第七話 英雄?の報酬
禁忌の森から戻ったレオン・ガルディアは、ひどい姿だった。
外套は泥と蜘蛛の糸にまみれ、袖には魔糸で焼けたような跡がある。
髪にも細い糸が絡み、肩には葉っぱがついていた。
王都の門番は、その姿を見て一瞬固まった。
門番「ギ、ギルドマスター……?」
レオン「ああ」
門番「ご無事で……?」
レオン「たぶん」
セシリア「無事ではありますが、見た目は無事ではありません」
バルド「蜘蛛の巣まみれの英雄ってのも珍しいな」
レオン「言うな」
グレン「兵士二名は救助した。すぐ治療院へ運べ」
門番「はっ!」
騎士たちが慌ただしく動き、救助された兵士二人が治療院へ運ばれていく。
兵士たちは衰弱していたが、命に別状はなかった。
それを確認したレオンは、ようやく小さく息を吐いた。
――間に合った。
今日は何度もそう思った。
路地裏の子ども。
第七倉庫の子どもたち。
禁忌の森の兵士。
全部、少し遅ければ間に合わなかったかもしれない。
レオンは自分の手を見た。
蜘蛛の糸に魔力を吸われ、まだ少し指先が痺れている。
セシリア「マスター。手を見せてください」
レオン「もう見ただろう」
セシリア「森の中での応急処置です。戻ったら確認すると言いました」
レオン「王への報告が先では?」
セシリア「報告の前に倒れられると困ります」
バルド「副マスターの言う通りだな」
レオン「珍しくまともなことを言う」
バルド「俺はいつもまともだろ」
グレン「それは違う」
バルド「おい」
セシリアはレオンの手首を取り、魔力の流れを確認した。
セシリア「軽い魔力欠乏です。今日は大きな魔法や身体強化は控えてください」
レオン「分かった」
セシリア「本当に?」
レオン「努力する」
セシリア「その返事は禁止にしたいです」
レオン「では、気をつける」
セシリア「少しだけ進歩しました」
レオンは何とも言えない顔をした。
そのまま四人は王城へ向かった。
本当なら、レオンは今すぐ風呂に入りたかった。
服についた蜘蛛の糸を落としたかった。
孤児院に寄って、マーサ先生に食材を渡したかった。
だが、王命で動いた以上、報告をしないわけにはいかない。
王城の謁見の間に入ると、国王エルドランは玉座から立ち上がった。
国王「戻ったか」
レオン「戻りました」
国王「……ずいぶんな姿だな」
レオン「蜘蛛でした」
国王「報告が短すぎる」
セシリア「禁忌の森外縁部で魔力異常を確認。原因は魔紋大蜘蛛を中心とした蜘蛛型魔物の巣でした。通常種三体、変異種一体を討伐。行方不明の兵士二名は救助済みです」
国王「兵士は?」
グレン「治療院へ搬送しました。命に別状はありません」
国王「よくやった」
国王は深くうなずいた。
謁見の間にいた臣下たちも、ほっとしたように息をつく。
しかし、レオンはあまり嬉しそうではなかった。
頭についた蜘蛛の糸が気になっているからではない。
いや、それも少しある。
だが、それだけではなかった。
レオン「陛下」
国王「なんだ」
レオン「禁忌の森の魔力異常は、一時的なものではない可能性があります」
謁見の間の空気が変わる。
国王「理由は?」
レオン「魔紋大蜘蛛の背中に、自然発生とは違う魔力の痕がありました」
セシリア「私も確認しました。魔力の流れが人工的に歪められた可能性があります」
グレン「誰かが森の魔物を変異させたということか?」
セシリア「断定はできません。ですが、魔王軍の残滓、あるいは古代魔法具の影響も考えられます」
バルド「嫌な話だな」
レオン「ああ」
国王はしばらく黙っていた。
そして、重い声で言った。
国王「調査は継続する。だが、今日は休め」
レオン「休む前に一つ」
セシリアがわずかに眉を寄せた。
セシリア「マスター」
レオン「大事な話だ」
国王「言ってみろ」
レオン「今回の報酬ですが」
国王「望むものがあるのか?」
臣下たちがざわめいた。
竜殺しの英雄が、王に報酬を求める。
金か。
爵位か。
領地か。
武具か。
周囲はそう考えた。
だが、セシリアだけは少しだけ目を伏せた。
彼女には、レオンが何を言うかだいたい分かっていた。
レオン「ひだまり孤児院に、しばらく食糧支援をお願いします」
謁見の間が静かになった。
国王「……自分の報酬ではなく?」
レオン「俺の報酬です」
国王「それを孤児院に使うのか」
レオン「あそこに子どもが増えます」
国王「第七倉庫の件か」
レオン「はい。昨日から、戦災孤児と行方不明の子どもの件が続いています。今後も増えるかもしれません」
国王「金貨ではなく食糧でいいのか?」
レオン「金貨は途中で消えることがあります。食糧なら、子どもが食べられます」
その言葉に、臣下の何人かが顔をしかめた。
王都の流通には、商会や貴族の利権が絡む。
食糧を直接孤児院へ流すということは、その間に入る者たちを飛ばすということでもある。
国王はそれを理解していた。
国王「なるほど」
レオン「それと、薬も」
セシリア「マスター」
レオン「毛布も」
グレン「増えたな」
バルド「ついでに薪も言っとけ」
レオン「薪も」
セシリア「本当に言わないでください」
国王は声を立てて笑った。
国王「よかろう」
臣下「陛下」
国王「構わん。竜殺しが求めた報酬だ。食糧、薬、毛布、薪。ひだまり孤児院へ三か月分を届けさせる」
レオン「感謝します」
国王「ただし、条件がある」
レオン「条件?」
国王「それはひだまり孤児院だけのためではない。王都周辺の戦災孤児と避難民の支援にも使え」
レオンは少しだけ目を見開いた。
それは、アリア院長の言葉と重なった。
ひだまりとは、自分たちだけが暖かい場所ではない。
寒い場所にいる誰かへ、少しだけ分けるための場所。
レオン「……分かりました」
国王「お前なら、無駄にはしないだろう」
レオン「善意だけで混乱しないよう、段取りは組みます」
セシリア「その段取りの書類は誰が作ると思っているのですか」
レオン「……俺も手伝う」
セシリア「絶対です」
レオン「努力する」
セシリア「その返事は禁止です」
レオン「手伝う」
セシリア「よろしい」
バルド「王の前でもいつも通りだな」
グレン「ある意味、大物だ」
国王は楽しそうに見ていたが、やがて真面目な顔に戻った。
国王「レオン。禁忌の森の件は終わりではない」
レオン「分かっています」
国王「だが、今夜は帰れ。お前には帰る場所があるのだろう」
レオン「はい」
国王「なら、そこへ戻れ」
レオンは深く頭を下げた。
王城を出る頃には、空は暗くなり始めていた。
王都の街には灯りがともり、家々から夕飯の匂いが漂っている。
レオンは歩きながら、自分の服についた蜘蛛の糸を引っ張った。
糸はまだ少しべたついている。
レオン「……気持ち悪い」
バルド「竜殺しが蜘蛛の糸で弱るなよ」
レオン「竜の血の方がましだ」
セシリア「その比較は一般的ではありません」
グレン「まず湯を浴びた方がいいな」
レオン「孤児院に寄ってから」
セシリア「その姿でですか?」
レオン「食材支援の話を早く伝えたい」
セシリア「子どもたちが怖がります」
バルド「いや、トトは笑うだろ」
レオン「笑うな」
グレン「絶対笑うな」
セシリア「エルは少し驚くかもしれません」
その名前を聞いて、レオンは足を止めた。
エル。
昨日、路地裏で震えていた少女。
今日、ちゃんと食べられているだろうか。
眠れているだろうか。
ニコたちのことを聞いて、少し安心できただろうか。
レオン「……寄る」
セシリア「分かりました。ただし、長居はしないでください。治療と入浴が先です」
レオン「ああ」
バルド「俺も行く。腹減った」
セシリア「夕飯をもらう気ですか?」
バルド「孤児院の飯、うまいんだよ」
セシリア「食材支援が決まった直後に増える大人がいますね」
バルド「俺は戦力だからいいだろ」
グレン「私は騎士団に戻る。兵士の件を処理しなければならない」
レオン「頼む」
グレン「お前は休め」
レオン「努力する」
グレン「セシリア殿、その返事は禁止にした方がいい」
セシリア「すでに禁止しました」
レオン「……気をつける」
グレンは苦笑し、騎士団の詰所へ向かった。
レオン、セシリア、バルドの三人は、ひだまり孤児院へ向かう。
孤児院に着くと、食堂から明かりが漏れていた。
窓の向こうに、子どもたちの影が揺れている。
レオンは扉の前で少しだけ立ち止まった。
――帰ってきた。
ただそれだけのことなのに、胸の奥が少し軽くなる。
戦場から戻った時。
竜を倒した時。
魔王軍の将を退けた時。
どんな勝利よりも、この扉の前に立つ瞬間の方が、レオンには大事だった。
レオンが扉を開ける。
レオン「ただいま」
食堂の中が一瞬静かになった。
そして。
トト「……ぶっ!」
トトが吹き出した。
レオン「トト」
トト「ご、ごめん! でも、レオン兄ちゃん、頭に蜘蛛の巣ついてる!」
ガル「うわ、本当だ」
ミナ「レオン、大丈夫ですか?」
リリィ「蜘蛛のにおい」
バルド「リリィ嬢、それ分かるのか?」
リリィ「なんとなく」
マーサが台所から出てくる。
マーサはレオンの姿を上から下まで見た。
マーサ「……まず風呂だね」
レオン「報告がある」
マーサ「風呂が先だよ」
レオン「だが」
マーサ「食堂に蜘蛛の糸を落とすんじゃない」
レオン「……はい」
トト「レオン兄ちゃん、王様よりマーサ先生の方が怖い?」
レオン「失礼なことを言うな」
トト「どっちが?」
レオンは答えなかった。
バルドが腹を抱えて笑う。
バルド「ははは! 答えないってことはそういうことだ!」
マーサ「バルド、あんたも手を洗ってから座りな」
バルド「はい」
セシリア「強い人ほど、ここでは素直ですね」
レオン「逆らう理由がない」
その時、食堂の端に座っていたエルが、そっとレオンを見た。
レオンはその視線に気づき、少しだけ表情をやわらげる。
レオン「エル」
エル「……おかえり、なさい」
その言葉は、まだ少したどたどしかった。
けれど、レオンは一瞬だけ黙った。
胸の奥が、静かに温かくなる。
レオン「ああ。ただいま」
エル「蜘蛛、いたの?」
トト「でっかい蜘蛛だって!」
バルド「馬車くらいあったな」
トト「馬車!? レオン兄ちゃん倒したの!?」
レオン「倒した」
トト「すげぇ!」
ガル「やっぱり化け物だな」
ミナ「ガル、言い方」
ガル「褒めてる」
リリィ「蜘蛛、かわいそう?」
レオン「……襲ってきたからな」
リリィ「そっか」
リリィは納得したようにうなずいた。
トト「ねえねえ、どうやって倒したの!?」
レオン「風呂の後だ」
マーサ「その前に服を脱いで、外で糸を払ってきな」
レオン「分かった」
トト「俺も見る!」
マーサ「トトは座ってな」
トト「えー!」
マーサ「えー、じゃないよ」
トト「はい!」
エルはそのやり取りを見て、少しだけ笑った。
ほんの小さな笑顔だった。
でも、昨日よりは自然だった。
レオンはそれを見て、心の中で思う。
――少しずつでいい。
一日で安心できるようになる必要はない。
一晩で笑えるようになる必要もない。
温かい飯があって、眠れる場所があって、名前を呼ぶ人がいる。
それを一つずつ覚えていけばいい。
風呂を済ませ、着替えたレオンが食堂へ戻る頃には、夕飯が並び始めていた。
野菜のスープ。
豆の煮込み。
焼き直したパン。
少しだけ干し肉を入れた炒め物。
バルドはすでに席についていた。
セシリアはマーサの手伝いをしている。
トトは椅子の上でそわそわしている。
トト「レオン兄ちゃん! 蜘蛛の話!」
マーサ「食べながら暴れないならね」
トト「暴れない!」
ガル「絶対暴れる」
ミナ「トト、こぼしたら自分で拭いてね」
トト「分かってるって!」
レオンは席に座った。
その隣に、エルが少しだけ離れて座っている。
まだ近づきすぎるのは怖いのだろう。
でも、同じ食卓には座っている。
それだけで十分だった。
マーサ「それで、報告って何だい?」
レオン「ああ」
レオンは木の椀を受け取りながら言った。
レオン「王から、ひだまり孤児院への食糧支援が決まった」
食堂が一瞬静かになった。
ミナ「本当ですか?」
レオン「ああ。食糧、薬、毛布、薪。三か月分だ」
トト「三か月ってどれくらい?」
ガル「けっこう長い」
トト「すげぇ!」
マーサは黙ってレオンを見た。
マーサ「……あんた、何を報酬にしたんだい?」
レオン「今回の任務の報酬だ」
マーサ「自分のために使わなかったのかい」
レオン「俺は困っていない」
セシリア「嘘ですね。マスターの私物の外套は三着中二着が破損しています」
バルド「今日また一着、蜘蛛の糸でやられたしな」
レオン「外套は後で買う」
マーサ「まったく」
マーサはため息をついた。
だが、その目は少しだけ優しかった。
マーサ「ありがとう、レオン」
レオン「俺の力じゃない。王の決定だ」
マーサ「それを引き出したのは、あんただろう」
レオンは少しだけ視線をそらした。
褒められるのは苦手だった。
トト「レオン兄ちゃん、照れてる!」
レオン「照れていない」
ガル「耳が赤い」
レオン「気のせいだ」
ミナ「少し赤いですね」
リリィ「赤い」
セシリア「赤いです」
バルド「真っ赤だな」
レオン「夕飯を食べるぞ」
トト「逃げた!」
食堂に笑い声が広がった。
エルはその笑い声の中で、スプーンを握っていた。
怖くない笑い声。
誰かを馬鹿にするためではなく、誰かを追い詰めるためでもない。
同じ食卓を囲む人たちの笑い声。
エルは少しだけ戸惑いながら、スープを口に運んだ。
温かい。
今日も、温かかった。
夕飯の後、レオンは禁忌の森の話を子どもたちにせがまれた。
もちろん、怖すぎる部分は省いた。
蜘蛛の大きさは少し小さめに話した。
兵士が危なかったことも、あまり詳しくは言わなかった。
顔に蜘蛛の糸がかかった話だけは、トトがなぜか何度も聞きたがった。
トト「それで? 顔にかかった時、どうしたの?」
レオン「斬った」
トト「蜘蛛を?」
レオン「蜘蛛を」
ガル「糸じゃなくて本体に怒ったのか」
レオン「顔に糸をかけたからな」
ミナ「そこが理由なんですね」
バルド「本当にそこから動きが変わったんだよな」
セシリア「否定できません」
トト「俺も顔に蜘蛛の巣かかったら怒る!」
マーサ「その前に、蜘蛛の巣があるところへ勝手に行くんじゃないよ」
トト「はい!」
即答だった。
エルが、ぽつりと言った。
エル「……レオンは、怖いものある?」
食堂が少し静かになった。
レオンはエルを見る。
エルの目は真剣だった。
きっと、ただの質問ではない。
強い人にも怖いものがあるのか。
怖くても動けるのか。
怖い時、どうすればいいのか。
そういうことを知りたいのだろう。
レオンは少し考えた。
レオン「ある」
エル「なに?」
レオン「子どもが空腹のまま眠ること」
エルは黙った。
レオン「それが一番怖い」
トトも、ガルも、ミナも、何も言わなかった。
マーサは静かに目を伏せる。
レオン「だから、怖いと思ったら飯を食え。眠れるなら眠れ。泣けるなら泣け」
エル「……泣いてもいい?」
レオン「ああ」
マーサ「もちろんだよ」
リリィ「泣いたら、鼻水出る」
トト「そこ!?」
エルは一瞬だけ驚いた顔をした。
そして、少しだけ笑った。
食堂にまた、やわらかい空気が戻る。
その夜。
子どもたちが寝静まった後、レオンは食堂の窓際に立っていた。
外は静かだった。
禁忌の森の方角は、夜の闇に沈んでいる。
セシリア「マスター」
レオン「まだ起きていたのか」
セシリア「それはこちらの台詞です」
セシリアは一枚の小さな黒い欠片を布に包んで持っていた。
レオン「それは?」
セシリア「魔紋大蜘蛛の体内から見つかったものです」
黒い結晶の欠片。
薄く、嫌な魔力を放っている。
レオンの目が細くなる。
レオン「自然のものではないな」
セシリア「はい。魔王軍の魔力に似ています。ただ、古代魔法の反応も混じっています」
レオン「面倒だな」
セシリア「はい」
レオンは窓の外を見た。
孤児院の中では、子どもたちが眠っている。
温かい毛布の中で、今日という一日を終えようとしている。
この静けさを守るためなら、面倒なことでもやるしかない。
レオン「明日、調べる」
セシリア「今日は休んでください」
レオン「分かっている」
セシリア「本当に?」
レオン「本当に」
セシリアは少しだけ驚いた顔をした。
セシリア「珍しいですね」
レオン「マーサ先生に怒られる」
セシリア「それは大きな理由ですね」
レオン「ああ」
レオンは小さく笑った。
黒い結晶は、不穏な光をかすかに放っていた。
禁忌の森の戦いは終わった。
しかし、その奥にある何かは、まだ終わっていない。
それでも今夜だけは、ひだまり孤児院に穏やかな寝息が満ちている。
レオンは窓の外を見ながら、静かに思った。
――明日のことは、明日考える。
今夜は、子どもたちが腹を空かせず眠っている。
それだけで、十分だった。




