第二話 宿題
翌朝。
ひだまり孤児院の食堂で、トトは固まっていた。
手にはスプーン。
目の前にはスープ。
口は半開き。
スープから湯気が上がっているのに、まったく動かない。
マーサ「トト」
トト「……」
マーサ「スープが冷めるよ」
トト「……俺、今、聞き間違えた?」
ガル「聞き間違えてないと思う」
ユアン「僕も同じように聞こえた」
ミリ「王城」
リリィ「猫も聞いた」
猫「……」
レオンはいつも通りスープを飲んでいた。
そして、もう一度言った。
「今日、お前も王城へ行く」
トトの目が一気に輝いた。
「王城!?」
マーサ「声」
トト「王城!」
マーサ「少し落としな」
トト「王城……!」
ガル「小さくしても勢いがすごい」
ユアン「心が走ってるね」
レオン「走るな」
トト「まだ椅子にいる!」
レオンは器を置いた。
「昨日、お前が第1段階をやりたいと言った」
トト「言った!」
「だから、触りだけ教える」
トト「第1段階!」
「ただし、修行だ。遊びではない」
トトはすぐ背筋を伸ばした。
「はい!」
マーサは腕を組む。
「本当に大丈夫なのかい? トトはすぐ調子に乗るよ」
トト「乗らない!」
全員がトトを見た。
トト「……少ししか乗らない」
マーサ「乗るんじゃないよ」
レオン「だから王城でやる」
ユアン「王城の方が安全なんですか?」
レオン「ああ。広い訓練場、治癒師、リュシアの補助具、グレンの監督がある」
フィリア「私も同行します。体調確認が必要ですから」
リュシア「私も見るわ。トトの闘気の流れ、少し興味あるし」
トト「俺、見られるの!?」
ガル「実験みたいだな」
リュシア「実験ではないわ。観察よ」
ユアン「ほぼ同じに聞こえます」
ミリ「かんさつ」
リリィ「猫も観察」
猫「……」
アルトが庭で低く鳴いた。
ぐるる。
トトは窓の外を見る。
「アルト先輩も行く?」
レオン「今日は行かない。王城の訓練場でやる」
トト「そっか……」
アルト「……」
ぐるる。
リリィ「アルト先輩、少し安心してる」
トト「なんで!?」
マーサ「そりゃあ、あんたが空で第1段階とか言い出したら困るだろ」
トト「言わない!」
全員がトトを見た。
トト「……たぶん」
レオン「今日は絶対に言うな」
トト「はい!」
朝食後。
トトはいつもより丁寧に靴ひもを結んだ。
一回。
二回。
三回。
ユアン「確認しすぎて逆に遅れてるよ」
トト「王城だから!」
ガル「靴ひもも緊張してそう」
エルは小さな布袋を渡した。
「これ、お守り」
トト「何が入ってるの?」
エル「小さい布。怖くなったら握って、呼吸して」
トトは少し照れた。
「ありがとう」
ミリ「すーぷの匂いも入れた」
トト「えっ」
ミリ「たぶん」
リリィ「猫の毛も入ったかも」
猫「……」
トト「すごいお守りになった!」
マーサ「落ち着け」
出発前、マーサはトトの前に立った。
「トト」
トト「はい」
「王城に行っても、あんたはあんただよ。王子様ができるからって、自分も同じようにできると思わないこと」
トト「はい」
「怖かったら言う」
「はい」
「分からなかったら聞く」
「はい」
「できたと思っても、調子に乗らない」
トト「二十一番!」
マーサ「そう」
レオン「二十五番もだ」
トト「向いていることほど、ゆっくり覚える!」
レオン「ああ」
トトは大きく頷いた。
「守る!」
王城訓練場。
トトが初めて正式に入った王城の訓練場は、とても広かった。
ひだまりの庭とは比べものにならない。
地面はならされ、木剣や盾が整然と並び、端には水や布が用意されている。
騎士たちが稽古をしている音が響く。
剣と剣がぶつかる音。
足音。
掛け声。
トトは目を丸くした。
「すげぇ……」
レオン「走るな」
トト「まだ歩いてる!」
グレンが出迎えた。
「ようこそ、トト」
トト「グレンさん! よろしくお願いします!」
グレン「元気が良いですね」
リュシア「元気が良すぎるとも言うわ」
フィリア「まず呼吸を整えましょう」
そこへ、ルカ王子が走りかけて、途中で止まった。
「トト!」
トトも走りかけて、止まった。
「ルカ王子!」
二人は互いに早歩きで近づいた。
グレン「よし」
アリシア「二人とも止まれましたね」
ルカ「トトも第1段階の修行をするのですね!」
トト「うん! 触りだけ!」
ルカ「触りだけが大事です!」
トト「王城トトっぽいこと言ってる!」
ルカ「王城トトとは何ですか?」
アリシア「気にしなくていいわ」
レオンは二人を見た。
「並べ」
ルカ「はい!」
トト「はい!」
二人は並んだ。
王子と孤児。
身分は違う。
服も違う。
立場も違う。
だが、今は同じ訓練場に立っている。
靴ひもを結び、姿勢を正し、レオンの前に立つ子どもだった。
レオン「ルカ殿下」
ルカ「はい」
「今日は第2段階を使うな」
ルカ「はい」
「第1段階だけで稽古する」
ルカ「はい!」
トト「ルカ王子、第2段階使えるのに使わないの?」
ルカ「使いたいです」
レオン「だから使わせない」
ルカ「はい!」
トト「大変だ……」
レオン「お前も同じだ。今日は第1段階を出そうとするな」
トト「えっ」
「感じるだけだ」
トト「出さないの?」
「出そうとするな」
トトは少しだけ肩を落とした。
「ルカ王子も最初そうだった?」
ルカ「はい。出そうとしたら怒られました」
レオン「怒ってはいない」
リュシア「静かに圧をかけていたわね」
グレン「それを怒ると言うのでは」
レオン「……」
訓練が始まった。
まずは立つ。
トトは思ったよりも上手く立った。
アルト騎乗で姿勢を意識するようになったからだ。
背を丸めすぎない。
足の裏を感じる。
膝を固めすぎない。
怖くなったら呼吸する。
それは、騎乗訓練で何度もやったことだった。
レオン「悪くない」
トトの顔が輝く。
「ほんと!?」
レオン「乱すな」
トト「はい!」
ルカが小さく笑った。
「僕もよく言われます」
トト「同じだ!」
レオン「喜ぶな。続ける」
次に、目を閉じないで呼吸を感じる。
足の裏。
膝。
腰。
腹。
胸。
心臓。
トトは途中で眉を寄せた。
「心臓、うるさい」
フィリア「緊張していますね」
リュシア「悪いことじゃないわ」
レオン「怖いか」
トトは少し考えた。
「怖い。けど、ちょっと楽しい」
レオン「ああ。それでいい」
ルカ「トト、正直に言えるのは強いです」
トト「そう?」
ルカ「僕は最初、かっこつけようとしました」
アリシア「今も時々します」
ルカ「姉上」
アリシア「事実です」
トトは笑いそうになった。
レオン「笑うな。呼吸」
トト「はい!」
少しして、トトの周りに、ほんのわずかな気配が揺れた。
色はまだはっきりしない。
金色でも、灰色でもない。
小さく、薄い。
火種にも届かない。
でも、確かに何かがあった。
リュシアが目を細める。
「出たというより、揺れたわね」
フィリア「体調に異常はありません」
レオン「いい」
トトは目を開きかける。
レオン「動くな」
トト「はい!」
「今のを追うな」
トト「追っちゃだめ?」
「追うと逃げる」
トト「猫みたい」
リリィがいれば頷いていただろう。
レオン「似ている」
リュシア「闘気を猫扱いするのは初めて聞いたわ」
グレン「ですが、トトには分かりやすいかもしれません」
トトは小さく息を吐いた。
「じゃあ、見るだけ」
レオン「ああ」
しばらくして、トトの気配は消えた。
トトは目を開ける。
「……消えた」
レオン「それでいい」
トト「できた?」
「入口の前に立った」
トト「入口じゃないの!?」
ルカ「最初は入口の前です」
トト「王城トトが先輩っぽい!」
ルカは少し誇らしげになりかけた。
レオン「ルカ殿下」
ルカ「はい!」
「乱すな」
ルカ「はい!」
訓練の後半。
ルカは木太刀を持った。
第2段階は使わない。
第1段階《纏気覚醒》だけを薄く纏う。
金色の戦気が、体の表面に安定している。
トトはそれを見て、目を丸くした。
「きれい……」
ルカ「ありがとうございます」
レオン「維持したまま、素振り」
ルカ「はい」
ルカは木太刀を構える。
一振り。
止める。
二振り。
止める。
三振り。
止める。
太刀の軌道は、四か月前よりずっと安定していた。
勢いに任せていない。
走る気持ちを、道に変える。
それを少しずつ覚えている。
レオン「今日は百で止める」
ルカ「はい!」
トト「百!?」
ガルなら驚き、ユアンなら計算し、ミリなら「いっぱい」と言うだろう。
トトは素直に驚いた。
しかし、ルカは当たり前のように振る。
十。
二十。
三十。
途中で戦気が乱れかける。
レオン「止めろ」
ルカはすぐ止まる。
呼吸。
戦気を整える。
再開。
トトは食い入るように見ていた。
ルカはすごい。
第2段階が使えて。
太刀に向いていて。
第1段階を出したまま素振りができる。
でも。
それでも、何度も止められている。
何度も呼吸している。
何度もやり直している。
トト「強くなるって、地味だ……」
レオン「ああ」
トト「もっと、ばーんって感じかと思った」
リュシア「ばーんって強くなる人は、だいたい危ないわ」
フィリア「体も壊します」
グレン「心も折れます」
レオン「だから地味でいい」
ルカが百回を終えた時、額には汗が浮かんでいた。
第1段階を維持したままの素振り。
ただの百回ではない。
呼吸も、姿勢も、戦気も、太刀筋も崩せない。
かなりの集中力がいる。
ルカ「終わりました……!」
レオン「悪くない」
ルカの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
レオン「では、宿題だ」
ルカ「はい!」
その返事は元気だった。
まだ、内容を知らないからだ。
レオンは淡々と言った。
「毎日、素振り千回」
訓練場が静かになった。
ルカ「……千?」
トト「千!?」
グレン「千回ですか」
フィリア「負荷管理が必要ですね」
レオン「第1段階を解放したまま行う」
さらに静かになった。
ルカの顔から、少し血の気が引いた。
「第1段階を……解放したまま……千回」
レオン「ああ」
トト「それ、すごいの?」
ルカ「すごく大変です」
アリシア「普通の素振り千回でも大変です」
リュシア「戦気を維持したままなら、なおさらね」
フィリア「一度に千回ではなく、分割してください。朝五百、夕方五百。体調不良時は中止。戦気が乱れたら休憩」
レオン「それでいい」
ルカ「毎日……ですか?」
レオン「ああ」
「第2段階に触れたからこそ、第1段階を磨く」
ルカは黙った。
第2段階に届いた。
戦気感応が少しできるようになった。
だからもっと第2段階を練習するのだと思っていた。
だが、レオンが出したのは、第1段階を維持したままの素振り千回。
派手さはない。
新しさもない。
ただただ基礎。
しかし、ルカは四か月の稽古で知っている。
レオンが地味なことを言う時ほど、大事なのだ。
ルカは深く息を吸った。
そして、頭を下げた。
「やります」
レオン「ああ」
「ただし、数だけこなすな」
ルカ「はい」
「一振りごとに止める。崩れたら休む。雑に振ったものは数に入れない」
ルカ「はい」
「第1段階が消えたまま振ったものも数に入れない」
ルカ「はい」
「痛みが出たら中止」
フィリア「そこは絶対です」
ルカ「はい!」
トトは震えた。
「宿題、こわ……」
アリシア「王城の宿題は厳しいですね」
グレン「これを管理する私も宿題を出された気分です」
リュシア「記録係も大変そうね」
レオン「必要だ」
ルカは木太刀を見た。
千回。
第1段階を維持したまま。
毎日。
大変だ。
間違いなく大変だ。
でも、不思議と嫌ではなかった。
これは、太刀を持つための道だ。
本物の太刀へ近づくための道。
そして、帰るための道。
ルカ「レオン殿」
レオン「なんだ」
「僕、やります。焦らず、でも逃げずに」
レオンは少しだけ目を細めた。
「いい」
トトはその横で、何かを決意した顔になった。
「俺も宿題やる!」
レオン「お前はまだ千回やらない」
トト「えっ」
「お前の宿題は、毎朝十回、立つ。呼吸する。心臓の音を聞く。それだけだ」
トト「十回だけ?」
「十回を雑にやるな」
トトはハッとした。
ルカの千回を見た後だと、十回は少なく聞こえる。
でも、レオンの顔は真剣だった。
これは軽い宿題ではない。
トトのための宿題だ。
トト「……はい」
レオン「第1段階を出そうとするな。追うな。見るだけだ」
トト「猫みたいに」
レオン「ああ」
トトは大きく頷いた。
「やる!」
訓練が終わると、トトは疲れた顔でひだまりへ戻った。
王城から戻った瞬間、ガルたちに囲まれた。
ガル「どうだった!?」
ユアン「第1段階、出た?」
エル「怖くなかった?」
ミリ「王城」
リリィ「猫も聞く」
猫「……」
トトは胸を張った。
「入口の前に立った!」
ガル「入口じゃないのか」
ユアン「でも進歩だね」
エル「すごいよ」
ミリ「前」
リリィ「猫の前」
猫「……」
マーサ「それで、宿題は?」
トト「毎朝十回、立って、呼吸して、心臓の音を聞く!」
マーサ「いい宿題だね」
ガル「十回なら楽そう」
レオン「楽ではない」
ガルは口を閉じた。
ユアン「ルカ王子は?」
トトの顔が一気に真剣になる。
「毎日、素振り千回」
食堂が静かになった。
「しかも、第1段階を解放したまま」
さらに静かになった。
ガル「……王子って大変なんだな」
ユアン「千回……」
エル「第1段階を保ったまま……」
ミリ「いっぱい」
リリィ「猫ならやらない」
猫「……」
マーサはレオンを見る。
「本気かい?」
レオン「ああ」
「壊さないね?」
「壊さない。朝五百、夕方五百。フィリアとグレンが管理する」
フィリア「無理があれば止めます」
マーサ「ならいい」
トトは拳を握った。
「俺も十回、ちゃんとやる」
マーサ「そうだね。人の千回を見て、自分の十回を軽く見ないことだよ」
トト「はい!」
その夜。
ひだまりの食堂で、トトは壁の約束を見た。
二十五、向いていることほど、ゆっくり覚える。
今日の宿題は、まさにそれだった。
ルカは太刀に向いている。
だから千回。
自分は第1段階の入口の前。
だから十回。
数は違う。
場所も違う。
でも、どちらも大事な宿題だった。
トト「二十六番目、いる?」
レオン「また増えるのか」
マーサ「今日は何を書くんだい?」
トトは紙を持ってきた。
少し悩んでから、書いた。
二十六、自分の宿題を、ちゃんとやる。
ガル「普通だな」
ユアン「でも大事」
エル「人と比べないってことだよね」
ミリ「しゅくだい」
リリィ「猫は宿題しない」
猫「……」
マーサ「猫にもあるよ。勝手に鍋に近づかないこと」
猫「……」
リリィ「猫、宿題あった」
トトはレオンを見た。
「採用?」
レオンは少しだけ壁を見た。
二十五、向いていることほど、ゆっくり覚える。
二十六、自分の宿題を、ちゃんとやる。
簡単な言葉だ。
だが、これから何度も必要になる言葉だった。
ルカにも。
トトにも。
ひだまりの子どもたちにも。
そして、自分にも。
レオン「採用だ」
トト「やった!」
ミリ「二十六」
リリィ「増えた」
猫「……」
外では、アルトが静かに眠っている。
王城では、きっとルカが木太刀を見つめている。
明日から毎日、千回。
ひだまりでは、トトが明日の朝、十回立つ。
それぞれの宿題。
それぞれの道。
派手ではない。
誰にも褒められない日もある。
それでも、続ける。
帰るために。
守るために。
強くなりすぎて自分を見失わないために。
レオンは壁の新しい約束を見て、静かに息を吐いた。




