第六話 見学
学院見学の日。
ひだまり孤児院の朝は、いつもより早かった。
まだ空が薄青い時間から、庭では音がしている。
ぱん。
ぱん。
ぱん。
ガルの正拳突き。
第1段階《纏気覚醒》を発動したまま、朝の五百回。
少し離れた場所では、トトが立っていた。
目を閉じない。
足の裏を感じる。
心臓の音を聞く。
十回。
たった十回。
けれど、トトにとっては大事な宿題だった。
トト「……心臓、うるさい」
ガル「それでいいんだろ」
トト「うん」
ぱん。
ぱん。
ぱん。
トト「ガル、今日学院行くんだよね」
ガル「ああ」
トト「正拳突き、減らさないの?」
ガル「減らさない」
トト「学院の日でも?」
ガル「学院の日でも」
トトは少しだけ黙った。
そして、深く息を吸う。
「俺も、十回減らさない」
ガル「十回は減らすなよ」
トト「うん!」
食堂では、マーサが朝食の準備をしていた。
今日は見学なので、いつもよりしっかりめの朝ごはんだ。
スープ。
焼きパン。
卵。
少しの肉。
そして、水筒に入れる薄めの果実水。
ミリ「学院すーぷある?」
マーサ「分からないから、朝にちゃんと飲んでいくんだよ」
ミリ「はい」
リリィ「猫は?」
猫「……」
フィリア「猫はお留守番です」
リリィ「猫、落選二回目」
猫「……」
猫は不満そうに見えた。
しかし、マーサが小皿に少しだけ温かいミルクを出すと、すぐに許したようだった。
トト「猫、切り替え早い」
ユアン「合理的」
ガル「猫らしい」
レオンは食堂の端で、今日の予定表を確認していた。
セシリアが作ったものだ。
『王立アルクレア学院見学予定』
一、正門到着。
二、学院長挨拶。
三、基礎講義棟見学。
四、魔法実技場見学。
五、剣術・騎士課程訓練場見学。
六、昼食。
七、図書館見学。
八、魔力測定見学。
九、帰還。
レオン「多いな」
セシリア「見学ですので」
レオン「半分でいい」
セシリア「無理です」
リュシア「学院側の面子もあるのよ」
フィリア「途中休憩を増やしましょう。子どもたちも、アリシア王女も、無理は禁物です」
マーサ「昼食の確認は?」
セシリア「済んでいます。辛すぎる料理、強い香辛料、未確認の薬草茶は避けるよう伝えています」
ミリ「すーぷは?」
セシリア「あります」
ミリ「よし」
レオン「そこまで確認したのか」
フィリア「大事です」
今日、特に注意するべきことは二つあった。
一つは、ひだまりの子どもたちが学院で不用意に動かないこと。
もう一つは、アリシア王女の聖力を絶対に表に出さないこと。
学院には、魔力測定の設備がある。
神聖系の測定は国王命令で延期された。
だが、油断はできない。
聖力は、助けたい気持ちに反応する。
もし学院内で誰かが怪我をしたら。
もし目の前で誰かが倒れたら。
アリシアはきっと、助けたいと思う。
だからこそ、止まる練習が必要だった。
レオン「アリシア王女の測定は魔力のみ」
リュシア「分かっているわ。私が補助する」
フィリア「体調確認もします」
マーサ「それでも危ないと思ったら、中止だよ」
レオン「ああ」
トトが手を上げた。
「俺たちは?」
レオン「知らないものに触るな」
トト「はい」
「勝手に離れるな」
「はい」
「貴族に変な勝負を挑むな」
トト「それは……はい」
ガル「迷ったな」
ユアン「迷ったね」
マーサ「挑むんじゃないよ」
トト「挑まない!」
レオン「ガル」
ガル「はい」
「トトを見るな」
ガル「え?」
「見すぎると、自分の見学ができない」
ガルは少しだけ黙った。
「……はい」
マーサ「そうだね。トトの面倒を見すぎるのも、ガルの癖だよ」
トト「俺、そんなに危ない?」
全員がトトを見た。
トト「……育成中」
朝食後。
ひだまり孤児院の一行は、王立アルクレア学院へ向かった。
馬車二台。
護衛にグレンの騎士二名。
レオン、マーサ、フィリア、リュシア、セシリア。
子どもはトト、ガル、ユアン、エル、ミリ、リリィ。
猫は留守番。
アルトも留守番。
アルトは庭で不満そうに翼を畳んでいた。
トト「アルト先輩、行ってきます!」
アルト「……」
ぐるる。
リリィ「アルト先輩も落選?」
ユアン「学院の正門にグリフォンは目立ちすぎるからね」
ガル「今さらだけどな」
馬車が王都の大通りを進む。
王城に近い区域を抜け、さらに北側へ。
やがて、高い白壁と青い屋根を持つ建物群が見えてきた。
王立アルクレア学院。
王族や貴族、騎士、魔導士、学者の卵たちが通う場所。
正門は大きく、門柱には学院の紋章が刻まれている。
開かれた本。
交差する剣と杖。
そして、その上に小さな星。
トト「でっか……」
ミリ「お城?」
ユアン「学院だよ」
ガル「でも、ひだまり何個分だ?」
ユアン「数えるのやめよう」
リリィ「迷子になる」
エルは少しだけ緊張していた。
大きな門。
きれいな制服。
行き交う生徒たち。
その全部が、ひだまりとは違う世界に見えた。
レオンはエルの様子に気づいた。
「無理に入らなくていい」
エルは首を横に振った。
「見ます」
「怖いなら言え」
「はい」
門の前で、学院職員が深く頭を下げた。
「ようこそ、王立アルクレア学院へ。レオン・ガルディア様、ひだまり孤児院の皆様」
トトが小声で言う。
「様って言われた」
ガル「静かにしろ」
ミリ「さま」
マーサ「挨拶」
子どもたちはそろって頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
その声は少しばらついていたが、まっすぐだった。
学院長は、白い髭をきれいに整えた老魔導士だった。
名を、オルディス・レインと言う。
彼は穏やかに笑い、子どもたちを迎えた。
学院長オルディス「ようこそ。今日は見学です。試験ではありません。無理に良く見せる必要はありません」
トト「試験じゃない……」
ユアン「そこに反応するんだ」
オルディス「ただし、学院内には危険な設備もあります。案内者から離れず、許可なく器具に触らないように」
トト「はい!」
レオン「トト」
トト「触りません!」
オルディスは少し笑った。
「元気がよろしい」
ガル「元気だけはあります」
トト「だけじゃない!」
マーサ「声」
トト「はい」
最初に案内されたのは、基礎講義棟だった。
広い教室。
整然と並ぶ机。
黒板。
地図。
魔法史の年表。
数学の図表。
貴族家の紋章一覧。
王国法の基礎。
ユアンは目を輝かせた。
「本が多い」
リュシア「ここは基礎講義棟だからね。読み書き、計算、歴史、法、礼儀、魔法理論の初歩を学ぶ場所よ」
トト「全部?」
ユアン「全部」
トト「大変だ……」
ガル「お前はまず座って授業を聞く練習だな」
トト「それ、第0段階?」
ユアン「着席覚醒」
レオン「勝手に段階を作るな」
教室の中では、同年代の生徒たちが授業を受けていた。
きれいな制服。
整った姿勢。
きちんと揃えられた筆記具。
トトは少しだけ自分の服を見る。
ひだまり用の、きれいに洗った外出着。
粗末ではない。
でも、学院の制服とは違う。
その視線に、ガルが気づいた。
「見るだけだろ」
トト「うん」
ガル「服で勝負しに来たわけじゃない」
トト「うん」
レオンはそれを聞いていた。
何も言わない。
だが、少しだけ頷いた。
次に案内されたのは、魔法実技場だった。
円形の広場。
床には魔法陣。
壁には防護結界。
空中には、魔力の流れを測る水晶が浮いている。
エルの足が止まった。
魔力が多い。
学院の空気には、魔法の残り香がある。
いろいろな色の魔力が、薄く混ざっている。
エルにとっては、人混みよりもずっと騒がしかった。
アリシアがそっと近づく。
「エル、大丈夫?」
エル「少し、ざわざわします」
アリシア「分かるわ。私も、今日は少し多く感じる」
リュシア「二人とも、呼吸。魔力を追わない。見すぎない」
エル「はい」
アリシア「はい」
レオン「座るか」
エルは首を横に振った。
「立てます。でも、少しゆっくり見ます」
レオン「ああ」
魔法実技場では、上級生が水球を作る訓練をしていた。
水の球を浮かべ、形を保ち、ゆっくり動かす。
トト「おお……!」
ミリ「水すーぷ?」
マーサ「違うよ」
リリィ「猫がいたら触りそう」
ユアン「だから落選したのかも」
学院の魔導士教員が説明する。
「魔法で大事なのは、出力ではなく制御です。大きな力を出すより、小さな力を崩さず保つ方が難しい」
トトがレオンを見る。
「宿題と同じ?」
レオン「ああ」
ガル「ここでも地味なんだな」
リュシア「魔法も地味よ。派手なのは結果だけ」
エルはその言葉を静かに聞いていた。
大きな力。
小さく保つ。
それは、自分にも必要なことだった。
アリシアも、手を軽く握る。
聖力を出さない。
魔力だけを見る。
助けたいと思っても、すぐに流さない。
それもまた、制御だった。
実技場の端で、小さな事故が起きた。
生徒の一人が、水球を崩し、足元を濡らして滑った。
「きゃっ!」
倒れる。
アリシアの指先が、一瞬だけ金白色に揺れかけた。
レオン「アリシア」
短い声。
アリシアは息を止める。
そして、すぐ呼吸した。
光は消えた。
フィリアが先に動き、学院の治癒担当が生徒を確認する。
「軽い打撲です。治癒魔法で十分です」
アリシアは小さく息を吐いた。
ルカが心配そうに見る。
「姉上……」
アリシア「大丈夫。止まれました」
レオン「いい」
その一言に、アリシアは少しだけ安心した。
助けたいと思った。
けれど、止まれた。
それは大事な一歩だった。
次に、剣術・騎士課程の訓練場へ向かった。
広い砂地。
木剣。
槍。
盾。
的。
生徒たちが掛け声とともに稽古をしている。
ルカの目が輝く。
だが、三日前とは違う。
輝いても、前には飛び出さない。
レオンが見る前に、ルカは自分で靴ひもを確認した。
グレン「殿下、よろしい」
ルカ「はい!」
トト「王城トト、成長してる」
ルカ「王城トトはまだよく分かりませんが、ありがとうございます!」
騎士課程の教員が木剣を振る生徒を指導していた。
「振り抜くな! 戻るまでが一動作だ!」
ガルが小さく頷いた。
「戻るまで」
レオン「拳も同じだ」
ガル「はい」
トト「俺の呼吸も?」
フィリア「吸って、吐いて、戻るまでです」
トト「全部戻るんだ……」
訓練場の生徒たちの中には、ひだまり組を珍しそうに見る者もいた。
貴族の子らしい少年が、友人に小声で何かを言う。
「孤児院の子が、なぜ学院に?」
聞こえるか聞こえないかの声。
だが、ガルには聞こえた。
トトにも少し聞こえた。
エルは肩を縮める。
レオンは動かなかった。
代わりに、マーサが一歩前に出た。
「見学に来たんだよ」
その声は穏やかだった。
だが、逃げ場がなかった。
少年はびくっとした。
「し、失礼しました」
マーサ「いいよ。知らないなら聞けばいい。小声で刺すんじゃない」
少年は顔を赤くして頭を下げた。
「すみません」
トトは目を丸くする。
ガルは小さく息を吐いた。
ユアンは静かに言った。
「小声で刺すんじゃない……二十七番に近い」
レオン「違うが、近い」
アリシアはその少年を見て、静かに言った。
「学院は、学ぶ場所です。身分で人を見る場所ではありません」
少年はさらに深く頭を下げた。
「はい、王女殿下」
ルカも言う。
「僕もまだ学んでいる途中です。だから、見学に来た人を笑うほど偉くありません」
トトが小声で言った。
「王城トト、かっこいい」
昼食の時間。
学院の食堂は広かった。
長いテーブル。
並ぶ料理。
学生たちの話し声。
ひだまりとは違う、整った賑やかさ。
ミリはスープを見るなり、真剣な顔になった。
「学院すーぷ」
マーサ「まず座ってから」
ミリ「はい」
学院のスープは、野菜と鶏肉の澄んだスープだった。
ミリは一口飲む。
真剣な顔。
食堂がなぜか少し静かになる。
ミリ「おいしい」
学院の料理人が、遠くでほっとしていた。
マーサ「よかったね」
ミリ「でも、マーサ先生のすーぷが家」
マーサは少し笑った。
「ありがとうよ」
レオンは無言でスープを飲んだ。
普通に美味い。
だが、ひだまりのスープとは違う。
それでいい。
場所ごとに味がある。
トトは学院の食堂を見回した。
「ここで毎日食べるのか……」
ユアン「もし通うならね」
ガル「通う前提で見るな」
エル「でも、そういう未来もあるのかな」
その言葉に、少しだけ空気が変わった。
学院に通う。
それは、ひだまりの子どもたちにとって遠い話だった。
けれど、今日初めて、その遠いものが少し形を持った。
リュシア「特別推薦は、ない話じゃないわ」
ガル「俺たちが?」
リュシア「才能だけではなく、継続、判断、危機対応。学院が欲しがるものはいろいろあるのよ」
トト「俺、座って授業聞けるかな」
マーサ「そこからだね」
トト「そこから……」
午後は図書館だった。
高い天井。
壁一面の本棚。
魔法で動く梯子。
静かな空気。
ユアンは完全に固まった。
トト「ユアン?」
ユアン「……住める」
ガル「住むな」
リリィ「猫なら住む」
ミリ「本すーぷ?」
マーサ「違うよ」
図書館司書が、古い魔法史の本を見せてくれた。
聖女に関する本も、遠くの棚にあった。
レオンは一瞬だけそこを見たが、手には取らなかった。
アリシアも気づいた。
けれど、何も言わなかった。
今は見学。
深く踏み込む日ではない。
最後は魔力測定見学だった。
本来なら、アリシアとルカも測定を受ける予定だったが、今日は見学中心に変更された。
神聖系測定は中止。
魔力測定のみ。
測定室には、大きな水晶柱が置かれていた。
魔力を流すと、色や量、属性の傾向が見える。
学院長オルディスが説明する。
「測定は、才能を決めるものではありません。入口を知るためのものです」
トト「また入口」
ガル「最近、入口多いな」
ユアン「大事だからね」
リュシアがアリシアに小さく言う。
「魔力だけ。聖力は追わない」
アリシア「はい」
レオン「助けようとするな」
アリシア「はい」
アリシアは水晶に手を置いた。
白銀の魔力が、静かに広がる。
水晶柱が淡く輝いた。
星のような光が、柱の中をゆっくり昇る。
学院長の目が細くなる。
「美しい魔力ですな。安定している」
リュシア「ええ。今日はここまで」
それ以上は見ない。
測定を止める。
アリシアは手を離した。
金白色の光は出なかった。
レオン「いい」
アリシアは小さく息を吐いた。
「止まれました」
次にルカが手を置いた。
魔力ではなく、体の中の戦気が少し反応しかける。
水晶が淡い金色を映した。
学院長「魔力よりも、戦気の反応が強いですな」
ルカ「太刀の宿題中です!」
レオン「言わなくていい」
ルカ「はい!」
学院長は笑った。
「基礎を大切にしているようで何よりです」
トトは水晶を見つめた。
「俺もやるの?」
レオン「今日は見学」
トト「見学だけ?」
「見学だけ」
トトは少し残念そうだった。
だが、すぐ頷いた。
「見学は見るだけ」
ガル「触らない」
ユアン「離れない」
ミリ「すーぷ飲む」
リリィ「猫は留守番」
レオン「最後は違う」
見学が終わる頃。
学院長オルディスは、ひだまりの子どもたちに向かって言った。
「今日見たものを、すぐに決める必要はありません。学院は広い場所です。楽しい場所でもあり、厳しい場所でもあります」
トト「はい」
オルディス「学ぶとは、自分が知らないことを知ること。そして、自分が何を知らないかを知ることです」
ユアンが真剣に頷いた。
ガルも黙って聞いている。
エルは少しだけ顔を上げた。
オルディス「いつか、ここで学びたいと思う日が来たなら、その時は門を叩きなさい」
トト「孤児院の子でも?」
オルディスは穏やかに答えた。
「学ぶ意思があり、努力するなら、門は完全には閉じません」
レオンが少しだけ学院長を見る。
「完全には、か」
オルディス「正直に申し上げました。身分、費用、推薦、試験。壁はあります。しかし、壁があることと、道がないことは違います」
レオンは何も言わなかった。
だが、その言葉は嫌いではなかった。
帰りの馬車。
トトは窓の外を見ながら言った。
「学院、すごかった」
ガル「ああ」
ユアン「図書館、もう一回行きたい」
ミリ「すーぷおいしかった」
リリィ「猫に話す」
エル「少し怖かった。でも、見てよかった」
マーサ「そうかい」
レオンは全員の顔を見た。
疲れている。
緊張もあった。
少し傷ついた場面もあった。
けれど、誰も後悔していない。
それで十分だった。
ひだまり孤児院へ戻ると、猫が玄関前で待っていた。
リリィ「猫、ただいま」
猫「……」
猫は一行を見て、それからミリの服の匂いを嗅いだ。
リリィ「学院すーぷの匂い?」
ミリ「たぶん」
猫「……」
少し不満そうだった。
夕食後。
子どもたちは壁の約束を見た。
二十九、助けたい時ほど、自分の命も守る。
その下には、まだ余白がある。
トトは紙を持ってきた。
「今日、三十番目いる」
レオン「とうとう三十か」
マーサ「見学した日だからね」
ガル「何を書くんだ」
トトは考えた。
ユアンが言葉を整える。
エルも少し案を出す。
ガルが余計な言葉を削る。
ミリが「すーぷ」を入れようとして、今回は外された。
そして、書かれた。
三十、知らない場所では、勝手に離れない。まず見る。
マーサ「いいね」
フィリア「見学の日にぴったりです」
リュシア「魔法にも通じるわ。知らない力も、まず見る」
セシリア「記録します」
ガル「今日は誰にも刺さってないな」
ユアン「トトには刺さってる」
トト「刺さってる」
レオンはその文字を見た。
知らない場所では、勝手に離れない。まず見る。
学院。
魔法。
戦気。
聖力。
貴族社会。
身分差。
新しい道。
知らないものばかりだった。
だから、まず見る。
勝手に離れない。
一人で走らない。
帰る場所を覚えたまま、外を見る。
レオン「採用だ」
トト「やった!」
ミリ「三十」
リリィ「いっぱい」
猫「……」
マーサが三十番目の紙を壁に貼った。
二十四か条だった約束は、とうとう三十になった。
増えすぎだ。
けれど、どれも必要だった。
夜。
レオンは食堂の灯りを落とす前、壁の約束を見た。
三十、知らない場所では、勝手に離れない。まず見る。
学院見学は終わった。
だが、学院との関わりはこれで終わりではない。
アリシアの聖力。
ルカの太刀。
エルの魔力。
ガルの拳。
トトの小さな火種。
そして、ひだまりの子どもたちの未来。
新しい道が、少し見えた。
まだ進むとは決めていない。
けれど、見た。
それだけで、今日は十分だった。
レオンは灯りを消す。
食堂が静かになる。
外ではアルトが翼を畳み、猫が窓際で丸くなっている。
ひだまり孤児院は、いつも通りの夜に戻った。
知らない場所を見ても、帰る場所がある。
だからまた、外へ出られる。
明日も宿題がある。
明日もスープがある。
そして、知らない場所では、まず見る。
その約束を胸に、子どもたちは眠りについた。




