったから。
トスが上手いだけで、後輩ばかりのチームを全国へ連れていけるわけではない。誰が今一番打てるのか。誰が崩れているのか。誰を使えば相手が寄るのか。そこから次にどこが空くのか。
経験の浅い後輩たちを使いながら、試合の流れを整え、勝てる形を作り続けなければならない。
しかも、伊織はキャプテンでもあった。
自分だけが3年生のコートで、それをやっていた。
あれを中学生でやる人間を、楓は他に知らない。
「その年さ」
「はい?」
「高等部が外から推薦で取ったの、誰だった?」
千尋が少し考える。
「私と、凜と、美緒です」
「そう」
「真帆は一般入試ですもんね」
「うん」
千尋は首を傾げた。
「……なんで急にそれ聞いたんですか?」
「別に」
「絶対別にじゃないですよね」
「掃除しよっか」
「誤魔化した」
楓は笑って、アルバムを箱へ戻した。
別に、答えを知っているわけではない。
深見先生から聞いたこともない。
ただ、並べてみると少し気になるだけだ。
中等部から上げたのは、伊織1人。
そして外から取ったのが、凜、美緒、千尋。
たまたまと言われれば、それまでだ。
けれど、深見先生は「たまたま」で選手を集める人ではない。
「あ」
別の棚へ手を入れた時、指先に木の感触が当たった。
引っ張り出してみると、少し古びた箱が出てくる。
「何ですか、それ」
「将棋」
「……なんでバレー部の部室に将棋があるんですか?」
楓は思わず笑った。
「私の1つ上にいたセッターの先輩が好きだったんだよ」
蓋を開けると、盤と駒がきちんと入っていた。
「よく部室でやってたなあ」
「楓先輩も?」
「教えてもらった」
懐かしかった。
楓が1年生だった頃、その先輩は2年生で、青嵐の正セッターだった。
最初は当然、楓よりずっと上だった。
それでも1年の途中から楓が試合で使われるようになり、やがて先発することも増えた。
先輩は2番手になった。
そして翌年。
怜奈が入ってきた。
今度は楓が2番手になり、3年生になったその先輩は、最後には12人からも外れた。
自分が先輩から取った場所を、怜奈に取られた。
そして今は、2番手として残っていた場所まで伊織に取られた。
同じことをして、同じことをされている。
少し前なら、もっと苦く感じたかもしれない。
けれど今は、不思議とそうでもなかった。
あの先輩も、こんな気持ちだったのだろうか。
「楓先輩?」
「あ、ごめん」
「捨てます?」
「これは残す」
箱を閉じかけて、ふと思いつく。
「千尋、将棋できる?」
「少しなら」
「できるんだ」
「父が好きなんです。小さい頃、たまに付き合わされてました」
「ああ、何か分かる」
「何がですか」
「容赦なさそう」
「ないです。初心者相手でも普通に勝ちに来ます」
「やっぱり」
「そのせいで覚えました」
掃除が終わったら1局やろうという話になり、それから2人の手は少しだけ速くなった。
棚を拭き、机を拭き、床を掃いて、ゴミをまとめる。
他の担当はまだ戻ってこない。
廊下の向こうから、ときどき誰かの声や物を動かす音が聞こえてくる程度だった。
「よし。終わったかな」
「たぶん」
「じゃあ、やる?」
「やります」
机の上に将棋盤を置く。
駒を並べる千尋の手つきを見て、楓は少し驚いた。
「千尋、普通にできるじゃん」
「父が好きなので、ルールだけはちゃんと分かります」
「『少し』って言うから、駒の動かし方知ってるくらいかと思った」
「そのくらいなら父に勝負させてもらえません」
「教育が厳しいなあ」
対局を始めると、やはり千尋はそこそこ指せた。
慎重で、妙なところへ駒を出さない。
ただ、楓から見ればまだ読みやすい。どこを警戒しているのかも、次に何をしたいのかも、それなりに見える。
その顔を眺めながら、楓はふと伊織を思い出した。
セッターというポジションを将棋に似ていると思うようになったのは、あの先輩に将棋を教わってからだ。
手元にあるものをどう使うか。
相手が何を警戒するか。
どこを動かせば、次にどこが空くのか。
そういうことを考えるところは、確かによく似ている。
そして楓には、どうしても天才だと思うセッターが2人いた。
怜奈と伊織だ。
それは、高等部に入ってからの2人だけを見て思ったことではない。
楓は2人とも、中等部の頃から知っている。
まだ今ほど周りに強い選手が揃っていなかった頃から、2人が普通のセッターとは違うことを知っていた。
ただ、その天才の形は、まるで違った。
怜奈は、手元にある選手の力を最大限に使うことが異常に上手い。
今の青嵐には、沙耶がいて、皐月がいて、梓がいて、瑞穂がいて、由梨がいる。それぞれ違う武器を持った選手たちを、怜奈は全員、本当に攻撃の選択肢として成立させる。
誰か1人をただの囮にしているわけではない。
どこへ上げても、本当に点を取れる。
だから相手は最後まで選び切れない。
一方の伊織は、もっと違うところが怖かった。
中等部3年の時、伊織の周りには、今の青嵐のように全国レベルの武器を持った選手が何人も揃っていたわけではない。むしろ、ほとんど後輩だった。
それでも伊織は、その手元にいる選手で勝てる形を作った。
相手に何かを見せて、それを警戒させる。
その警戒を利用して、別の場所を使う。
正しい判断をさせた上で、その判断ごと裏切る。
強い駒が揃っているから戦えるのではなく、今ある駒で勝てる盤面を作ってしまう。
楓が伊織を怖いと思うのは、そこだった。
だからこそ、時々考える。
あの伊織に、最初から強い駒を渡したらどうなるのだろう、と。
高校に上がって、その答えの一部はもう見えていた。
凜は分かりやすい。
高さがあり、強打があり、前衛にいれば相手が無視できない。
美緒も分かる。
最初の1本を高い精度で返し、伊織が選べる状態を残してくれる。
では、千尋は何なのだろう。
「楓先輩」
「ん?」
「今、違うこと考えてません?」
「考えてないよ」
「その間は怪しいです」
「盤面見てただけ」
「本当かなあ」
千尋が1枚の駒を進めた。
楓も盤面へ視線を戻す。
対局が進むにつれて、1枚の歩が少しずつ楓の陣地へ近づいてきていた。
歩は、基本的には前へ1つしか進めない。
将棋の中でも一番数が多く、最初にできることは少ない駒だ。
けれど、相手の陣地まで進めば、途中で役割を変えられる。
「……成ります」
千尋がそう言って、歩を裏返した。
現れたのは、「と」の文字。
と金。
さっきまで前へ1つ進むことしかできなかった歩が、成った瞬間から、前後左右や斜め前へと動けるようになる。
楓はその駒を見た。
それから、向かいにいる千尋を見る。
そこで、急に腑に落ちた。
ああ。
この子、これなんだ。
「何ですか?」
「何でもない」
「今、絶対何かありましたよね」
「ないよ」
千尋は疑わしそうな顔をしている。
楓は、もう一度と金になった駒へ目を落とした。
千尋は、最初から何も持っていなかった選手ではない。
むしろ、強いサーブというはっきりした武器を、入学した時から持っていた。
あのサーブがあったから、最初に試合で使われた。
けれど、千尋がおかしいのはその先だ。
サーブを打って終わりだったはずの選手が、後衛に残るようになった。
レシーブとディフェンスを担い、凜を前衛の攻撃に集中させるための3ローテを引き受けるようになった。そこへバックアタックまで加わって、最近では前衛に入った時にも、自分に何ができるのかを考え始めている。
元々持っていた武器を軸にしながら、その時その時で必要になったものを覚えて、自分ができる仕事を少しずつ増やしてきた。
役割を与えられるたびに、その役割だけで終わらない。
そこからもう一つ先へ進む。
歩が一歩ずつ前へ進んで、やがて成るように。
そう考えた瞬間、さっきの写真の前で千尋に聞いたことまで、一本につながった。
伊織1人を中等部から選んだ。
そして外から、凜と美緒と千尋を取った。
凜は強い攻撃の駒になる。
美緒は盤面を崩さず、伊織に選択肢を残す。
千尋には、最初からサーブという武器がある。けれど、それだけではない。使えば使うほど、自分でできることを増やし、役割そのものを変えていく。
強い駒が揃っていなくても勝てる盤面を作っていた伊織のところへ、そんな選手を置いた。
深見先生が最初からそこまで考えていたのかは分からない。
聞いたこともないし、確かめたこともない。
それでも、妙に納得できた。
もしかすると、あの年に深見先生が一番最初に欲しいと思ったのは、凜でも美緒でもなく、この子だったのかもしれない。
強い選手なら他にもいる。
けれど、一つの武器を入口にして、使われるたびに新しい役割を増やしていく選手は、そう多くない。
そして伊織なら、きっとそれを使う。
千尋自身が思っているより、ずっと面倒な形で。
「楓先輩」
「何?」
「やっぱり何か分かりましたよね」
「うん」
「ほら!」
千尋が身を乗り出した。
「教えてください」
「嫌」
「なんでですか」
「そういうのは、コートで分かった方がいいから」
「何ですか、それ」
「伊織とちゃんと噛み合ったら、そのうち分かるよ」
「余計気になるんですけど」
「じゃあ早く噛み合って」
「無茶言いますね」
千尋が不満そうに盤面へ目を戻した。
楓も次の一手を考える。
教えてしまうのは簡単だった。
でも、たぶん違う。
伊織が千尋をどこへ置くのか。
その場所で千尋が何を見つけ、何を増やすのか。
2人が本当に噛み合った時、その意味は本人たちが一番よく分かるはずだ。
それを言葉で先に渡してしまうのは、少しもったいない。
その時を見られるかどうかは分からないけれど、見られるなら、ちょっと楽しみだった。
その時、廊下の向こうから大きな声が聞こえた。
「終わったぞー!」
「お菓子まだですかー!?」
「お菓子ー!!」
楓は吹き出した。
「……来た」
「何がですか?」
「煩いの三重奏」
足音まで騒がしい。
「楓先輩! 聞こえてますからね!?」
「ほら」
「本当に聞こえてる」
「お菓子どこ!?」
「凜、まだ食べるなよ!」
「分かってますよ!」
3人の声が重なりながら、こちらへ近づいてくる。
その後ろには、きっと美緒が静かについてきているのだろう。
楓は笑いながら、1枚の駒を動かした。
「王手」
「え?」
千尋が慌てて盤面を見る。
逃げ道を探し、しばらく視線を動かしたあと、その目が止まった。
「……あ」
「詰み」
「うわ」
その瞬間、部室の扉が勢いよく開いた。
「終わったぞー!」
「お菓子!」
「お腹空きました!」
綾香、沙耶、凜がほとんど同時に入ってくる。
少し遅れて、美緒が静かに姿を見せた。
「だから誰が煩いんだよ!」
「楓先輩、まだ言ってたんですか!?」
「私まで入ってるのおかしくないですか!?」
また3方向から声が飛んでくる。
美緒が、その後ろから一言だけ言った。
「まだ証明してる」
「美緒!?」
楓は笑いながら、盤上の王将を指先で軽く叩いた。
どうやら今年のクリスマスも、静かには終わりそうになかった。




