第五十二話 才能に食われるな
翌朝。
仮ひだまりの食堂には、いつもと違う匂いが漂っていた。
スープの匂い。
焼いたパンの匂い。
そして。
ワイバーン肉の匂い。
昨日のバーベキューの名残である。
トト「朝から肉の匂いがする……!」
ガル「昨日あれだけ食べたのに、まだあるのか」
ユアン「ワイバーン、一体が大きいからね」
ミリ「にくすーぷ?」
マーサ「今日はワイバーン肉の野菜スープだよ」
ミリ「やった」
リリィ「猫の分は?」
フィリア「猫には少量だけです」
猫「……」
猫は昨日から少しだけ機嫌がいい。
たぶん、ワイバーン肉が気に入ったのだ。
庭の端では、アルトも普段より早く起きていた。
アルト「……」
ぐるる。
トト「アルト先輩も肉待ちしてる!」
レオン「食べすぎるな」
アルト「……」
ぐるる。
リュシア「反論しているように聞こえるわね」
セシリア「アルト先輩、追加肉希望」
レオン「記録するな」
マーサは大鍋を混ぜながら言った。
「昨日はみんなよく食べたねぇ。王様まで串を何本食べたんだか」
ガル「王様、すごい真剣な顔で肉食べてた」
ユアン「国のことを考えてる顔だった」
トト「肉の流通を考えてたんだよ!」
リリィ「王様、肉王」
猫「……」
レオン「言うな」
ミリ「にくおう」
レオン「広げるな」
朝食の席で、トトはスープを一口飲んで目を輝かせた。
「うまい!」
ミリ「にくすーぷ」
エル「昨日の焼き肉より優しい味」
マーサ「朝だからね。胃に優しくしてあるよ」
フィリア「とても良い判断です」
ガル「フィリア姉ちゃん、肉にも健康確認するんだな」
フィリア「します」
レオンはスープを静かに飲んでいた。
昨日、王城に来たワイバーンを一撃で落とし、ギルド全体を動かし、夜はバーベキューまでした。
それでも、朝はいつも通りだ。
ただし、今日の予定はいつも通りではない。
レオンは器を置いた。
「今日は午前に王城。午後はギルド。夕方は仮ひだまり」
トト「また忙しい!」
マーサ「休憩は?」
レオン「入れる」
フィリア「本当ですね?」
レオン「本当だ」
リュシア「嘘なら分かるわよ」
レオン「嘘ではない」
セシリア「午後一番に休憩時間を入れています」
レオン「入れられていた」
マーサ「よし」
トト「俺のアルト訓練は?」
レオン「夕方だ。条件を守るなら」
トト「守る!」
アルトが庭で低く鳴いた。
ぐるる。
トト「アルト先輩もやる気!」
リリィ「たぶん、肉もほしい」
猫「……」
王城訓練場。
ルカ王子は、昨日より早く来ていた。
目が輝いている。
いや、輝きすぎている。
レオンは訓練場に入った瞬間、それを見抜いた。
「ルカ殿下」
ルカ「はい!」
「今日は第1段階をやらない」
ルカ「えっ」
ルカの顔が分かりやすく落ちた。
アリシアは隣で苦笑する。
「ルカ、朝からずっと第1段階のことばかり考えていたのです」
グレン「昨日の夜も、寝る前まで手を見ていたそうです」
ルカ「だって、出たのです! ほんの少しですけど!」
レオン「だから今日はやらない」
ルカ「なぜですか!?」
レオン「出したい顔をしているからだ」
ルカは固まった。
「顔に出ていますか?」
アリシア「かなり」
グレン「非常に」
リュシア「全身から出ているわ」
フィリア「興奮状態です」
ルカ「そんなに……」
レオンは静かに言った。
「第1段階《纏気覚醒》は、力を出す訓練ではない。自分の中にあるものに気づく訓練だ」
ルカ「はい」
「今のお前は、出そうとしている」
ルカ「……はい」
「だから出ない。出ても崩れる」
ルカは悔しそうに拳を握った。
昨日、ほんの一瞬だけ出た金色の揺らぎ。
あれをもう一度見たい。
もう一度感じたい。
自分に才能があると言われた。
嬉しかった。
でも、それ以上に、レオンとの差を思い知った。
だから早く追いつきたい。
その気持ちが、体の前に出すぎていた。
レオン「一時間目。立つ」
ルカ「……はい」
声が少し沈んでいる。
レオン「不満か」
ルカ「……少し」
グレン「正直ですね」
レオン「それでいい。だが、やることは変えない」
ルカ「はい」
アリシアも姿勢を整えた。
今日の稽古は、いつもより静かに始まった。
立つ。
歩く。
下がる。
転ぶ。
握る。
いつもの基礎。
けれど、ルカはところどころで集中が切れた。
足元を感じるはずが、昨日の火種を探してしまう。
呼吸を見るはずが、肩に力が入る。
木剣を握るはずが、闘気を出そうとして手首が固まる。
レオン「止まれ」
ルカ「はい」
「今、何をした」
ルカは口を開きかけて、閉じた。
「……第1段階を出そうとしました」
「なぜ」
「早く、もう一度感じたかったからです」
レオン「それが才能に食われるということだ」
訓練場が静かになった。
ルカは息を呑む。
「才能に……食われる」
レオン「ああ」
レオンは木剣を一本、地面に置いた。
「才能がある者は、できた瞬間を忘れられない。もう一度やりたくなる。もっと早く、もっと強く、もっと上へ行きたくなる」
ルカは黙って聞いていた。
「だが、体がついてこない。心が追いつかない。目的を忘れる」
アリシアが静かに言った。
「帰ることを忘れる」
レオン「ああ」
ルカは拳を緩めた。
「僕は、忘れかけていましたか」
レオン「少しな」
その言葉は厳しかった。
だが、切り捨てる言い方ではなかった。
ルカは深く息を吸う。
そして、吐く。
「もう一度、立つところからお願いします」
レオン「ああ」
そこからのルカは、少し変わった。
第1段階を探さない。
火種を追いかけない。
ただ、足の裏を見る。
膝。
腰。
腹。
胸。
呼吸。
アリシアも横で同じように立つ。
彼女は昨日の白銀の気配を無理に追おうとはしなかった。
むしろ、ルカを見て学んでいた。
リュシアが小さく言う。
「ルカは伸びるわね」
グレン「そう思いますか」
「才能があるからじゃないわ。止められた時に、止まろうとしているから」
フィリア「それは大きいですね」
午前の最後。
レオンは短く言った。
「一度だけ、第1段階の感覚を確認する」
ルカの目が少し揺れた。
だが、今度は輝きすぎていない。
「はい」
アリシアも頷く。
二人は目を閉じた。
立つ。
呼吸。
足元。
心臓。
体の奥の火種。
燃やさない。
押し出さない。
見るだけ。
ルカの肩に、薄い金色の揺らぎが生まれた。
昨日より小さい。
だが、昨日より安定していた。
一瞬。
二瞬。
消える。
ルカは目を開けなかった。
そのまま、呼吸を続けた。
レオン「いい」
その一言で、ルカはようやく目を開けた。
顔には喜びがある。
だが、昨日のようには跳ねない。
「昨日より、小さかったです」
レオン「だが、昨日より良い」
ルカ「本当ですか?」
「ああ。昨日は出ただけだ。今日は見ていた」
ルカはゆっくり頷いた。
「はい」
アリシアも、指先にごく薄い白銀の気配を灯した。
すぐに消えたが、彼女は焦らなかった。
「少しだけ、体の奥を見る感覚が分かりました」
レオン「それでいい」
午前の稽古が終わる頃、ルカは昨日より疲れていた。
肉体よりも、心が疲れていた。
けれど、目は落ち着いている。
レオンは言った。
「才能は道具だ」
ルカ「はい」
「才能を振り回すな。使え」
ルカ「はい」
「使う目的を忘れるな」
ルカ「帰るため、ですね」
レオン「ああ」
その頃。
仮ひだまりの庭では、ワイバーン肉の後始末が続いていた。
後始末と言っても、ただ片づけるだけではない。
保存食作りである。
マーサが大きな台を出し、肉を薄く切っている。
ガルとユアンは、干し網の準備。
エルは香草を選ぶ。
ミリはスープ用の野菜を洗っている。
リリィは猫を抱えながら、猫が肉に近づきすぎないようにしている。
猫「……」
リリィ「だめ。猫の分は後」
猫「……」
セシリアは棚の整理をしていた。
「ワイバーン干し肉、燻製、塩漬け。二か月の仮ひだまり生活における貴重な保存食になりますね」
マーサ「食べすぎなきゃね」
トトは庭でアルトの前に立っていた。
今日は午前中の騎乗訓練はない。
レオンがいないからだ。
けれど、アルトの世話は許可されている。
トト「アルト先輩、今日は肉の後始末です」
アルト「……」
ぐるる。
トト「食べたい?」
アルト「……」
ぐるる。
トト「分かる」
マーサ「トト、勝手にやらないよ」
トト「分かってる!」
ユアン「アルト用の分も決まってるからね」
ガル「ワイバーン肉って、アルト先輩からしたらどうなんだろうな」
エル「鳥っぽいけど、竜っぽい?」
ミリ「にく」
リリィ「猫から見ても肉」
猫「……」
トトはアルトの翼を見た。
「アルト先輩、昨日のワイバーンって強かった?」
アルトは少しだけ首を上げる。
ぐるる。
トト「まあまあ?」
リリィ「たぶん、弱くはない」
ガル「レオン兄ちゃんが一撃だっただけだろ」
ユアン「それはそう」
エル「一撃……」
エルは少しだけ空を見る。
昨日の夕方、遠くの空に黒い影が見えた。
怖かった。
でも、仮ひだまりではマーサがいた。
セシリアがいた。
アルトがいた。
みんながいた。
だから呼吸できた。
エル「王城は、もっと怖かったよね」
トト「ルカ王子、大丈夫かな」
セシリア「避難誘導を手伝ったと聞いています。立派です」
ガル「王子なのに逃げなかったんだな」
ユアン「逃げないんじゃなくて、正しい場所に下がったんだと思う」
マーサ「いい言い方だね」
トト「正しい場所に下がる……」
トトはアルトを見る。
「俺も、アルト先輩に乗って怖くなったら、正しい場所に下がる」
アルトがトトの頭を軽くつついた。
ぽふ。
トト「今のは合格?」
リリィ「たぶん、言うだけじゃだめ」
トト「厳しい!」
昼。
仮ひだまりでは、ワイバーン肉のサンドと野菜スープが出た。
子どもたちはよく食べた。
猫も少しだけ食べた。
アルトも、専用の大きな焼き肉を食べた。
そして午後。
レオンは王城稽古をグレンに引き継ぎ、ギルドへ向かった。
ワイバーン討伐の後処理が残っていたからだ。
王都冒険者ギルドは、昨日からずっと慌ただしかった。
素材の仕分け。
報酬計算。
負傷者確認。
討伐証明。
肉の分配。
ワイバーンの皮や爪をどう扱うか。
受付嬢の顔は笑っているが、目が笑っていない。
受付嬢「ギルドマスター」
レオン「……ああ」
受付嬢「書類です」
机の上に、どさりと紙が置かれた。
レオン「多いな」
受付嬢「ワイバーンの群れですから」
古株の冒険者が酒場の方から笑う。
「ギルマス、昨日一撃で落とした分の報告もあるぞ」
若い冒険者「見たかったなぁ……」
別の冒険者「見たら見たで、自信なくすぞ」
レオン「自信をなくす必要はない」
古株「お、また説教か?」
レオン「違う」
受付嬢「では、報告書を」
レオン「……ああ」
書類仕事が始まった。
だが、今日は少し違った。
レオンは一人で抱え込まなかった。
素材の確認は専門の冒険者へ。
肉の分配は受付と料理人へ。
負傷者の確認はフィリアの診療所へ報告。
報酬計算は職員へ任せる。
自分は最終確認だけを行う。
受付嬢が少し驚いた顔をした。
「ギルドマスター、今日は早いですね」
レオン「全部は抱えない」
古株がにやりと笑った。
「孤児院で覚えたな」
レオン「……否定はしない」
若い冒険者たちが笑った。
その笑いは、昨日の怖さを少し薄めていた。
夕方。
王城訓練場では、グレンがルカとアリシアを見ていた。
レオンはいない。
だから、第1段階はやらない。
基礎と実戦形式の復習だけだ。
ルカは途中で一度、闘気を出そうとした。
だが、自分で止めた。
グレンはそれを見逃さなかった。
「今、止めましたね」
ルカ「はい」
「なぜです」
「出したかったからです。だから、出さない方がいいと思いました」
グレンは静かに頷いた。
「良い判断です」
アリシアも微笑んだ。
「ルカ、今日は落ち着いているわ」
ルカ「姉上、僕は才能に食われないようにします」
アリシア「それ、少し怖い言い方ね」
ルカ「でも、レオン殿が言うと本当にそう感じます」
グレン「才能は、扱い方を間違えると身を滅ぼします。殿下が今日それを知ったのは大きい」
ルカ「はい」
アリシア「私も、魔力に頼りすぎないようにします」
グレン「よいことです」
その日の夕方。
レオンが仮ひだまりへ戻ると、庭ではアルト騎乗訓練の準備が整っていた。
トトはもう靴ひもを三回確認している。
フィリアが補助紐を持っている。
リュシアが空の魔力を見ている。
マーサが腕を組んでいる。
セシリアは予定表を閉じた。
レオン「待っていたのか」
トト「待ってた!」
アルト「……」
ぐるる。
レオンはアルトを見る。
「やるか」
アルトが体を伏せた。
許可。
トトは深く頭を下げる。
「よろしくお願いします」
今日の騎乗訓練は、昨日より少し長かった。
庭を一周。
地上歩行。
一度だけ、膝の高さまで浮く。
そこで止まる。
トトは途中で言った。
「ちょっと怖い!」
レオン「なら、呼吸」
トト「はい!」
吸う。
吐く。
「続けられるか」
「続ける!」
アルトがゆっくり歩く。
トトはしがみつかない。
怖いと言いながらも、ちゃんと見る。
前。
横。
地面。
レオン。
マーサ。
みんな。
そして、アルトの首元。
トト「アルト先輩、ありがとう」
アルトが低く鳴いた。
ぐるる。
騎乗訓練が終わると、トトは地面に降りて、少しだけふらついた。
だが、倒れない。
レオンが支えようとしたが、その前にトトは自分で踏ん張った。
「立てた!」
レオン「いい」
ガル「おお」
ユアン「昨日より安定してる」
エル「怖いって言いながら続けられたね」
ミリ「空」
リリィ「猫はやらない」
猫「……」
夕飯。
食堂には、ワイバーン肉の燻製入りスープが並んだ。
昨日より落ち着いた味。
でも、しっかり肉の旨味がある。
トト「今日も肉!」
ガル「しばらく肉続きだな」
ユアン「保存食もあるしね」
ミリ「にくすーぷ続く」
リリィ「猫も続く?」
フィリア「猫は毎日はだめです」
猫「……」
レオンはスープを飲みながら、王城でのルカの様子を話した。
「ルカ殿下は、第1段階を出そうとして失敗しかけた」
トト「失敗したの?」
「自分で止まった」
ユアン「それはすごいですね」
エル「出したいのに止まるの、難しそう」
ガル「俺なら出したくなる」
トト「俺も!」
マーサ「だから練習するんだよ」
リュシア「才能があるほど、止まる力がいるの」
ミリ「とまる」
リリィ「猫は止まらない」
猫「……」
セシリアが少しだけ微笑む。
「猫は気まぐれですから」
レオンは壁の約束を見る。
二十、遊びでも、呼ばれたら返事をする。
その上には、十八番目。
力は帰る道を作るために使う。
ルカにも必要な言葉だった。
トトにも。
エルにも。
自分にも。
レオン「才能も、力だ」
トト「じゃあ、帰る道を作るために使う?」
レオン「ああ」
ユアン「二十一番目にする?」
レオン「また増えるのか」
マーサ「増えてもいいんじゃないかい。今日の話には合ってる」
エル「才能に食われない、かな」
ガル「怖いな、その言い方」
ミリ「たべられる」
リリィ「猫に?」
猫「……」
トトは少し考えた。
そして、紙を持ってきた。
「こう?」
少し曲がった字で書く。
二十一、できることが増えても、調子に乗らない。
全員がそれを見た。
マーサが頷く。
「分かりやすいね」
ユアン「トトにも必要」
ガル「ルカ王子にも必要」
エル「私にも、必要かも」
リュシア「魔力にも通じるわね」
フィリア「健康にも通じます」
セシリア「生活にも通じます」
レオンは少しだけ黙って、それから頷いた。
「採用だ」
トト「やった!」
ミリ「二十一」
リリィ「いっぱい」
猫「……」
外では、アルトが満足そうに丸くなっている。
ワイバーン肉を食べ、トトを乗せ、今日の役目を終えた顔だった。
空には、星がまた少し戻っていた。
黒い膜はまだ完全には消えていない。
だが、風は通る。
星も見える。
そして、仮ひだまりの壁には新しい約束が増えた。
二十一、できることが増えても、調子に乗らない。
ルカ王子は、第1段階の火種を見つけた。
アリシア王女は、自分の体の奥にある力を知った。
トトは、アルトの背で怖いと言いながら続けた。
ギルドは、ワイバーンの後始末をみんなで分けた。
レオンも、一人で抱え込まなかった。
できることが増える。
それは嬉しい。
でも、そこで足元を忘れてはいけない。
靴ひもを結ぶ。
呼吸をする。
止まる。
見る。
帰る。
その積み重ねが、力を本当の力にする。
マーサが空になった器を見て言った。
「おかわりいるかい?」
トト「いる!」
ミリ「いる」
ガル「俺も」
ユアン「少しだけ」
エル「私も」
リリィ「猫は?」
フィリア「猫は終わりです」
猫「……」
レオンは小さく息を吐いた。
今日も、仮ひだまりは賑やかだった。
そして、その賑やかさこそが。
力に食われないための、一番大事な足場なのかもしれなかった。




