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第八話 殺気の授業


王城で授業がある日。


ひだまり孤児院の朝は、また少しだけ早かった。


庭では、いつも通りガルの拳が空気を押している。


ぱん。


ぱん。


ぱん。


第1段階《纏気覚醒》を纏ったままの正拳突き。


朝の五百回。


その少し横で、トトは立っていた。


目を閉じない。


足の裏。


膝。


腰。


腹。


胸。


心臓の音。


十回の呼吸宿題。


トト「……心臓、昨日よりうるさくない」


ガル「慣れてきたんじゃないか」


トト「俺、成長?」


ガル「たぶん微増」


トト「まだ微増!」


ぱん。


ガルは正拳突きを続ける。


食堂からはスープの匂いが流れてきた。


マーサの声も飛んでくる。


マーサ「二人とも、終わったら手を洗いな!」


トト「はい!」


ガル「はい」


そこへ、レオンが庭に出てきた。


いつもの外套。


腰には灰天太刀。


ただ、今日のレオンは少しだけ雰囲気が違った。


トトはすぐ気づいた。


「レオン兄ちゃん、今日ちょっと怖い?」


レオン「今日は王城で授業がある」


トト「うん」


「お前とガルも連れていく」


トト「えっ」


ガルの拳が止まった。


「俺もですか」


「ああ」


トトの顔が一気に輝いた。


「王城授業!?」


マーサ「声」


トト「王城授業……!」


ガル「なんで俺たちも?」


レオン「見せるためだ」


トト「見学?」


レオン「違う。受ける」


トト「受ける!?」


ガルはすぐに表情を引き締めた。


「分かりました」


トト「分かるの早くない!?」


ガル「授業だろ」


トト「王城の授業だよ!?」


ガル「だからだろ」


レオンは二人を見た。


「今後、王城で授業がある日は、二人も一緒に来る」


トト「毎回!?」


「ああ」


トトは嬉しそうに跳ねかけた。


レオン「走るな」


トト「まだ跳ねる前!」


ガル「跳ねる気だったのか」


トト「心が!」


レオン「心も止めろ」


食堂で朝食を取りながら、レオンは今日の予定を説明した。


王城訓練場。


参加者は、ルカ王子、アリシア王女。


トト。


ガル。


補助にグレン、フィリア、リュシア。


見学と記録にセシリア。


そして、王城騎士団の一部。


マーサ「騎士団もいるのかい?」


レオン「ああ。今日は少し厳しくする」


その一言で、食堂の空気が少し変わった。


トト「少し?」


ガル「レオン兄ちゃんの少しは、少しじゃない」


ユアン「同意」


エル「気をつけてね」


ミリ「けが?」


フィリア「怪我をしても、私が確認します。ただし、無茶はさせません」


マーサはレオンをじっと見た。


「子どもたちを壊すんじゃないよ」


レオン「壊さない」


「怪我は?」


「するかもしれない」


マーサの目が細くなる。


トトのスプーンが止まる。


ガルは黙って聞いている。


レオンは続けた。


「怪我をしない訓練だけでは、分からないことがある」


マーサ「分かってるよ。でも、怪我をさせたいわけじゃないんだろうね」


「違います」


「ならいい。けど、限度を間違えたら、私が止めるよ」


レオン「はい」


トト「マーサ先生、王城まで止めに来るの?」


マーサ「必要ならね」


ガル「来そうだな」


ユアン「来るね」


リリィ「猫も?」


猫「……」


レオン「猫は来ない」


猫「……」


王城訓練場。


朝の光が、広い砂地を照らしていた。


すでにルカとアリシアは来ている。


ルカは木太刀を持ち、靴ひもを確認していた。


アリシアはリュシアと一緒に、魔力を静かに整えている。


グレンが騎士たちを整列させていた。


その奥には、いつもより立派な鎧をまとった男が立っている。


王都騎士団長、ヴァイス。


普段は王城全体の防衛や王都外周の巡回指揮で忙しく、訓練場に顔を出すことは少ない。


だが今日は、レオンの授業が厳しくなると聞いて来ていた。


ヴァイス団長「今日は見学のつもりだったが」


レオン「見るだけなら楽です」


ヴァイス団長「ほう」


グレンが小さく息を吐いた。


「団長、嫌な予感がします」


ヴァイス団長「私もだ」


そこへ、トトとガルがレオンの後ろから入ってきた。


ルカの顔が明るくなる。


「トト! ガル!」


トト「ルカ王子!」


二人は走りかけて、同時に止まった。


ルカ「走らない」


トト「走らない」


グレン「よし」


アリシア「二人とも、もう合図なしで止まれるようになりましたね」


ガル「トトはぎりぎりです」


トト「ぎりぎりでも止まった!」


ルカはガルを見る。


「ガルも授業を受けるのですか?」


ガル「ああ」


ルカ「心強いです」


ガル「王子にそう言われると変な感じだな」


レオンが前に出た。


「全員、並べ」


空気が変わる。


ルカ、アリシア、トト、ガル。


四人が並ぶ。


その後ろに、王城騎士たち。


グレン、フィリア、リュシア、セシリア。


そして、騎士団長ヴァイス。


レオンは全員を見渡した。


「今日から、授業を厳しくする」


誰も茶化さなかった。


トトも、口を閉じている。


レオン「今までは、立つ、呼吸する、止まる、感じる。それを中心にした」


ルカ「はい」


ガル「はい」


トト「はい」


アリシア「はい」


「だが、守るためには、それだけでは足りない」


レオンの声は低い。


静かだが、訓練場の端まで届く。


「怪我をすることもある」


トトの肩が少しだけ動いた。


ガルは眉を寄せる。


ルカは唇を引き結ぶ。


アリシアは手を握った。


レオン「怪我をしたら、痛い。怖い。動けなくなる。呼吸が乱れる。判断が鈍る」


フィリアが静かに頷いた。


「それを知らないまま戦場に出れば、もっと危険です」


レオン「だから、今日からは怪我をしても、上達するまで簡単にはやめない」


トト「……」


レオン「もちろん、命に関わる怪我はさせない。骨が折れる前に止める。危険な痛みはフィリアが止める。だが、痛いから終わりではない」


ルカ「痛くても、立つ練習……」


レオン「ああ」


ガル「怪我をしてみないと分からないことがある、ってことですか」


レオン「そうだ」


レオンはガルを見る。


「拳を打てば拳が痛む。足を踏み外せば膝が痛む。受け損ねれば腕がしびれる。痛みは、間違いを教える」


ガル「はい」


「ただし、痛みに慣れすぎるな。痛いものは痛いと言え」


トト「言っていいの?」


レオン「ああ。痛いと言った上で、どう動くかを覚える」


トトは少しだけ息を呑んだ。


レオン「剣の素振りだけではない。木太刀、拳、魔力制御。それぞれに、実際に圧を受ける訓練を加える」


ルカ「圧……」


レオン「俺との模擬戦も入れる」


訓練場が静かになった。


ルカ「レオン殿と……模擬戦……」


トト「え、レオン兄ちゃんと?」


ガル「本気ではないですよね」


レオン「本気でやったら死ぬ」


全員が黙った。


レオン「だから、殺さない程度にやる」


トト「言い方!」


リュシア「いつものことだけど、もう少し柔らかく言いなさいよ」


レオン「安全管理した上で、段階的にやる」


フィリア「それならよろしいです」


レオン「ただし、気絶することはある」


トト「気絶!?」


ルカの顔が引き締まる。


ガルは静かに拳を握る。


アリシアは息を整えた。


レオン「覚悟して授業を受けろ」


その言葉は重かった。


けれど、誰も逃げなかった。


トトは少し震えている。


それでも、足は下がっていない。


ルカは木太刀の柄を握る手に力を入れすぎ、すぐに自分で緩めた。


ガルは一度目を伏せ、呼吸した。


アリシアは胸に手を当てた。


レオンはそれを確認してから言った。


「最初の授業は、殺気を受ける訓練だ」


空気が、さらに冷えた。


トト「殺気……?」


ガル「敵意より強いやつか」


レオン「ああ。相手が本気で自分を殺そうとしてくる気配。それを受けた時、人は固まる」


ルカ「戦場で固まれば、死ぬ」


レオン「そうだ」


アリシア「魔法使いも同じですね。詠唱も、判断も止まります」


リュシア「ええ。殺気に呑まれた魔導士は、杖を持った置物よ」


フィリア「治癒師もです。恐怖で手が止まれば、助けられません」


レオン「だから耐える。息をする。足を感じる。助けを呼ぶ。倒れる前に、自分がどうなるか知る」


トト「倒れる前に……」


レオン「気絶する前に止める」


トト「もし気絶したら?」


レオン「ごめんね」


訓練場が、一瞬だけ変な静けさになった。


トト「軽い!」


ルカ「ごめんね、なのですか!?」


ガル「謝る気はあるんだな」


アリシア「そこですか」


リュシアは肩を震わせた。


フィリアは額に手を当てた。


グレンは深く息を吐く。


ヴァイス団長は、しばらく黙っていた。


そして、突然言った。


「レオン殿」


レオン「はい」


「その殺気の訓練、我が騎士たちも受けさせたい」


グレン「団長」


ヴァイス団長「戦場で魔物や魔族と対した時、殺気に呑まれる騎士は少なくない。王都防衛でも、若い騎士が一瞬固まる場面があった」


レオン「騎士は大人です。加減が少し変わります」


騎士たちの背筋が伸びた。


グレン「少し、ですか」


リュシア「絶対に少しじゃないわ」


ヴァイス団長「構わん」


騎士たちの何人かが、構う、という顔をした。


だが、団長の前で言えない。


レオンは騎士たちを見た。


「なら、子どもたちの後だ」


ヴァイス団長「なぜ後なのだ」


「先に騎士が倒れると、子どもが怖がる」


騎士たちの顔が固まった。


トトが小声で言う。


「騎士さん、倒れるの?」


ガル「あり得るんだろ」


ルカ「……僕たちも、油断できませんね」


グレン「団長、これは騎士団の威信に関わります」


ヴァイス団長「耐えればよい」


グレン「簡単に言いますね」


まずは、子どもたちからだった。


レオンは訓練場の中央に立つ。


四人は少し離れて並ぶ。


フィリアがすぐ後ろに待機。


リュシアは防護結界を薄く張る。


グレンは万が一に備えて横に立つ。


セシリアは記録用の紙を持ったが、レオンに見られて少しだけ下げた。


レオン「記録はしていい。ただし、倒れた顔は書くな」


セシリア「承知しました」


トト「倒れる前提!?」


レオン「まず、弱く出す」


トト「弱く……」


ガル「レオン兄ちゃんの弱く……」


ルカ「信じましょう」


アリシア「でも、呼吸は忘れずに」


レオンは目を閉じた。


空気が、静かになる。


次の瞬間。


ほんの薄い殺気が、訓練場に流れた。


刃を首筋に当てられたような感覚。


暗い森の奥で、何かに見られているような感覚。


足元が冷える。


喉が詰まる。


トト「っ……!」


トトの膝が震えた。


でも、倒れない。


エルからもらった布袋を思い出す。


呼吸。


心臓。


足の裏。


トト「……こわい」


レオン「言えたな」


トト「こわい!」


レオン「いい」


ガルは拳を握っていた。


いつものように構えようとして、途中で止める。


これは殴る訓練ではない。


耐える訓練だ。


足を感じる。


息を吐く。


赤銅色の戦気を薄く保つ。


ガル「……まだ立てる」


ルカは顔を青くしながらも、木太刀に手をかけなかった。


抜きたくなる。


構えたくなる。


でも、今は抜く訓練ではない。


耐える訓練。


ルカ「……息が、浅い」


グレン「殿下、吐いてください」


ルカ「はい……!」


アリシアは胸に手を当てた。


殺気を受けた瞬間、聖力ではなく防御魔法を展開しそうになった。


だが止めた。


これは攻撃ではない。


これは訓練。


そして、レオンは止める。


アリシア「私は、大丈夫です」


リュシア「大丈夫と言う時ほど、呼吸しなさい」


アリシア「はい」


十秒。


二十秒。


三十秒。


レオンは殺気を消した。


空気が一気に軽くなる。


トトはその場に座り込んだ。


「こわかった……!」


フィリアがすぐに確認する。


「呼吸は少し乱れていますが、問題ありません」


ガルは膝に手を置き、息を吐いた。


「思ったより、体が動かなかった」


ルカ「僕もです」


アリシア「頭では分かっていても、体が固まりますね」


レオン「それを知るための訓練だ」


トト「今ので弱いの?」


レオン「ああ」


トト「嘘でしょ」


レオン「嘘ではない」


ガル「嘘じゃないのが一番怖い」


少し休憩を挟み、二回目。


今度は、ほんの少しだけ強い。


トトは最初より早く「こわい」と言えた。


ガルは膝を固めすぎたことに気づいた。


ルカは木太刀に触れそうになって、自分で手を離した。


アリシアは魔力を出しかけ、リュシアの声で止めた。


三回目。


トトは倒れかけた。


レオンはその直前で殺気を消す。


トトはへたり込んだ。


「今、ちょっと空がぐにゃってした」


フィリア「今日はここまでです」


レオン「ああ」


トト「気絶してない?」


フィリア「していません」


トト「勝った……」


ガル「勝ちではないだろ」


ルカ「でも、耐えました」


アリシア「ええ。耐えました」


レオン「ああそれでいい」


その一言で、四人の顔が少しだけ緩んだ。


次は騎士たちだった。


ヴァイス団長が前に出る。


「選抜騎士、前へ」


十名の騎士が並ぶ。


若手もいる。


中堅もいる。


グレンも当然のように並んだ。


ヴァイス団長も並ぼうとする。


グレン「団長もですか」


ヴァイス団長「当然だ」


レオン「団長は最後です」


ヴァイス団長「なぜだ」


「騎士が倒れた後、団長が倒れると締まらない」


グレン「逆でも締まりません」


リュシア「どちらにしろ倒れる話なのね」


まず騎士十名。


レオンは子どもたちの時よりも、少しだけ濃い殺気を出した。


瞬間。


若い騎士の一人が膝をついた。


別の騎士が剣に手を伸ばしかける。


グレンは奥歯を噛み、耐える。


ヴァイス団長の顔色が変わった。


「これは……」


騎士たちは王都を守る者たちだ。


魔物も見ている。


血も見ている。


だが、レオンの殺気は違った。


向けられた瞬間、理解する。


これは、勝てない相手の殺気だ。


死が近いのではない。


死が、目の前に立っている。


十秒で、二人が膝をついた。


二十秒で、三人目が吐きそうになり、フィリアが止めた。


三十秒で、レオンは殺気を消した。


騎士たちは汗だくになっていた。


子どもたちは、言葉を失って見ていた。


トト「騎士さんでも……」


ガル「ああ」


ルカ「殺気は、強さとは別に慣れが必要なのですね」


レオン「慣れすぎるな」


ルカ「え?」


「殺気に慣れすぎると、危険を危険と思わなくなる」


グレン「恐怖を消すのではなく、恐怖の中で動けるようにする」


レオン「ああ」


ヴァイス団長は大きく頷いた。


「これは必要だ」


若い騎士が震える声で言う。


「団長……これを定期訓練にするのですか……?」


ヴァイス団長「する」


騎士たちの顔が絶望した。


トトが小声で言う。


「騎士さんも宿題増えた」


ガル「王城全体が宿題だらけだな」


ユアンがいたら、記録していただろう。


最後に、ヴァイス団長とグレンが同時に受けた。


レオンはさらに殺気を絞った。


広げない。


一点だけ。


二人へ向ける。


グレンの手が震えた。


ヴァイス団長の足が、半歩沈んだ。


だが、二人とも膝はつかない。


十秒。


二十秒。


三十秒。


四十秒。


フィリア「そこまで」


レオンは殺気を消した。


ヴァイス団長は大きく息を吐く。


グレンは額の汗を拭った。


ヴァイス団長「……なるほど。これは、知らねばならんな」


グレン「できれば、もう少し段階を刻んでいただきたい」


レオン「ああ」


リュシア「今の段階で刻んでなかったら、あなた本当に怒られるわよ」


フィリア「怒ります」


レオン「刻んでいた」


全員がレオンを見る。


レオン「かなり」


騎士たちの顔がさらに青くなった。


授業の最後。


レオンは全員をもう一度並ばせた。


子どもたち。


王族。


騎士たち。


全員、疲れている。


だが、誰も軽い顔をしていない。


レオン「今日覚えることは一つだ」


全員がレオンを見る。


「怖い時ほど、立つ。息をする。助けを呼ぶ。勝手に動かない」


トト「……はい」


ガル「はい」


ルカ「はい」


アリシア「はい」


騎士たち「はい!」


レオン「怖くないふりはいらない」


その言葉に、若い騎士が少しだけ顔を上げた。


レオン「怖いと分かっている者の方が、生き残る」


ヴァイス団長「肝に銘じよう」


フィリア「本日の訓練はここまでです。全員、水分補給、体調確認。頭痛、吐き気、震えが強い者は申し出てください」


リュシア「精神への負荷もあるから、今日は無理な追加訓練禁止」


レオン「ルカ殿下の夕方五百回は」


フィリア「今日は三百回に減らします」


ルカ「えっ」


レオン「分かった」


ルカ「減らしていいのですか?」


レオン「今日の授業分を入れれば十分だ」


ルカは少し考えた。


そして頷いた。


「はい。数だけ追わないようにします」


レオン「いい」


ガルも言った。


「俺の夕方五百回は?」


フィリア「今日は三百回。殺気訓練の反応を記録してください」


ガル「分かりました」


トト「俺の十回は?」


レオン「やる」


トト「やっぱり!」


フィリア「ただし、座って話を聞く十分は明日からにしましょう」


トト「助かった……!」


アリシアは小さく笑った。


怖い授業だった。


でも、笑える余地が残っている。


それが救いだった。


夕方。


ひだまり孤児院へ戻ると、マーサが玄関で待っていた。


「どうだった」


トトはまっすぐ答えた。


「怖かった!」


マーサ「よし。言えたね」


ガル「騎士も膝をついた」


マーサ「そうかい」


トト「俺、気絶しなかった!」


マーサ「えらい」


トトは少し胸を張った。


だが、すぐに肩を落とす。


「でも、足が震えた」


マーサ「震えても帰ってきたんだから、いいんだよ」


ガル「俺も、思ったより動けなかった」


レオン「それが分かったならいい」


ユアンとエル、ミリ、リリィも集まってくる。


ユアン「殺気って、どんな感じ?」


トト「首の後ろが冷たくなる」


ガル「足が重くなる」


エル「怖そう……」


トト「怖い。でも、息したらちょっと戻った」


ミリ「こわい」


リリィ「猫なら逃げる?」


猫「……」


猫は窓際からレオンを見て、すぐ目を逸らした。


リリィ「猫、受けない」


レオン「受けさせない」


夕食後。


食堂では、今日の授業の話になった。


ルカからも王城経由で伝言が届いていた。


『怖かったです。でも、怖いと分かったので、次は息をします。夕方の素振りは三百回、雑にせず行います』


ガル「王子、ちゃんとしてるな」


トト「王城トト、強い」


ユアン「トトも感想を書いたら?」


トト「えっ、また感想?」


マーサ「今日は壁の約束が先じゃないかい?」


トトは壁を見た。


三十一、見たあとで、ちゃんと考えて選ぶ。


その下には、まだ余白がある。


トトは紙を持った。


少し悩む。


ガルも横から見ている。


エルは小さく言った。


「怖い時の約束?」


ユアン「今日の授業なら、それだね」


ミリ「こわい」


リリィ「猫は逃げる」


猫「……」


トトはゆっくり書いた。


三十二、怖い時ほど、息をして、助けを呼ぶ。


食堂が静かになった。


ガル「いいね」


ユアン「今日の授業そのままだね」


エル「私にも必要」


ミリ「息」


リリィ「猫も?」


猫「……」


マーサ「いい約束だよ」


フィリア「とても大事です」


リュシア「魔法でも、聖力でも、戦闘でも同じね」


セシリア「記録します」


レオンはその文字を見た。


怖い時ほど、息をして、助けを呼ぶ。


殺気に耐える。


痛みを知る。


怪我から学ぶ。


それは、怖さを消すためではない。


怖いまま帰るためだ。


怖いまま助けを呼ぶためだ。


怖いまま立つためだ。


レオン「採用だ」


トト「やった」


マーサが三十二番目の紙を壁に貼った。


三十二、怖い時ほど、息をして、助けを呼ぶ。


その夜。


レオンは庭に出た。


アルトが静かに翼を畳んでいる。


猫は窓際で寝ている。


空には星がある。


レオンは今日の訓練を思い返した。


トトは怖いと言えた。


ガルは動けない自分を認めた。


ルカは抜かずに耐えた。


アリシアは聖力を出さずに止まった。


騎士たちは、自分たちにも足りないものがあると知った。


厳しくする。


怪我をすることもある。


気絶することもある。


だが、それは壊すためではない。


生きて帰るためだ。


背後からマーサの声がした。


「今日は、やりすぎてないだろうね」


レオン「たぶん」


マーサ「たぶん?」


レオン「フィリアが止めました」


マーサ「ならいい」


マーサは隣に立ち、夜空を見た。


「怖いことを教えるのは、難しいね」


レオン「はい」


「怖がらせたいわけじゃない。でも、怖さを知らないまま外へ出すのも危ない」


レオンは頷いた。


「だから、帰る場所で教える」


マーサ「そうだね」


王城の訓練場も。


ひだまりの庭も。


どちらも、帰るための場所になりつつある。


レオンは腰の灰天太刀に触れた。


斬るためだけではない。


帰る道を作るための刃。


今日の授業も、同じだ。


殺気を浴びても、息をする。


怖くても、助けを呼ぶ。


倒れる前に、止まる。


もし倒れても、帰ってくる。


ひだまりの壁には、新しい約束が増えた。


三十二、怖い時ほど、息をして、助けを呼ぶ。


少しずつ優しいだけではなくなっていく。


それでも、根っこは変わらない。


すべては、帰るために。


守るために。


そして明日も、スープを飲むために。


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