第五十一話 天才と避難訓練
朝。
王城訓練場には、いつもより少し張りつめた空気があった。
ルカ王子とアリシア王女は、すでに稽古着姿で立っている。
靴ひも確認済み。
呼吸確認済み。
姿勢確認済み。
そして今日は、いつもの木剣だけでなく、訓練場の中央に小さな石板が置かれていた。
石板には、薄く魔法陣が刻まれている。
リュシアが用意した、闘気の流れを見るための補助具だった。
ルカ「今日は何をするのですか?」
レオン「第1段階を教える」
ルカの目が一気に輝いた。
「第1段階!」
アリシアも少し緊張した顔になる。
「戦士のオーラ、ですね」
グレンが訓練場の端で腕を組む。
「もう教えるのですか?」
レオン「触りだけだ」
リュシア「無理に発動させるのではなく、感覚を知る程度ね」
フィリア「体調確認は私がします。少しでも異常があれば中止です」
ルカ「はい!」
レオン「声を張るな。闘気は気合だけで出すものじゃない」
ルカ「はい」
アリシア「第1段階の名前は……」
レオン「纏気覚醒」
訓練場が少し静かになる。
レオンは右手を軽く握った。
すると、その拳の周りに、薄い灰色の気配がまとわりついた。
炎ではない。
魔法でもない。
けれど、確かにそこにある力。
身体の内側からにじみ出て、皮膚の上に薄く纏われる。
ルカ「おお……!」
アリシア「これが……」
レオン「第1段階は、強くなる段階じゃない」
ルカ「え?」
レオン「自分の中にある力に気づく段階だ」
レオンは拳を開いた。
灰色の気配がすっと消える。
「無理に出すな。力を押し出そうとするな。まず、自分の呼吸、体温、足の裏、心臓の音を知れ」
ルカ「心臓の音……」
アリシア「魔力感知と似ていますね」
リュシア「似ているけれど、少し違うわ。魔力は流れを見る。闘気は体そのものを聞く感じね」
レオン「まず立て」
二人は立った。
この数日の稽古で、立つ姿はかなり良くなっている。
最初の頃のルカは、気持ちだけが前に出ていた。
今は、少しだけ足が地面を覚え始めている。
アリシアは肩に魔力が集まりやすかったが、今日は呼吸で落とせている。
レオンは二人の前を歩きながら言った。
「目を閉じろ」
二人は目を閉じた。
「足の裏を感じろ」
沈黙。
「膝」
沈黙。
「腰」
沈黙。
「腹」
沈黙。
「胸」
ルカの呼吸が少し早くなる。
レオン「急ぐな」
ルカ「はい」
「返事も小さくていい」
「……はい」
アリシアの周りに、わずかに淡い魔力が揺れた。
リュシアが静かに補助する。
「アリシア、魔力を混ぜすぎないで。今日は魔法じゃないわ」
アリシア「はい」
レオン「自分の体の奥に、小さな火種があると思え」
ルカ「火種……」
「それを燃やすな。見るだけだ」
長い沈黙。
訓練場に、風の音だけが流れた。
やがて、ルカの肩の周りに、ごく薄い金色の揺らぎが生まれた。
ほんの一瞬。
すぐに消えた。
だが、確かに出た。
グレンが目を見開く。
「今のは……」
リュシア「出たわね」
フィリア「体調に異常はありません」
ルカは目を開けた。
「今、何か……!」
レオン「見えた」
ルカ「本当ですか!?」
レオン「ああ」
ルカの顔がぱっと明るくなる。
「やった!」
レオン「喜ぶのは早い」
ルカ「はい!」
レオン「一般人の中では、かなり早い。才能はある」
ルカの表情が固まる。
「才能……」
グレン「殿下。これは相当なことです」
アリシアも嬉しそうに微笑んだ。
「すごいわ、ルカ」
ルカ「姉上……!」
だが、レオンは淡々と続けた。
「だが、まだ火花にも届いていない」
ルカ「え」
レオン「俺と比べれば、まだ遠い」
ルカ「……はい」
グレン「そこを比べるのは酷では?」
レオン「比べる相手を間違えるなと言っている」
ルカは少し黙った。
レオンは続けた。
「お前は天才だ。少なくとも、普通の人間の中ではかなり上だ」
ルカの目が揺れる。
「だが、天才だから強いわけじゃない。天才だから帰れるわけでもない」
ルカ「……はい」
「才能は、道を早く見つけるだけだ。歩くのは自分だ」
アリシアはその言葉を静かに聞いていた。
ルカは拳を握りしめた。
「歩きます」
レオン「ああ」
次はアリシアだった。
アリシアは目を閉じ、呼吸を整える。
ルカほど早く気配は出ない。
魔力の扱いに慣れている分、逆に闘気の感覚から離れてしまう。
アリシア「……難しいです」
レオン「それでいい」
アリシア「ルカのようには出ません」
レオン「同じである必要はない」
リュシア「あなたは魔力の感覚が強いから、そちらに引っ張られているの。悪いことではないわ」
アリシア「はい」
レオン「第1段階は、無理に纏うものじゃない。気づくものだ」
アリシアはもう一度、目を閉じた。
長く呼吸する。
足元。
膝。
腰。
腹。
胸。
そして、心臓。
一瞬だけ。
アリシアの指先に、淡い白銀のような気配が灯った。
すぐに消えた。
だが、レオンは頷いた。
「出た」
アリシア「本当ですか?」
「ああ」
アリシアは、ほっと息を吐いた。
ルカ「姉上もすごいです!」
アリシア「ありがとう。けれど、まだ全然分からないわ」
レオン「分からないと分かったなら十分だ」
グレンが感心したように言う。
「二人とも、初日で反応が出るとは」
レオン「だからこそ、止める」
ルカ「えっ、もう終わりですか!?」
レオン「ああ」
ルカ「もっとやりたいです!」
レオン「だから終わる」
ルカは口を閉じた。
この数日で、レオンの“だから”には逆らっても勝てないと学んでいる。
フィリアもすぐ頷いた。
「初回は短くて正解です。闘気は体力と精神に負荷がかかります」
リュシア「魔力と違って、体の芯に触れるものね。焦ると危ないわ」
レオン「午後は通常訓練に戻す」
ルカ「はい……!」
アリシア「分かりました」
レオンはルカを見た。
「才能がある者ほど、止まる練習をしろ」
ルカ「止まる練習……」
「お前は伸びる。だから危ない」
ルカの目が真剣になる。
「分かりました」
レオン「本当に分かるのは、何度も失敗してからだ」
ルカ「……はい」
レオン「だから、失敗できる場所で失敗しろ」
グレンはその言葉を聞いて、少しだけ表情を緩めた。
厳しい。
だが、王子を壊さない教え方だった。
午後。
稽古はいつもの基礎に戻った。
立つ。
歩く。
下がる。
転ぶ。
木剣を握る。
ルカは何度も自分の手を見ていた。
今朝感じた、あの小さな火種。
それをまた出したくて仕方がない。
だが、レオンに言われた通り、出そうとはしなかった。
アリシアも、自分の指先を時々見る。
白銀のような気配。
魔法とは違う、自分の体の奥の力。
それは怖くもあり、少し嬉しくもあった。
その日の夕方。
訓練が終わろうとした時だった。
王城の鐘が鳴った。
ごん。
ごん。
ごん。
祭りの鐘ではない。
警戒の鐘。
グレンの顔が一瞬で変わる。
騎士が訓練場へ駆け込んできた。
「報告! 王都北西上空にワイバーンの群れを確認!」
ルカ「ワイバーン!?」
アリシア「群れ……」
騎士「数、少なくとも十数体! 一部が王都周辺へ散開しています!」
グレン「騎士団を出す。市街地への侵入を防げ!」
レオンはすでに動いていた。
「ギルドへ伝達を」
グレン「はい!」
レオン「王都冒険者ギルド全体に緊急討伐依頼。飛行魔物対応可能な者を優先。市街地に近い個体は騎士団と連携」
騎士「はっ!」
ルカは空を見上げた。
遠くに、黒い点が見える。
鳥ではない。
翼の形が違う。
長い尾。
鋭い爪。
ワイバーン。
竜ほどではないが、十分に危険な飛行魔物。
アリシアは息を呑んだ。
「王都に近づいている……」
リュシアが水晶を掲げる。
「黒玻璃の反応は薄い。操られているというより、空の膜が弱って縄張りがずれた可能性があるわ」
フィリア「市民の避難を優先してください」
グレン「殿下方は安全な場所へ」
ルカ「でも――」
レオン「ルカ殿下」
ルカが止まる。
レオンの声は低かった。
「今朝、何を学んだ」
ルカ「……帰るために見ることです」
「なら、今やることは」
ルカは拳を握った。
悔しそうに。
だが、目は逸らさない。
「避難します。邪魔にならない場所で、できることをします」
レオン「いい」
アリシア「私は避難誘導の補助を。魔法通信で安全区域の案内ならできます」
リュシア「私がつくわ」
グレン「お願いします」
その時、空から鋭い鳴き声が響いた。
ぎゃああああっ!
一体のワイバーンが、群れから外れて王城の上空へ滑り込んでくる。
騎士たちが弓を構える。
だが、距離が近い。
王城の尖塔をかすめ、ワイバーンが訓練場へ向かって急降下する。
ルカ「来る!」
グレン「殿下、下がって!」
アリシア「ルカ!」
ワイバーンの影が、訓練場を覆った。
鋭い爪。
牙。
風圧。
訓練場の砂が舞う。
だが。
レオンが一歩前に出た。
腰の剣に手をかける。
ルカには、その動きが見えなかった。
アリシアにも、ほとんど見えなかった。
ただ、灰色の線が一瞬だけ走ったように見えた。
次の瞬間。
ワイバーンの巨体が、空中で止まった。
そして、翼の付け根から力が抜け、訓練場の端へ叩き落とされた。
地面が揺れる。
騎士たちが息を呑む。
ルカ「……一撃」
グレン「相変わらず、無茶苦茶だ」
レオンは剣を収めた。
「急所は外していない。暴れない」
リュシアが確認する。
「完全に沈黙しているわ」
フィリア「怪我人は?」
騎士「ありません!」
ルカは震える手を握った。
恐怖ではない。
いや、恐怖もある。
だが、それ以上に、目の前の差を感じていた。
今朝、自分は第1段階の火花を出して喜んだ。
一般人の中では天才と言われた。
けれど、レオンは。
同じ空の下で、ワイバーンを一撃で落とした。
まだ遠い。
あまりにも遠い。
ルカは唇を噛み、そして深く頭を下げた。
「レオン殿」
レオン「なんだ」
「僕は、まだまだですね」
レオンは少しだけルカを見る。
「ああ」
グレン「少しは慰めてもよいのでは」
レオン「慰める必要はない」
ルカは顔を上げた。
悔しそうだが、折れていない。
レオン「遠いと分かったなら、歩ける」
ルカ「はい!」
レオン「今日は避難誘導だ。剣を抜くな」
ルカ「はい!」
その後、王都は一気に動いた。
ギルド全体に緊急討伐依頼が出される。
冒険者たちが次々と集まる。
弓使い。
魔法使い。
飛行魔物に慣れた狩人。
高所からの誘導に長けた斥候。
騎士団は市街地の上空を警戒し、ギルドは外縁部へ散った個体を追う。
グレンは王城防衛を指揮。
リュシアは空の魔力を読み、危険な進路を伝える。
アリシアは魔法通信で避難誘導を補佐する。
ルカは走らない。
声を張りすぎない。
けれど、伝えるべきことははっきり伝える。
「こちらは安全です! 騎士の指示に従ってください!」
「門の近くで止まらないでください!」
「子どもを先に!」
実戦形式の訓練とは違う。
これは本物だ。
だが、訓練したことは使えた。
見る。
下がる。
声を出す。
守るものを見すぎず、周りを見る。
夕方が深くなる頃には、王都周辺のワイバーンはほとんど討伐された。
ギルドの冒険者たちは疲れ切っていたが、被害は最小限だった。
そして、王都冒険者ギルドには、ひときわ大きな歓声が響いた。
理由は単純だった。
ワイバーンの肉である。
受付嬢「討伐個体の処理を進めます! 毒腺、爪、皮、翼膜は素材へ! 肉は食用部位を選別!」
若い冒険者「ワイバーン肉って食えるんですか!?」
古株「食えるどころか、うまいぞ」
別の冒険者「焼くと最高だ」
さらに別の冒険者「脂が強いから香草だな」
受付嬢「ギルドマスターから通達です。安全確認」
その夜。
仮ひだまりの庭では、急きょバーベキューの準備が始まった。
ワイバーン肉。
厚切り。
串焼き。
香草漬け。
塩焼き。
薄切りにして野菜と一緒に焼くもの。
マーサが腕まくりをしている。
「肉はよく焼くんだよ!」
トト「ワイバーン肉!?」
ガル「でかい!」
ユアン「本当に食べられるんだ……」
エル「少し怖いけど、おいしそう」
ミリ「にくすーぷ?」
マーサ「今日は焼き肉だよ」
リリィ「猫は?」
猫「……」
フィリア「猫には味付けなしの小さな肉を、少量だけです」
リリィ「猫、王族」
猫「……」
アルトは庭の端で、すでに肉の匂いに反応していた。
ぐるる。
トト「アルト先輩も食べる!?」
レオン「ああ。ただし、生ではなく、専用に焼いたものだ」
リュシア「豪華ね」
セシリア「仮ひだまり、緊急バーベキュー会場化」
レオン「記録するのか」
セシリア「これはします」
やがて、王城から馬車が到着した。
国王エルドラン。
アリシア。
ルカ。
グレン。
護衛騎士たち。
国王は庭に入るなり、肉の匂いに目を輝かせた。
「これは……!」
マーサ「陛下、今日は格式なんて置いていきな。焼けた順に食べるよ」
国王「望むところだ」
グレン「陛下」
国王「今日は王としても父としても、肉を食う」
アリシアは少し困ったように笑った。
ルカは完全に楽しそうだった。
「トト! アルト殿に乗ったと聞きました!」
トト「乗った! ちょっと浮いた!」
ルカ「すごい!」
トト「ルカ王子、第1段階出たんでしょ!?」
ルカ「ほんの少しだけです!」
トト「すごい!」
二人は同時に目を輝かせた。
ガル「王城トトと孤児院トトが並んだ」
ユアン「勢いがすごい」
エルはアリシアに近づいた。
「アリシア王女様、避難誘導、大丈夫でしたか?」
アリシア「怖かったけれど、訓練が役に立ちました」
エル「よかった」
アリシア「エルさんは?」
エル「私は、仮ひだまりで待ってました。少し怖かったけど、呼吸しました」
アリシア「一緒ですね」
二人は少しだけ笑った。
肉が焼ける。
じゅう、と音がする。
脂が落ちて、火がはぜる。
香草の匂いが広がる。
マーサが一番最初の串を手に取った。
そして、レオンに渡す。
「まず、あんたが食べな」
レオン「子どもが先でいい」
マーサ「あんたが倒した肉だろう。毒見も兼ねて食べな」
レオン「……分かりました」
レオンは串を受け取り、一口食べた。
全員が見ている。
トト「どう!?」
ミリ「おいしい?」
レオンは少しだけ黙った。
そして言った。
「うまい」
庭に歓声が上がった。
トト「やったー!」
ガル「食うぞ!」
ユアン「熱いから気をつけて」
ミリ「にく」
リリィ「猫の分」
猫「……」
国王も串を受け取る。
一口。
目を閉じる。
「……うまい」
ルカ「父上、顔が真剣です」
国王「王として、この肉の流通を真剣に考えねばならぬ」
グレン「陛下、それは後日で」
マーサ「焼きたてを食べな。冷めるよ」
国王「はい」
グレンが一瞬、目を丸くした。
国王がマーサに素直に返事をしたからだ。
ルカはワイバーン肉を食べて、目を輝かせた。
「おいしい!」
トト「ワイバーン、強いけどおいしい!」
ユアン「倒した後の扱いが雑すぎる」
ガル「でもうまい」
エル「少し硬いけど、噛むと味が出る」
ミリ「にくすーぷもほしい」
マーサ「明日はワイバーン肉のスープにしようかね」
ミリ「やった」
アルトにも、大きめに焼かれた肉が渡された。
アルトはそれを器用に食べた。
ぐるる。
トト「アルト先輩もおいしいって!」
リリィ「猫は?」
猫は、小さく切られた味なし肉を少しだけ食べた。
そして、静かに目を細めた。
リリィ「猫もおいしい」
フィリア「食べすぎはだめですよ」
猫「……」
バーベキューの途中。
ルカは少し離れた場所で、レオンの隣に立った。
「レオン殿」
レオン「なんだ」
「今日、自分が天才だと言われて嬉しかったです」
レオン「そうか」
「でも、そのあとワイバーンを一撃で倒すレオン殿を見て、まだ全然だと分かりました」
レオン「そうか」
ルカは串を握りしめる。
「悔しいです」
レオン「ああ」
「でも、諦めたくないです」
レオンはルカを見る。
王子の目は、昨日より少しだけ変わっていた。
自分の才能に浮かれるだけではない。
届かない距離を知って、それでも歩こうとする目だった。
レオン「なら、明日も立て」
ルカ「はい!」
レオン「第1段階はしばらく触る程度だ。焦るな」
ルカ「はい!」
「才能に食われるな」
ルカ「……はい」
レオンは、焼けた肉を一本ルカに渡した。
「食え。強くなるには食うことも必要だ」
ルカは受け取って、大きく頷いた。
「はい!」
その様子を見ていた国王は、少しだけ目を細めた。
アリシアはエルと話している。
ルカはレオンの隣で肉を食べている。
グレンは騎士たちと情報を整理しながら、ちゃっかり串を持っている。
マーサは全員に肉を配っている。
トトたちは騒いでいる。
仮ひだまりは、完全に宴会場だった。
その空を、ワイバーンの群れが通った日。
危険は確かにあった。
けれど、王都は動いた。
王城も。
ギルドも。
仮ひだまりも。
それぞれができることをして、誰かを帰した。
そして最後には、肉を焼いて食べた。
マーサが最後の串をレオンに渡す。
「食べな」
レオン「もう食べました」
「動いた分、食べな」
「……はい」
トトが肉をかじりながら笑う。
「レオン兄ちゃん、ワイバーン一撃で倒して、肉も食べる。最強だね!」
レオン「肉は関係ない」
ミリ「にく最強」
リリィ「猫も認めた」
猫「……」
アルトが庭の端で低く鳴いた。
ぐるる。
それは、まるで満足した獣の声だった。
仮ひだまりの夜は、香ばしい匂いと笑い声に包まれていた。
帰る場所は、今日も少しだけ強くなった。




