第四話 路地裏の子ども
レオン・ガルディアは、トトが差し出した布切れを見つめていた。
泥で汚れた小さな布。
服の袖か、荷袋の端か。
そこには見覚えのない紋章が刺繍されている。
いや、正確には、レオンには見覚えがない。
だが、セシリアには心当たりがあるようだった。
セシリア「……やはり、マルクス商会の荷印に似ています」
トト「荷印?」
セシリア「商会が荷物や商品につける印です。どこの商会のものか分かるようにするためのものですね」
トト「これ、その子の服についてたんだよ?」
トトは不安そうに言った。
レオンは布切れを握りしめる。
服に商会の荷印。
嫌な組み合わせだった。
レオン「トト。その子を見た場所は?」
トト「孤児院の裏の路地。古い井戸があるところの近く」
セシリア「孤児院の裏ですか」
レオン「なぜ、そんなところに」
トト「分かんない。でも、すごく怯えてた」
レオン「一人だったか?」
トト「うん。たぶん」
トトは少し考え込む。
トト「でも、何回も後ろを見てた。誰かに追われてるみたいだった」
レオンは静かに息を吐いた。
――子どもが逃げている。
その事実だけで、十分だった。
レオン「セシリア」
セシリア「はい」
レオン「マルクス商会の代理人との面会は延期だ」
セシリア「理由は?」
レオン「商会の荷印がついた布を持った子どもが、孤児院の裏で助けを求めていた」
セシリア「十分です」
セシリアは即座に書類を閉じた。
こういう時の彼女は早い。
レオン「騎士団には?」
セシリア「まだ連絡しません。証拠が弱すぎます。商会側に先に逃げ道を作られる可能性があります」
レオン「ああ」
トト「じゃあ、どうするの?」
レオンはトトを見る。
泥だらけの靴。
乱れた髪。
急いで走ってきたせいで、まだ息が少し荒い。
怖かったはずだ。
知らない子どもが怯えていて、変な布を落として、何かから逃げていた。
それを一人で抱えきれず、トトはギルドまで走ってきた。
レオン「まず、その子を探す」
トト「俺も行く!」
セシリア「危険かもしれません」
トト「でも、俺が場所知ってる!」
レオン「……入口までだ」
トト「また入口まで!?」
レオン「路地の場所まで案内したら、後ろに下がれ。俺の前に出るな。何も拾うな。何も触るな」
トト「俺、そんなに拾う?」
セシリア「拾います」
レオン「拾うな」
トト「……はい」
トトは不満そうに返事をした。
だが、その目は真剣だった。
――この子は放っておけない。
トトはそういう目をしていた。
レオンはその目を知っている。
自分も昔、同じような目をしていたことがある。
助けたい。
でも、どうすればいいか分からない。
だから、大人を呼ぶ。
トトはちゃんと、それができた。
レオン「よく知らせに来たな」
トト「え?」
レオン「一人で追いかけなかったのは正しい」
トトは少しだけ目を丸くした。
それから、照れくさそうに鼻をこする。
トト「……マーサ先生に、危ない時は大人呼べって言われてるし」
セシリア「今回はよく守れましたね」
トト「今回はって何!?」
セシリアは何も答えず、にこりと笑った。
トト「やっぱり怖い……」
レオン「行くぞ」
三人はギルドを出た。
王都の大通りは、午後の人通りで賑わっていた。
商人の呼び声。
馬車の車輪の音。
パン屋から漂う焼きたての匂い。
遠くで鳴る鐘の音。
王都はいつも通りに見える。
だが、その明るい通りの裏には、暗い路地がある。
きれいな店の裏には、捨てられた木箱が積まれている。
貴族の馬車が通る石畳の横には、誰にも見られない子どもが膝を抱えている。
レオンはそれを知っていた。
王都は豊かだ。
だが、豊かさはすべての人に届くわけではない。
トトは先頭を歩きながら、何度も後ろを振り返った。
トト「こっち!」
セシリア「走らないでください」
トト「走ってない!」
セシリア「今、半分走っていました」
トト「半分ならいいじゃん!」
レオン「駄目だ」
トト「はい」
やがて三人は、ひだまり孤児院の近くまで来た。
表通りから外れ、細い道へ入る。
そこからさらに奥へ進むと、古い井戸のある路地に出た。
使われなくなった井戸。
欠けた石壁。
積まれた木箱。
雨のあとで湿った地面。
トト「ここ」
トトは小さな声で言った。
さっきまでの勢いが少し消えている。
レオン「このあたりで見たのか」
トト「うん。そこの木箱のところに座ってた」
トトが指差したのは、路地の奥にある壊れた木箱の陰だった。
レオンはしゃがみ、地面を見る。
小さな足跡がある。
裸足ではない。
かなり擦り切れた靴の跡だ。
足跡は木箱の陰から路地の奥へ続いている。
セシリア「一人分ですね」
レオン「ああ」
セシリア「かなり小さい」
トト「俺より小さかったよ」
レオンは足跡を追う。
地面には、泥のこすれた跡があった。
急いで逃げたのだろう。
そして、壁の角に、かすかな血の跡がある。
レオンの目が細くなる。
トト「レオン兄ちゃん?」
レオン「トト。ここからは俺の後ろだ」
トト「……うん」
レオンの声が低くなったことに、トトも気づいた。
セシリアもすぐに表情を引き締める。
セシリア「怪我をしている可能性がありますね」
レオン「ああ」
――間に合え。
レオンは心の中でそうつぶやく。
小さな子どもの足跡。
血の跡。
商会の荷印。
一つ一つは小さい。
だが、組み合わさると嫌な形になる。
路地の奥へ進むと、古い倉庫の裏手に出た。
表からは見えない、狭い隙間。
木箱と壊れた荷車が置かれ、誰かが身を隠すにはちょうどいい場所だった。
レオンは足を止めた。
わずかな息遣いが聞こえた。
レオン「そこにいるな」
木箱の奥で、小さな影がびくりと動いた。
トト「いた!」
セシリア「トト、下がって」
トトは慌てて口を押さえ、一歩下がった。
レオンはしゃがみ、できるだけ声を低くしすぎないようにする。
レオン「大丈夫だ。追ってきたわけじゃない」
返事はない。
木箱の陰から、かすかに震える気配だけが伝わってくる。
レオンは自分の手を見た。
大きな手。
剣を握ってきた手。
子どもには、怖く見えるかもしれない。
――怖がらせるな。
レオンはそれ以上近づかなかった。
代わりに、腰の袋から小さな包みを取り出す。
朝、孤児院に持っていくつもりで買っておいた端パンだった。
レオンはそれを木箱の前に置いた。
レオン「腹は減っているか」
木箱の奥から、かすかな音がした。
返事ではない。
けれど、視線がパンに向いた気がした。
レオン「取っていい。何もしない」
トトは黙って見ていた。
――レオン兄ちゃん、いつもこうだ。
怖い顔なのに、子どもに近づく時はゆっくりになる。
急に手を伸ばさない。
大きな声を出さない。
トトはそれを見て、少しだけ胸がきゅっとなった。
自分が初めてひだまり孤児院に来た時のことを思い出したからだ。
あの時も、レオンは無理に手を引かなかった。
「腹が減ってるなら食え」と言って、スープを置いてくれた。
木箱の奥から、小さな手が伸びた。
細い手だった。
泥で汚れ、指先に小さな傷がある。
その手がパンをつかみ、すぐに木箱の奥へ引っ込む。
かすかな咀嚼の音がした。
セシリアは声を抑えて言う。
セシリア「かなり衰弱しているかもしれません」
レオン「ああ」
パンを食べ終えた頃、木箱の奥から小さな声が聞こえた。
???「……連れていかない?」
レオン「連れていかない」
???「売らない?」
トト「売る!?」
思わず声を上げたトトの口を、セシリアがそっと手で塞いだ。
セシリア「静かに」
トトはこくこくとうなずいた。
レオンの表情は変わらない。
だが、胸の奥で何かが冷たく沈んだ。
レオン「売らない。叩かない。縛らない」
???「……ほんと?」
レオン「本当だ」
???「大人は、嘘つく」
レオンは少し黙った。
それは、正しい言葉だった。
大人は嘘をつく。
子どもを安心させるために。
子どもをだますために。
自分の都合を守るために。
レオン「そうだな。嘘をつく大人もいる」
木箱の奥の気配が、また少し震える。
レオン「だから、すぐ信じなくていい」
???「……」
レオン「ただ、今はここにいると危ない。怪我もしている」
???「平気」
レオン「平気な子は、そんな声を出さない」
少しの沈黙。
やがて、木箱の陰から一人の子どもが出てきた。
六歳か、七歳くらいの少女だった。
薄い金色の髪は泥で絡まり、頬はこけている。
服はぼろぼろで、袖の片方が破れていた。
その破れた場所は、トトが持ってきた布切れと合いそうだった。
足首には、赤く擦れた跡がある。
レオンはそれを見て、目を伏せた。
――足枷の跡か。
怒りが胸の奥で静かに燃える。
だが、顔には出さない。
今ここで怖い顔をすれば、この子はまた逃げる。
レオン「名前は?」
少女は少しだけ迷った。
???「……エル」
トト「エル?」
エルはトトの方を見た。
その目は、警戒しているが、少しだけ覚えているようでもあった。
エル「さっきの子」
トト「うん。俺、トト」
エル「……大人、呼んだ」
トト「うん。だって、困ってたから」
エル「言ったら、怒られる」
トト「誰に?」
エルは唇を噛んだ。
答えない。
セシリアはそっと自分の外套を外し、レオンに渡した。
レオンはそれをエルの前に置く。
レオン「寒いだろう。羽織るだけでいい」
エルは外套を見つめた。
すぐには手を伸ばさない。
レオン「嫌なら無理に着なくていい」
エル「……」
エルは迷った末、外套をつかんだ。
そして、小さな体に巻きつける。
少しだけ震えが収まった。
セシリア「エル。あなたは、どこから来たのですか?」
エルは黙った。
レオン「答えなくていい。答えられることだけでいい」
エル「……荷車」
レオン「荷車?」
エル「箱の中。ほかの子もいた」
トト「ほかの子!?」
エルはびくっと肩を震わせた。
トト「ご、ごめん」
レオン「何人いた」
エル「……三人。たぶん」
セシリア「連れていかれると言っていましたね。どこへ?」
エル「分かんない。でも、おじさんが言ってた」
レオン「何を」
エルの声は小さくなる。
エル「小さいのは、よく働くって。ご飯少しでいいって」
トトの顔が青ざめた。
セシリアの目から温度が消える。
レオンは何も言わなかった。
言えば、声に怒りが混じると思ったからだ。
――子どもを荷物扱いか。
大人が子どもを道具のように扱う。
それだけは、レオンが最も嫌うものだった。
エル「逃げたら、みんなが怒られる」
レオン「みんな?」
エル「一緒にいた子」
レオン「その子たちは、今どこにいる」
エルは首を振った。
エル「知らない。荷車から落ちた。逃げた。いっぱい走った」
セシリア「荷車の場所を覚えていますか?」
エル「……暗い倉庫。魚のにおいがした」
セシリア「魚のにおい」
レオン「南市場の倉庫街か」
セシリア「マルクス商会は南市場に倉庫を持っています」
トト「やっぱり、あの商会なの?」
セシリア「まだ断定はできません」
レオン「だが、調べる理由はできた」
その時だった。
路地の向こうから、男たちの声が聞こえた。
男1「こっちに来たはずだ」
男2「小さいガキだ。遠くには行ってねぇ」
エルの顔から血の気が引いた。
エル「……来た」
トト「追ってきたの?」
エルは外套を握りしめ、小さくうなずいた。
レオンはゆっくり立ち上がる。
セシリア「マスター」
レオン「ああ」
セシリア「ここで暴れると、相手に逃げる口実を与えます」
レオン「分かっている」
トトはレオンを見上げた。
レオンの顔は静かだった。
でも、トトには分かった。
――怒ってる。
大声を出している時より、ずっと怖い。
レオン兄ちゃんが本気で怒る時は、声が低くなる。
男たちが路地に現れた。
二人組の男だった。
商人風ではない。
荷運び人か、用心棒のような格好をしている。
男1「おいおい、こんなところにいたか」
男2「手間かけさせやがって」
エルが後ずさる。
レオンはその前に立った。
男1「あ? なんだあんた」
レオン「この子に何の用だ」
男2「こっちの台詞だ。そいつはうちの荷だ」
トト「荷って……!」
セシリアがトトの肩に手を置き、止める。
レオン「子どもは荷物じゃない」
男1「言い方の問題だろ。商会の預かりもんだよ」
レオン「どこの商会だ」
男たちは一瞬、視線を交わした。
男2「関係ねぇだろ」
レオン「なら、騎士団に聞かせる」
男1「おい、面倒にする気か?」
レオン「面倒にしているのはお前たちだ」
男2が舌打ちし、腰の短剣に手をかけた。
その瞬間、レオンの視線が男に向いた。
ただ、それだけだった。
だが男2の手は、短剣に触れたまま止まった。
動けない。
レオンは剣を抜いていない。
魔法も使っていない。
ただ立っているだけ。
それなのに、路地の空気が重くなる。
男2「な、なんだよ……」
男1の顔色が変わった。
男1「おい、こいつ……」
セシリア「王都冒険者ギルド本部、ギルドマスター。レオン・ガルディアです」
男たちの表情が固まった。
レオンの名前を知らない者は、王都にはほとんどいない。
竜殺し。
灰剣のレオン。
元Sランク冒険者。
そして、今は王都最大ギルドのマスター。
男1「ぎ、ギルドマスターが、なんでこんな路地に……」
レオン「子どもが助けを求めた」
男2「ち、違う! そのガキは勝手に逃げたんだ!」
レオン「どこから」
男2「それは……」
レオン「誰の指示で」
男1「……」
レオン「ほかの子はどこだ」
沈黙。
その沈黙が、答えだった。
セシリア「お二人には、ギルドで詳しく話を聞かせていただきます」
男1「ふざけるな!」
男1が逃げようとした。
しかし、路地の入口にはいつの間にか一人の大男が立っていた。
バルド「おっと。逃げるには狭い道だな」
バルド・ロックス。
古参冒険者であり、新人教育担当の大男が、腕を組んで立っていた。
トト「バルドのおっちゃん!」
バルド「おっちゃんじゃねぇ。兄貴と呼べ」
トト「おっちゃん!」
バルド「聞けよ」
セシリア「バルドさん、なぜここに?」
バルド「マスターが怖ぇ顔で出ていったって聞いてな。面白……いや、心配で追ってきた」
レオン「助かる」
バルド「で、こいつらか」
男たちは完全に逃げ場を失った。
レオン「抵抗するな。話を聞くだけだ」
男2「話だけで済むわけねぇだろ!」
レオン「それは、お前たちの話次第だ」
男たちは何も言えなくなった。
セシリアはすぐにギルド職員用の拘束札を取り出す。
セシリア「暴れなければ痛みはありません」
男1「くそ……」
バルド「暴れたら俺が痛くするぞ」
セシリア「バルドさん」
バルド「冗談だ」
セシリア「顔が本気です」
バルド「そりゃ、子どもを荷扱いする奴には冗談も硬くなる」
男たちは拘束された。
レオンはエルの方を振り返る。
エルは、セシリアの外套にくるまったまま震えていた。
トトがそっと近づく。
トト「もう大丈夫だよ」
エル「……ほんと?」
トト「レオン兄ちゃんがいるから」
エルはレオンを見る。
まだ完全には信じていない。
でも、逃げようとはしなかった。
レオンは膝をつき、視線を低くする。
レオン「エル。今から安全な場所へ行く」
エル「どこ?」
レオン「ひだまり孤児院」
エル「孤児院……」
トト「飯あるよ!」
セシリア「トト、最初に言うことがそれですか」
トト「でも大事じゃん!」
レオン「大事だ」
セシリア「否定はしませんが」
エルは小さくお腹を押さえた。
その仕草だけで、レオンは分かった。
腹が減っている。
レオン「マーサ先生に頼もう。温かいものを出してくれる」
エル「……怒られない?」
レオン「何を」
エル「逃げたこと」
レオンは少しだけ目を細めた。
レオン「逃げていい場所から逃げたなら、怒られることもある」
エルはびくっとする。
レオン「だが、逃げなければいけない場所から逃げたなら、それは正しい」
エル「……正しい?」
レオン「ああ。よく逃げた」
エルの目が揺れた。
泣きそうな顔だった。
でも、涙はこぼれなかった。
まだ泣き方を思い出せない子の顔だった。
レオンはそれ以上、何も言わなかった。
その代わり、ゆっくりと立ち上がる。
レオン「セシリア。男たちはギルドへ」
セシリア「はい。バルドさん、同行をお願いします」
バルド「任せろ」
レオン「俺はエルを孤児院に連れていく」
セシリア「その後は?」
レオン「南市場の倉庫街を調べる」
セシリア「一人では行かせません」
レオン「分かっている」
セシリア「本当に?」
レオン「……努力する」
セシリア「その言葉は信用していません」
トト「レオン兄ちゃん、また怒られてる」
レオン「いつものことだ」
トト「そうだね」
レオンはトトの頭を軽く小突いた。
トト「痛くない!」
エルはそのやり取りを、不思議そうに見ていた。
怖い大人。
強い大人。
怒る大人。
そういう大人は知っている。
でも、子どもに頭を小突いて、子どもが笑っている大人は、あまり知らない。
トト「行こう、エル」
トトは手を差し出しかけて、途中で止めた。
レオンに言われたことを思い出したのだ。
無理に触らない。
トト「……えっと、こっち」
エルはその手を見た。
それから、ほんの少し迷って、手を伸ばした。
指先だけが、トトの袖をつかむ。
トトは笑った。
トト「うん。それでいいよ」
レオンはその様子を見て、静かに息を吐いた。
――トトも、少しずつ分かってきている。
誰かを助けることは、腕を引っ張ることではない。
相手が歩ける速さで、隣にいることだ。
四人は路地を出た。
表通りの光が見える。
夕方の王都はまだ賑やかだった。
けれど、エルは眩しそうに目を細めた。
トト「大丈夫?」
エル「人、多い」
トト「王都だからな」
エル「怖くない?」
トト「最初は怖かった」
エル「今は?」
トト「今は、帰る場所あるから」
エルは何も言わなかった。
でも、トトの袖をつかむ指に、少しだけ力が入った。
ひだまり孤児院に着くと、マーサが玄関で待っていた。
まるで、最初から分かっていたかのようだった。
マーサ「おかえり、トト。レオン」
トト「マーサ先生!」
マーサはエルを見る。
泥だらけで、痩せていて、外套にくるまった小さな少女。
マーサの表情は変わらない。
驚きも、哀れみも、怒りも、最初には見せなかった。
ただ、いつものように言った。
マーサ「寒かったろう。中に入りな」
エル「……」
マーサ「名前は?」
エル「……エル」
マーサ「そうかい。エル、手を洗ったらスープだよ」
エル「スープ……」
マーサ「嫌いかい?」
エルは首を横に振った。
マーサ「なら、ちょうどいい」
トト「今日のスープ、うまいよ!」
マーサ「トトは毎日そう言うね」
トト「毎日うまいから!」
マーサは小さく笑い、エルを食堂へ案内した。
ミナやガル、リリィたちも食堂から顔を出す。
ミナ「その子は?」
トト「エル。今日から……えっと」
トトはレオンを見る。
レオンは静かに答えた。
レオン「しばらく、ここで休む」
マーサ「そういうことだよ。みんな、騒ぎすぎないように」
ガル「分かってる」
リリィ「エル、お腹すいてる」
エルが少し驚いたようにリリィを見る。
リリィはただ、じっと見つめ返した。
リリィ「大丈夫。スープある」
エルは小さくうなずいた。
食堂に、温かい匂いが広がっている。
エルは椅子に座り、両手で器を受け取った。
湯気の立つスープ。
それを見た瞬間、エルの目が揺れた。
エル「……食べて、いいの?」
マーサ「もちろん」
エル「あとで、払う?」
マーサ「払わなくていい」
エル「働く?」
マーサ「今は食べるのが仕事だよ」
エルはスプーンを握った。
最初の一口を、恐る恐る口に運ぶ。
そして、動きを止めた。
トト「熱かった?」
エルは首を横に振った。
ぽたり、と涙が一粒、器の中に落ちた。
エル「……あったかい」
食堂が静かになった。
トトも、ミナも、ガルも、誰も笑わなかった。
その言葉の重さを、みんな少しだけ知っていたからだ。
レオンは食堂の入口で、それを見ていた。
――間に合った。
一人だけかもしれない。
まだ他にもいる。
すべては終わっていない。
それでも、今この子は温かいスープを飲んでいる。
まずは、それでいい。
セシリアが戻ってきたのは、エルが二杯目のスープを食べ終えた頃だった。
セシリア「マスター」
レオン「どうだった」
セシリア「男たちはギルドで拘束しました。黙秘していますが、所持品から南市場の倉庫の鍵が出ました」
レオン「場所は?」
セシリア「マルクス商会の第七倉庫です」
マーサの目が鋭くなる。
トト「そこに、ほかの子がいるの?」
セシリア「可能性があります」
エルはスプーンを握りしめた。
エル「……いる」
レオンがエルを見る。
エルは震えながらも、今度ははっきりと言った。
エル「たぶん、いる。私と一緒にいた子」
トト「助けなきゃ!」
レオン「ああ」
レオンはうなずいた。
セシリア「ですが、商会の倉庫に踏み込むには証拠と手続きが必要です。騎士団にも連絡を」
レオン「分かっている」
トト「今すぐ行かないの!?」
レオン「行く」
セシリア「マスター」
レオン「手続きを踏んで、今すぐ行く」
セシリアは一瞬だけ黙り、それからため息をついた。
セシリア「……それなら、私も反対しません」
バルド「俺も行くぜ」
いつの間にか、玄関の方にバルドが立っていた。
バルド「子どもを荷物扱いする連中には、少し礼儀を教えてやらねぇとな」
セシリア「暴力は禁止です」
バルド「分かってる。少し怖い顔をするだけだ」
レオン「俺も行く」
セシリア「マスターは怖い顔をしなくても怖いです」
トト「たしかに」
レオン「……そうか」
レオンは少しだけ傷ついた顔をした。
その様子に、食堂の空気がわずかに緩む。
エルも、ほんの少しだけ目を瞬かせた。
笑ったわけではない。
でも、泣く以外の表情を少しだけ思い出したように見えた。
レオンはそれを見て、静かに背を向ける。
レオン「マーサ先生。エルを頼む」
マーサ「言われなくても」
レオン「トト」
トト「俺も行く!」
レオン「駄目だ」
トト「なんで!」
レオン「今回は本当に危ない」
トト「でも!」
レオン「エルのそばにいろ」
トトは言葉を止めた。
レオン「エルはまだ、ここを知らない。お前が教えてやれ」
トト「……」
レオン「飯の場所。井戸の場所。マーサ先生に怒られない歩き方」
マーサ「最後のは、あんたも覚えた方がいいね」
レオン「……気をつける」
トトはエルを見た。
エルはスプーンを握ったまま、こちらを不安そうに見ている。
トトは少しだけ唇を噛んだ。
本当は行きたい。
自分が見つけた事件だから。
自分も助けたいから。
でも。
――今、エルを一人にしちゃ駄目だ。
そう思った。
トト「……分かった」
レオン「助かる」
トト「でも、絶対助けてよ」
レオン「ああ」
トト「約束だよ」
レオンはトトを見た。
それから、静かにうなずく。
レオン「約束する」
どんな時でも、子どもに空腹のまま眠らせないこと。
ひだまりを、外の誰かにも分けること。
古い約束が、今またレオンの胸の中で重く響いた。
レオンは外套を羽織り、扉へ向かう。
セシリアが書類と証拠品を手に続く。
バルドが大きな体でその後ろに立つ。
扉が開く。
夕暮れの冷たい風が、食堂に少しだけ入り込んだ。
トト「レオン兄ちゃん!」
レオンは振り返る。
トト「俺、エルにちゃんと教えとく!」
レオン「ああ。頼んだ」
扉が閉まる。
トトはしばらく、その扉を見つめていた。
それから、エルの隣に座る。
トト「えっと、まず一つ目」
エル「……なに?」
トト「マーサ先生に名前呼ばれたら、すぐ返事した方がいい」
マーサ「トト」
トト「はい!」
エルはそれを見て、ほんの少しだけ目を丸くした。
そして、ほんの少しだけ。
本当に少しだけ、口元を動かした。
それは笑顔と呼ぶには小さすぎるものだった。
でもトトには、ちゃんと分かった。
――大丈夫。ここなら、きっと大丈夫だ。
外では、レオンたちが南市場の倉庫街へ向かっている。
ひだまり孤児院の食堂には、温かいスープの匂いが残っていた。
小さな事件は、まだ終わっていない。
けれど、路地裏で震えていた一人の子どもは、今、温かい食卓の前にいた。




