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第四十八話 帰るために


朝。


王城訓練場には、まだ涼しい風が残っていた。


空は、少しずつ青さを取り戻している。


黒い膜は完全には消えていない。


だが、以前のように空を押しつぶすほどではなかった。


訓練場の中央に、アリシアとルカが立っている。


二人とも稽古着姿。


靴ひもは確認済み。


姿勢も昨日より少し良い。


ただし、ルカの目はすでに輝きすぎていた。


レオン「ルカ殿下」


ルカ「はい!」


レオン「力を抜け」


ルカ「はい!」


レオン「声も少し落とせ」


ルカ「はい」


アリシアが小さく笑った。


「ルカ、朝から元気ね」


ルカ「姉上も楽しみではありませんか?」


アリシア「楽しみです。でも、少し怖くもあります」


レオン「それでいい」


ルカ「怖くてもいいのですか?」


レオン「ああ。怖くない者は、危険を見落とす」


グレンは訓練場の端で腕を組んでいた。


今日は補佐として立ち会う。


レオンが入れない日はグレンが稽古を担当する。


だが、今日はレオン本人が来ていた。


五時間稽古、二日目。


リュシアはアリシアの魔力の流れを見るため、少し離れた場所にいる。


フィリアは水と布、簡単な薬を用意していた。


レオン「一時間目。昨日の復習。立つ」


ルカ「はい!」


アリシア「はい」


レオンは二人の前を歩いた。


足の幅。


膝。


腰。


肩。


首。


視線。


呼吸。


一つずつ直していく。


レオンの手は大きい。


だが、肩を直す時も、腕の角度を見る時も、乱暴ではない。


必要な場所だけを、正確に直す。


ルカ「レオン殿」


レオン「なんだ」


ルカ「立つだけで、こんなに疲れるものなのですね」


レオン「本気で立っているからだ」


アリシア「普段、どれだけ力が偏っているか分かります」


リュシア「アリシアは肩に魔力が集まりやすいわね。ルカは足より先に気持ちが走ってる」


ルカ「気持ちが走る……」


グレン「実に正確です」


レオン「走るなら、足で走れ。気持ちだけ走るな」


ルカ「はい!」


レオン「声」


ルカ「はい」


二時間目。


歩く。


ただ前に進むだけではない。


静かに歩く。


急いで歩く。


人を守りながら歩く。


誰かの前に立つために歩く。


誰かを連れて下がるために歩く。


レオンは木剣を一本、訓練場の地面に置いた。


「これを子どもだと思え」


ルカ「木剣をですか?」


レオン「ああ」


レオンはアリシアに視線を向ける。


「アリシア殿下。これを守りながら、三歩下がれ」


アリシア「はい」


アリシアは木剣の前に立つ。


ゆっくり下がる。


だが、二歩目で視線が木剣に落ちた。


レオン「止まれ」


アリシア「はい」


レオン「守るものだけを見るな」


アリシア「……周りを見る」


レオン「ああ。守るものを見すぎると、敵を見る目を失う」


アリシアは小さく息を吸った。


もう一度。


今度は、木剣の位置を意識しながら、視線は前へ。


三歩。


下がる。


レオン「いい」


アリシアの表情が少し明るくなる。


「ありがとうございます」


ルカ「僕もやります!」


レオン「やれ」


ルカは勢いよく前に出た。


一歩目は良い。


二歩目で力が入りすぎる。


三歩目で木剣を蹴った。


ころん。


木剣が転がった。


ルカ「あっ」


グレン「殿下」


ルカ「すみません!」


レオン「今のが戦場なら、守る相手を蹴った」


ルカの顔が青くなる。


「……はい」


レオン「だが、ここは訓練だ。覚えろ」


ルカ「はい」


レオンは木剣を拾い、元の場所へ戻した。


「もう一度」


ルカは頷いた。


今度は、ゆっくり。


かなりゆっくり。


アリシアが少し心配そうに見ている。


だが、レオンは何も言わない。


ルカは三歩下がった。


木剣は動かない。


ルカ「……できました」


レオン「ああ」


ルカの顔が少しだけ緩む。


レオン「次は、少し速く」


ルカ「はい!」


三時間目。


走る。


ただし、王城の訓練場を全力で走り回るわけではない。


走り出す前に、見る。


走りながら、呼吸する。


止まる時に、転ばない。


曲がる時に、体を投げない。


後ろを確認する。


呼ばれたら止まる。


逃げる道を探す。


ルカは何度も足をもつれさせた。


アリシアは慎重すぎて速度が出ない。


レオンは二人に同じことを言った。


「速さだけでは帰れない」


ルカ「はい」


「慎重なだけでも帰れない」


アリシア「はい」


「必要なのは、状況を見ることだ」


グレンが少し頷いた。


王族としての教育でも、似たことは教える。


だが、レオンの言葉はもっと体に近い。


危険を知っている者の教え方だった。


四時間目。


受け身。


今日のルカは、昨日より少し上手く転んだ。


どすん、ではなく。


だんっ。


少しだけ音が軽くなった。


フィリア「昨日より衝撃が逃げています」


ルカ「本当ですか!」


レオン「油断するな」


ルカ「はい」


アリシアも、肩の力が少し抜けてきた。


最初は地面に倒れるのを怖がっていた。


だが、今は呼吸をしてから落ちる。


体を丸める。


腕を使う。


視線を切らない。


リュシア「良くなっているわ」


アリシア「怖いですが……少し分かってきました」


レオン「怖いまま続けろ」


アリシア「はい」


五時間目。


木剣。


ルカの顔が再び明るくなった。


だが、レオンは今日もまず握りを見る。


右手。


左手。


指のかかり方。


手首。


腕。


肩。


ルカ「今日は振りますか?」


レオン「少しだけだ」


ルカの顔が輝いた。


グレン「殿下、顔に出すぎです」


ルカ「すみません!」


レオン「十回だけ振る」


ルカ「十回……!」


レオン「ただし、一回ずつ止める」


アリシア「連続ではないのですね」


レオン「連続で振るのは、止められる者だけだ」


レオンは木剣を構えた。


何の飾りもない構え。


だが、そこに隙がない。


ルカは息を呑む。


アリシアも、見入っていた。


レオンはゆっくりと木剣を振り下ろした。


速くない。


むしろ、ゆっくりだ。


それなのに、空気が割れたような気がした。


木剣の先が、ぴたりと止まる。


揺れない。


ぶれない。


レオン「これを十回」


ルカ「……はい」


ルカが振る。


一回。


止まらない。


木剣の先が揺れる。


レオン「止めろ」


ルカ「はい」


二回。


今度は途中で肩に力が入った。


レオン「肩」


ルカ「はい」


三回。


足が浮いた。


レオン「足」


ルカ「はい」


アリシアはそれを見ながら、自分の番を待っている。


ルカが十回終える頃には、汗が額から落ちていた。


「剣を十回振るだけで、こんなに……」


レオン「雑に百回振るより、止める十回の方が効く」


次はアリシア。


アリシアの振りは、ルカより小さい。


だが、丁寧だった。


レオン「小さくまとまりすぎるな」


アリシア「はい」


レオン「剣を怖がるな。怖いのはいい。だが、剣に謝るな」


アリシア「剣に、謝る……?」


リュシア「少し分かるわ。遠慮しているのね」


アリシアは木剣を見る。


「人を傷つけるものだから」


レオン「ああ。だから、雑に扱うな」


アリシア「はい」


レオン「だが、必要な時に止まる剣は、誰かを帰す」


アリシアは、ゆっくり頷いた。


そして、もう一度振った。


今度は、少しだけ前へ出た。


レオン「いい」


五時間が終わった時、ルカは地面に座り込み、アリシアは膝に手をついて息を整えていた。


二人とも疲れている。


だが、昨日より目は明るかった。


ルカ「レオン殿……」


レオン「なんだ」


ルカ「剣って、難しいですね」


レオン「ああ」


ルカ「でも、もっと知りたいです」


レオン「なら、明日も靴ひもからだ」


ルカ「はい!」


アリシア「私も、明日もお願いします」


レオン「ああ」


グレンが歩み寄る。


「明日は私が午前の一部を見る。レオン殿はギルドの予定があるのだろう」


レオン「ああ。午前の後半から抜ける」


ルカ「途中からグレンですか?」


グレン「不満か?」


ルカ「いえ! でも、レオン殿とグレンでは教え方が違います」


アリシア「それも勉強になりそうです」


グレン「そう言われると、こちらも気が抜けないな」


レオン「同じ内容でいい。派手なことはするな」


グレン「分かっている」


ルカ「派手なことは……少しだけ?」


レオン「しない」


ルカ「はい」


その頃。


仮ひだまりの庭では、トトがアルトの前に立っていた。


今日は、騎乗訓練の日ではない。


少なくとも、朝の時点ではそう言われていた。


だが、トトは落ち着いていた。


昨日のように、すぐ乗りたいと騒がない。


手には大きめの柔らかい刷毛。


アルトの羽を手入れするための道具だ。


マーサが近くで見ている。


セシリアは今日は記録板を持っていない。


フィリアはいないが、彼女が作った注意書きが壁に貼られている。


『羽を強く引っ張らない。後ろ足の近くに立たない。アルトが嫌がったらすぐ離れる』


トト「アルト先輩、右の翼、失礼します」


アルト「……」


アルトは静かに翼を少しだけ広げた。


トトは驚いた顔をする。


「本当にいいの?」


アルトが低く鳴く。


ぐるる。


トトは真剣な顔になった。


「ありがとうございます」


ガルが庭の端から見ている。


「なんか、トトが丁寧だ」


ユアン「いいことだね」


ミリ「ていねい」


リリィ「猫にもして」


猫「……」


猫はリリィの腕の中で、すでに満足そうにしている。


トトは刷毛をそっと動かす。


羽の流れに沿って。


ゆっくり。


強くしない。


アルトの呼吸を見ながら。


何度か手が止まる。


そのたびに、アルトを見る。


トト「痛くない?」


アルト「……」


アルトは動かない。


マーサが少しだけ微笑んだ。


「いい手つきだね」


トト「ほんと?」


マーサ「ああ。ちゃんと相手を見てる」


トトは少し照れた。


「アルト先輩、大きいから……ちゃんと聞かないと怖いし」


セシリアが静かに言った。


「それが大事です」


トト「記録しないの?」


セシリア「今日は覚えておくだけにします」


トト「それ、ちょっと嬉しい」


ガル「記録されない成長」


ユアン「それもいいね」


昼前。


アルトの羽の手入れが終わった。


トトは道具を片づけ、手を洗い、アルトの前に戻って頭を下げた。


「ありがとうございました」


アルトは少しだけ顔を近づけた。


そして、トトの肩を軽くつついた。


トト「今のは……褒めた?」


セシリア「おそらく」


トト「やった!」


その瞬間、アルトはゆっくりと伏せた。


トトの顔が固まる。


「え?」


マーサも少し目を見開いた。


アルトは伏せたまま、トトを見る。


ぐるる。


トト「……乗っていいってこと?」


アルトはもう一度、低く鳴いた。


セシリア「本人からの許可が出ていますね」


トト「でも、レオン兄ちゃんいない」


マーサ「そうだね」


トトはものすごく迷った顔をした。


乗りたい。


とても乗りたい。


だが、レオンはいない。


フィリアもいない。


リュシアもいない。


十七か条。


十八か条。


そして、自分が決めた約束。


トトは唇を噛んだ。


「……乗らない」


アルトの目が少し細くなった。


トトは両手をぎゅっと握る。


「レオン兄ちゃんがいる時にする。フィリア姉ちゃんも確認してから。勝手に乗らないって言ったから」


マーサは何も言わなかった。


ただ、トトを見ていた。


セシリアも。ガルも。ユアンも。エルも。


ミリも。リリィも。


アルトはしばらくトトを見つめていた。


そして。


大きな嘴で、トトの頭をとても優しくつついた。


ぽふ。


トト「……今のは?」


マーサ「褒めたんだよ」


トトの顔がくしゃっとなった。


嬉しそうで、少し悔しそうで、でも誇らしそうな顔だった。


「俺、乗らなかった!」


ガル「すげぇ」


ユアン「これは本当にすごい」


エル「トト、えらい」


ミリ「すごい」


リリィ「猫も認めた」


猫「……」


セシリアは記録板を持っていなかった。


けれど、小さく微笑んだ。


「これは、覚えておきます」


トト「うん!」


夕方。


レオンが王城から戻った時、トトは玄関で待っていた。


走ってはいない。


ただ、体が少し跳ねている。


レオン「どうした」


トト「今日、アルト先輩が乗っていいってしてくれた」


レオンの目が少し動く。


「乗ったのか」


トトは胸を張った。


「乗らなかった!」


レオンは黙った。


トト「レオン兄ちゃんいなかったし、フィリア姉ちゃんもいなかったし、勝手に乗らないって約束したから!」


マーサが後ろから言う。


「本当だよ。ちゃんと自分で止まった」


セシリア「私も見ていました」


ガル「俺も」


ユアン「僕も」


エル「トト、頑張った」


ミリ「のらなかった」


リリィ「猫も見た」


猫「……」


レオンはトトを見る。


トトは期待している。


褒められたい顔だ。


だが、それだけではない。


自分で守れたことを、ちゃんと認めてほしい顔だった。


レオンはゆっくり手を伸ばし、トトの頭に置いた。


「よく我慢したな」


トトの顔が、一気に明るくなった。


「やった……!」


レオン「次の騎乗訓練は、明日の夕方だ」


トト「本当!?」


レオン「ああ。フィリアとリュシアにも確認する」


トト「はい!」


マーサ「よかったね」


トト「うん!」


レオンはアルトを見る。


アルトは何も言わず、ただ目を閉じていた。


まるで、試したのだと言わんばかりに。


レオン「……お前も厳しいな」


アルト「……」


ぐるる。


その夜。


食堂では、トトが乗らなかった話で少しだけ盛り上がった。


トト「乗れると思ったら、すっごい乗りたかった」


ガル「だろうな」


ユアン「でも止まれた」


エル「すごいよ」


ミリ「がまん」


リリィ「猫なら乗らない」


猫「……」


リュシア「アルトも見ていたのね。トトが約束を守れるか」


フィリア「信頼の確認ですね」


トト「試験だったの!?」


レオン「たぶんな」


トト「アルト先輩、先生だった……」


マーサ「みんな先生だよ。アルトも、猫も、時々はね」


猫「……」


セシリア「猫先生」


レオン「それは違う」


食後。


レオンはギルドへ向かった。


本日二度目の仕事である。


王城稽古。


仮ひだまり確認。


そしてギルド。


レオンの一日は、明らかに詰まりすぎていた。


フィリアは出発前に念を押した。


「無理をしすぎないでください」


レオン「分かっている」


リュシア「その返事、信用が薄いのよね」


マーサ「帰ったら食べるんだよ」


レオン「ああ」


王都冒険者ギルド。


夜に近い時間でも、ギルドはまだ賑やかだった。


依頼を終えた冒険者。


これから夜の見回りに出る者。


酒場で食事を取る者。


掲示板を見る新人。


レオンが入ると、昨日ほどではないが、やはり少し空気が変わった。


受付嬢「ギルドマスター、お待ちしていました」


レオン「今日は何がある」


受付嬢「書類は減りました」


レオン「そうか」


「ですが、相談が増えました」


レオン「……そうか」


奥の卓には、若い冒険者たちが数人座っていた。


緊張した顔。


不安そうな顔。


少し怪我をした者もいる。


古株の冒険者がレオンに声をかけた。


「ギルマス、新人たちが迷宮帰りでな。ちょいと話を聞いてやってくれ」


レオン「何があった」


若い冒険者の一人が、ぎゅっと拳を握った。


「依頼は成功しました。でも、途中で判断を間違えて……仲間を危ない目に遭わせました」


レオンは席に座った。


「話せ」


若い冒険者たちは、ぽつりぽつりと話し始めた。


浅い迷宮。


簡単な採取依頼。


油断。


奥から聞こえた魔物の声。


一人が進もうと言った。


一人が戻ろうと言った。


迷った。


結局、少しだけ奥へ行った。


そこで魔物に追われた。


怪我は軽い。


だが、怖かった。


戻る判断が遅れた。


話し終えると、若い冒険者は俯いた。


「俺、冒険者向いてないんでしょうか」


レオンは少し黙った。


そして言った。


「戻れたんだろう」


若い冒険者が顔を上げる。


「え?」


レオン「怪我はした。判断も遅れた。だが戻った」


「はい……」


「なら、次に活かせる」


若い冒険者の目が少し揺れた。


レオンは続けた。


「冒険者は、勝った回数ではなく、帰った回数で強くなる」


ギルドのざわめきが少し小さくなる。


近くにいた冒険者たちも、自然と耳を傾けていた。


レオン「奥へ行きたい気持ちは分かる。成果を増やしたい気持ちも分かる。だが、戻る判断ができない冒険者は、長く続かない」


古株が静かに頷いた。


レオン「次から決めておけ。迷ったら戻る。怖いと思った者が一人でもいたら止まる。荷物が半分になったら戻る。誰かが怪我をしたら戻る」


若い冒険者「でも、それだと……臆病だって」


レオン「臆病でいい」


若い冒険者たちが目を見開く。


レオン「怖さを持って帰れ。怖さは、次の道を照らす」


それは、王城でアリシアとルカに言ったことにも似ていた。


仮ひだまりでエルに言ったことにも。


トトがアルトに乗らなかったことにも。


全部、同じだった。


帰るための力。


帰るための判断。


帰るための怖さ。


受付嬢が静かに茶を置いた。


「ギルドマスター、お茶です」


レオン「ああ」


若い冒険者は、少しだけ顔を上げた。


「次は、戻る判断を先に決めます」


レオン「ああ」


古株が笑った。


「よかったな。ギルマスの説教は短いが効くぞ」


別の冒険者が言う。


「孤児院で鍛えられてるからな」


レオン「孤児院は関係ない」


受付嬢「関係あります」


古株「絶対ある」


レオンは黙った。


否定しきれなかった。


ギルドの仕事を終え、レオンが仮ひだまりへ戻ったのは夜遅くになる前だった。


食堂には、まだ灯りがあった。


マーサが待っている。


セシリアが食器を拭いている。


フィリアが腕を組んでいる。


リュシアが椅子に座って茶を飲んでいる。


これは、待ち伏せである。


レオン「……ただいま」


マーサ「どこへ帰る?」


レオン「仮ひだまりへ帰る」


マーサ「よし。食べな」


レオン「食べてきた」


マーサ「少ないだろうから食べな」


レオン「……はい」


フィリア「顔色は悪くありませんが、疲労はあります」


リュシア「王城、ギルド、仮ひだまり。三つ回すのは無茶よ」


レオン「必要だ」


マーサ「必要でも、倒れたら意味がない」


セシリア「明日の予定、少し調整しました」


レオン「何を」


セシリアは淡々と言った。


「午前、王城稽古。後半はグレン副団長へ引き継ぎ。午後前半、休憩。午後後半、ギルド。夕方、仮ひだまり。夜は書類禁止」


レオン「夜は――」


マーサ「禁止」


レオン「……分かった」


リュシア「よくできました」


フィリア「健康的です」


レオン「俺の予定なのだが」


セシリア「だから調整しました」


マーサ「一人で抱えすぎるのは、もう古いよ」


レオンは反論しなかった。


できなかった。


食堂の壁には、十八番目の約束がある。


十八、力は帰る道を作るために使う。


そしてその下に、トトの落書き。


『アルトに乗る時も』


さらに、ガルが小さく書き足していた。


『迷宮でも』


ユアンの字もあった。


『怖い時は戻る』


エルの小さな文字もある。


『呼吸してから決める』


ミリの字。


『すーぷまで帰る』


リリィの字。


『猫も帰る』


猫の肉球印は、なぜか薄く押されていた。


マーサが見ていない隙に押したらしい。


レオンはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「増えているな」


マーサ「いいんじゃないかい」


レオン「ああ」


その夜。


レオンは久しぶりに、早めに自室へ戻った。


机の上には、まだ書類があった。


王城の稽古計画。


ギルドの新人相談。


孤児院工事の進行表。


仮ひだまりの生活予定。


だが、今日は手を伸ばさなかった。


扉の外で、トトの声が聞こえた。


「レオン兄ちゃん、夜は書類禁止だよ!」


レオン「分かっている」


ガル「ほんとか?」


ユアン「確認が必要」


エル「おやすみなさい」


ミリ「ねる」


リリィ「猫も寝る」


猫「……」


レオンは少しだけ笑った。


「おやすみ」


返事の後、足音が遠ざかっていく。


子どもたちがそれぞれの部屋へ戻っていく音。


仮ひだまりの夜の音。


レオンは窓の外を見た。


庭では、アルトが眠っている。


空には、星がまた少し増えていた。


明日も五時間稽古がある。


明後日もある。


工事は二か月続く。


ギルドの仕事も続く。


黒玻璃の影も、まだ消えていない。


それでも。


今日は、ルカとアリシアが立つことを覚えた。


トトが乗らない勇気を覚えた。


新人冒険者たちが戻る判断を覚えた。


セシリアが記録ではなく手を動かした。


レオン自身も、夜に書類へ手を伸ばさなかった。


小さなことばかりだ。


でも、小さな道が増えている。


帰るための道が。


レオンは静かに息を吐いた。


「師匠」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。


「少しは、教えられているだろうか」


答えはない。


けれど、夜風が窓を軽く揺らした。


まるで、古い誰かが笑ったように。


仮ひだまりの灯りは、ゆっくりと消えていった。


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