第七話 見たあとで選ぶこと
学院見学の翌朝。
ひだまり孤児院の食堂は、いつもより少し静かだった。
疲れているのではない。
いや、疲れてはいる。
昨日は王立アルクレア学院を一日見て回った。
広い正門。
大きな講義棟。
魔法実技場。
剣術訓練場。
食堂。
図書館。
魔力測定室。
知らないものをたくさん見た。
だから、子どもたちの頭の中は、まだ少し学院でいっぱいだった。
トト「……学院の机、きれいだったな」
ガル「そこか」
トト「だって、全部まっすぐ並んでた」
ユアン「それは僕も少し感動した」
ミリ「学院すーぷ」
リリィ「猫、学院すーぷの匂い怒ってた」
猫「……」
猫は食堂の窓際で丸くなっている。
昨日置いていかれたことを、まだ少し根に持っているようだった。
マーサ「今日はみんな、ゆっくりでいいよ。昨日はよく歩いたからね」
トト「宿題は?」
レオン「やる」
トト「ゆっくりじゃない!」
マーサ「ゆっくりでも宿題はやるんだよ」
ガル「普通だろ」
トト「普通が強い……」
庭では、いつものようにガルが正拳突き五百回を終えていた。
第1段階を発動したまま。
百回ごとに記録。
右肩。
呼吸。
足の重心。
拳の戻し。
昨日、学院を見ても、ガルの宿題は変わらない。
変わったのは、小帳面の中に一行増えたことだった。
『学院訓練場の生徒は、戻しが遅い者が多かった。自分も戻しを確認する』
ユアンがそれを見て言った。
「見学が修行に混ざってる」
ガル「見るだけで終わったらもったいないだろ」
トト「かっこいいこと言ってる」
ガル「普通だ」
トトも、朝の十回を終えた。
立つ。
呼吸する。
心臓の音を聞く。
昨日の学院で見たものが、頭の中にちらついた。
魔法の水球。
騎士課程の訓練。
大きな図書館。
魔力測定の水晶。
そして、貴族の子に言われた小さな言葉。
“孤児院の子が、なぜ学院に?”
トトは少し胸の奥がざらつくのを感じた。
けれど、逃げなかった。
呼吸する。
心臓の音を聞く。
トト「……ちょっと、うるさい」
レオン「それでいい」
朝食後。
王城から一通の手紙が届いた。
今度は学院からではない。
王城経由で届いた、学院長オルディスからの書状だった。
セシリアが読み上げる。
「王立アルクレア学院長オルディス・レインより。昨日の見学について、ひだまり孤児院の皆様が大変落ち着いて見学されていたこと、深く感謝申し上げます」
トト「落ち着いてたって!」
ガル「一部な」
ユアン「全体評価としては落ち着いていたんだと思う」
マーサ「騒がなかったのは偉いよ」
トト「やった」
セシリアは続ける。
「つきましては、見学後の感想と、興味を持った分野を簡単にまとめていただければ幸いです。今後、特別見学、体験講義、図書館利用許可などを検討する際の参考にいたします」
食堂が静かになった。
トト「感想……?」
ユアン「感想文だね」
ガル「宿題か」
ミリ「学院しゅくだい」
リリィ「猫は見てないからなし?」
猫「……」
レオン「全員書け」
リリィ「猫も?」
レオン「猫はいい」
猫「……」
少し勝ったような顔だった。
トトは頭を抱えた。
「学院見学にも宿題があるの!?」
マーサ「見たら考える。考えたら言葉にする。大事なことだよ」
ユアン「僕は書ける」
ガル「お前はそうだろうな」
エルは紙を見つめていた。
「興味を持った分野……」
フィリア「焦って決めなくて大丈夫です。感想でいいんです」
リュシア「見たものをそのまま書いてもいいわ。怖かった、すごかった、もう一回見たい。それで十分」
レオン「ただし、嘘は書くな」
トト「“学院すごかった”だけでもいい?」
セシリア「三行以上でお願いします」
トト「三行……!」
マーサ「スープより短い感想はだめだよ」
ミリ「すーぷ感想なら書ける」
セシリア「ミリはそれで構いません」
レオン「いいのか」
フィリア「立派な観察です」
その日の午前。
ひだまり孤児院の食堂は、感想文会場になった。
紙。
ペン。
インク。
水。
スープの残り。
そして、悩む子どもたち。
トトは紙の前で固まっている。
ガルは短く書いてすぐ止まる。
ユアンはすでに二枚目に入っている。
エルは何度も書き出しを消している。
ミリは絵を描いている。
リリィは猫の代筆をしようとしている。
猫「……」
猫は書く気がない。
トト「何を書けばいいんだ……」
ユアン「見たことを書けばいいんだよ」
トト「学院は大きかった」
ユアン「一行目」
トト「机がまっすぐだった」
ユアン「二行目」
トト「スープがおいしかった」
ミリ「それ私」
トト「取られた!」
ガル「別に取られてないだろ」
レオンは食堂の端で書類を読んでいる。
だが、子どもたちの様子は見ている。
マーサは台所から声をかけた。
「うまく書く必要はないよ。自分の言葉で書きな」
トト「自分の言葉……」
ガルはペンを握り直した。
自分の紙には、こう書いてある。
『訓練場が広かった。戻しまでが一動作という言葉が残った。学院の生徒は強そうだったが、全員がちゃんとできているわけではなかった。俺も戻しを確認する』
ガルはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「これでいいのか?」
レオン「いい」
ガル「短くないですか」
「余計なことがない」
ガル「……はい」
トト「ガル、ずるい」
ガル「何がだ」
トト「短くても強い」
ユアンは紙にびっしり書いていた。
『図書館の蔵書量が非常に多く、魔法史、王国法、地図、薬草学、魔物分類、古代文字などが確認できた。特に聖女に関する棚があったが、今回は近づかなかった。いつか、許可を得て読みたい。学院は身分の差がある場所でもあるが、学ぶための道が完全に閉じていないことが分かった』
ガル「長い」
トト「強い」
ユアン「まだ途中」
トト「まだ途中!?」
ミリの紙には、学院のスープらしき丸い絵と、こう書いてあった。
『学院すーぷはおいしい。でも、ひだまりすーぷが家。』
マーサはそれを読んで、少しだけ笑った。
「満点だね」
ミリ「やった」
リリィの紙には、こう書いてある。
『猫は行けなかった。猫は怒った。でも猫はミルクで許した。学院には猫が入れる場所があるといいと思った。』
レオン「学院見学の感想か?」
リリィ「猫目線」
猫「……」
リュシア「ある意味、貴重ね」
エルはまだ迷っていた。
紙には、書きかけの言葉がある。
『魔法実技場は、少し怖かったです。魔力が多くて、ざわざわしました。でも、アリシア王女様も同じように感じていて、少し安心しました。水球の訓練を見て、大きな力より、小さく保つことが大事だと分かりました。私は――』
そこで止まっている。
レオンが近づいた。
「書けないか」
エル「この先が、分からなくて」
「何が」
「私は、学院で学びたいのか、まだ分かりません。でも、魔力を小さく保てるようにはなりたいです」
レオン「なら、そう書け」
エル「分からないって書いていいんですか?」
「ああ」
エルは少し驚いた。
レオンは続ける。
「分からないことを、分からないと書けるのは大事だ」
エルはゆっくり頷いた。
そして、続きを書いた。
『私は、学院で学びたいのかはまだ分かりません。でも、魔力を小さく保つ練習はしたいです。怖いけれど、見てよかったです。』
書き終えたエルは、少しだけ息を吐いた。
フィリアが微笑む。
「とても良い感想です」
リュシア「ええ。正直でいいわ」
トトはまだ書いていた。
何度も考え、ようやく三行以上になった。
『学院は大きかった。机がまっすぐで、図書館が広くて、訓練場もすごかった。俺は全部すごいと思った。でも、今の俺はまず座って話を聞く練習が必要だと思った。あと、知らない場所では勝手に離れない。』
ガル「最後、約束そのままだな」
トト「大事だから!」
ユアン「でも、ちゃんと考えてる」
レオン「悪くない」
トトの顔が明るくなる。
「ほんと!?」
レオン「乱すな」
トト「はい!」
昼前。
王城では、ルカが朝の宿題を終えたところだった。
第1段階を解放したまま、木太刀で素振り五百回。
汗が額を伝っている。
だが、三日前より戦気の乱れが少なくなっていた。
グレン「四百回を越えてからの崩れが、昨日より小さいですね」
ルカ「はい。三百回目で肩が上がりそうになったので、一度休みました」
フィリア「良い判断です」
レオン「数に追われなくなってきたな」
ルカ「まだ追われます」
「それでいい。追われていると分かれば、止まれる」
ルカは木太刀を納め、深く礼をした。
「午後は学院への感想文を書く予定です」
レオン「お前もか」
ルカ「はい。学院長から、王族にも書くようにと」
グレン「殿下は見学者でもあり、入学予定者でもありますから」
アリシアは少し離れた場所で、リュシアと魔力制御の練習をしていた。
今日は聖力を使わない。
魔力だけを小さな光にして、保つ。
白銀の光。
その奥にある金白色へ触れない。
助けたい気持ちを、急がせない。
リュシア「いいわ。魔力だけ。聖力の扉には手をかけない」
アリシア「はい」
フィリア「体調、安定しています」
レオン「止められている」
アリシアは小さく息を吐いた。
「学院で転んだ生徒を見た時、少し出そうになりました」
レオン「ああ」
「でも、治癒魔法で足りると聞いて、止まれました」
「いい」
アリシアは手の光を消した。
「私も、感想文を書きます」
ルカ「姉上は何を書くのですか?」
アリシア「“助けたい時ほど、まず見る”と書くかもしれません」
レオン「ひだまりの約束だな」
アリシア「はい。昨日、あの約束がなければ止まれなかったかもしれません」
グレン「王城にも貼りますか」
レオン「やめろ」
ルカ「貼りたいです」
レオン「やめろ」
アリシアは小さく笑った。
その笑いは、昨日より少し軽かった。
午後。
ひだまり孤児院に、学院長オルディスから追加の小さな包みが届いた。
中には、図書館の仮入館札が二枚。
そして、手紙が一通。
セシリアが読み上げる。
『昨日の見学において、ユアン殿が図書館に強い関心を示されたこと、ならびにエル殿が魔力環境に敏感に反応されたことを確認いたしました。
希望があれば、後日、少人数での再見学を認めます。
ただし、保護者および指導者同伴、事前申請制とします』
ユアンの目が輝いた。
「図書館……!」
エルは少し驚く。
「私も?」
リュシア「魔力に敏感な子が、学院の魔法環境をどう感じるか。向こうも知りたいのね」
レオン「無理に行かせない」
エル「……少人数なら、少し行きたいです」
マーサ「本当に?」
エル「はい。昨日は怖かったけど、アリシア王女様と一緒なら、もう少し見られるかもしれません」
トト「俺は?」
セシリア「今回は図書館と魔力環境の再見学です」
トト「俺も図書館行ける!」
ユアン「静かにできる?」
トト「できる!」
全員がトトを見た。
トト「……練習する!」
ガル「そこからだな」
マーサ「まず今日は感想文を仕上げな」
トト「はい!」
その日の夕方。
ガルはいつものように、夕方の正拳突き五百回を始めた。
トトはその横で、十回の呼吸練習をする。
エルも一緒に立った。
魔力を出さない。
ただ呼吸する。
ユアンはそれを少し離れて見ながら、感想文の余白に小さくメモを取っていた。
『学ぶ場所は、学院だけではない。庭でも学べる』
ガル「また見てるのか」
ユアン「見てる」
ガル「見るな」
ユアン「記録だから」
ガル「便利な言葉にするな」
ぱん。
ぱん。
ぱん。
トトは目を閉じずに立つ。
学院を思い出す。
大きな門。
まっすぐな机。
転んだ生徒。
止まったアリシア。
注意してくれたマーサ。
かっこよかったルカ。
そして、自分の紙に書いた言葉。
今の俺はまず座って話を聞く練習が必要。
トト「……座って聞く宿題もいるかな」
ガル「自分で増やすな」
トト「でも必要かも」
レオンが庭に来た。
「必要だな」
トト「えっ」
ガル「増えたな」
レオン「明日から、朝食後に十分。座って、人の話を最後まで聞く」
トト「それ、きつい!」
ユアン「トトには千回素振り並みかも」
マーサ「いい宿題だね」
トト「みんな俺を育てようとしてる!」
マーサ「育成中だろう?」
トト「はい!」
夜。
食堂では、感想文が一枚ずつ読み上げられた。
読みたくない者は読まなくていい。
そう言われたが、結局みんな少しずつ読んだ。
ガルは短く。
ユアンは長く。
エルは静かに。
ミリはスープ中心に。
リリィは猫目線で。
トトは少し詰まりながら。
マーサは全員の言葉を聞いて、うんうんと頷いた。
フィリアは微笑み。
リュシアは時々茶化し。
セシリアはすべて記録した。
レオンは黙って聞いていた。
最後に、トトが壁を見た。
三十、知らない場所では、勝手に離れない。まず見る。
その下に、また余白がある。
トト「三十一番目、いると思う」
レオン「またか」
ガル「今日は何だ」
ユアン「感想文の日だからね」
エル「見たあとで、考えた日」
ミリ「かんそう」
リリィ「猫も?」
猫「……」
トトは紙を持った。
今回は、すぐには書かなかった。
ガルを見る。
ユアンを見る。
エルを見る。
マーサを見る。
レオンを見る。
そして、ゆっくり書いた。
三十一、見たあとで、ちゃんと考えて選ぶ。
食堂が静かになった。
ユアン「いいと思う」
ガル「学院に行くかどうかも、そうだな」
エル「怖かったから行かない、だけじゃなくて。すごかったから行く、だけでもなくて」
ミリ「考える」
リリィ「猫はミルクで選ぶ」
猫「……」
マーサ「猫はともかく、いい約束だよ」
フィリア「力を使う時にも必要です」
リュシア「聖力にも、魔法にも、進路にもね」
セシリア「記録します」
レオンはその文字を見た。
見たあとで、ちゃんと考えて選ぶ。
学院を見た。
広さを見た。
身分差を見た。
図書館を見た。
魔法を見た。
訓練を見た。
聖力を止める姿も見た。
だから、次は考える。
そして選ぶ。
誰かに決められるのではなく。
焦って飛びつくのでもなく。
怖くて逃げるだけでもなく。
自分で考えて選ぶ。
レオン「採用だ」
トト「やった」
マーサが三十一番目の紙を壁に貼った。
三十一、見たあとで、ちゃんと考えて選ぶ。
壁の約束は、また増えた。
増えすぎだ。
本当に増えすぎだ。
けれど、その増えすぎた約束の一つ一つが、子どもたちの足場になっている。
その夜。
レオンは子どもたちが眠った後、食堂に残された感想文を見ていた。
トトの少し乱れた字。
ガルの短く真っ直ぐな文。
ユアンの細かい記録。
エルの迷いながらも正直な言葉。
ミリのスープ。
リリィの猫。
それぞれ違う。
同じ場所を見ても、見えたものは違う。
それでいい。
マーサが隣に来た。
「みんな、考えてるね」
レオン「ああ」
「学院、行かせたいかい?」
レオンは少し黙った。
「本人が選ぶなら」
マーサ「そうだね」
「ただ、道は作る」
マーサは少し笑った。
「太刀みたいに?」
レオンは腰の灰天太刀に触れた。
「斬る必要があるなら」
「物騒だねぇ」
マーサはそう言ったが、笑っていた。
外では、アルトが庭で眠っている。
猫は窓際で丸くなっている。
ひだまり孤児院は、いつもの夜だった。
けれど、昨日までとは少し違う。
学院という外の道を見た。
そして今日、その道へすぐ飛び出すのではなく、考えることを覚えた。
明日も宿題がある。
明日もスープがある。
明日も、見たものを考える時間がある。
レオンは感想文を丁寧にまとめた。
学院へ送るためではない。
子どもたちが、いつか自分で選ぶ日のために。
壁には、新しい約束。
三十一、見たあとで、ちゃんと考えて選ぶ。
少しずつ子どもたちに未来を見せ始めていた。




