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第四十二話 姉御、森へ帰る


翌朝。


王城の会議室には、いつもより重い空気が流れていた。


黒玻璃幹部《黒糸》のメルザ。


その討伐と拘束は、王都にとって大きな勝利だった。


王都内に張られていた黒い根の一部は除去され、福祉倉庫や古い礼拝堂に仕掛けられていた中継核も封じられた。


操られていた人々も全員救助された。


ひだまり孤児院への直接的な侵入も防いだ。


だが。


それで終わりではない。


ラザルがいる。


白い仮面の男。


黒玻璃の使徒。


黒角の実験体を操り、エルを“器”と呼び、レオンの第7段階を観察し続けていた男。


その名が出るだけで、会議室の空気は冷たくなった。


国王エルドラン「まずは、黒糸のメルザ討伐、見事であった」


レオン「討伐ではなく拘束です」


グレン「黒玻璃紋は破壊済み。現在は王城地下の封印牢に収容しています」


リュシア「黒糸核も封印済みよ。解析すれば、王都内の残りの根をさらに追えるはず」


セシリア「メルザの供述はまだ得られていません。ですが、黒糸核の構造から見て、王都内部への浸透作戦はかなり前から進んでいた可能性があります」


フィリア「操られていた方々の容体は安定しています。ただ、精神的な影響は残るでしょう」


アリシア「人の善意を利用するなど、許せません」


ルカ「僕もそう思います!」


国王「ルカ、座って聞きなさい」


ルカ「はい!」


返事は良い。


だが、拳は膝の上で強く握られていた。


トトとよく似ている。


セシリアは一瞬記録しようとしたが、今は会議のため手を止めた。


ジーナ・バルガは、会議室の端で腕を組んでいた。


王城の椅子には座っていない。


座れと言われたが、本人が「じっと座ると眠くなる」と断った。


そのため、壁に背を預けて立っている。


国王「ジーナ殿。そなたの追跡がなければ、メルザの潜伏場所には辿り着けなかった。礼を言う」


ジーナ「礼はいらねぇよ。子どもに手ぇ出した奴を殴っただけだ」


グレン「殴った、というより、かなり戦術的な追跡と制圧だったがな」


ジーナ「難しく言うな。匂いを追って、殴れるところまで近づいただけだ」


リュシア「それが難しいのよ」


セシリア「記録上、非常に高い追跡能力です」


ジーナ「はっはっは! 褒めても飯くらいしか出ねぇぞ」


国王「それなら王城の厨房に用意させよう」


ジーナ「いや、お袋の飯があるからいい」


国王「マーサ殿か」


ジーナ「おう」


レオン「姉御、ここは王城だ」


ジーナ「知ってる」


レオン「陛下の前だ」


ジーナ「王様も飯食うだろ」


国王「食う」


グレン「陛下」


国王「事実だ」


アリシアが小さく笑い、ルカも少しだけ空気を緩めた。


だが、グレンが地図を広げると、会議室はすぐに真剣な空気へ戻った。


グレン「問題はラザルだ。メルザの黒糸核からは、西の廃塔、北西地下道、王都内の複数の中継点へ魔力線が伸びていた。だが、肝心のラザル本体へ続く線は途中で切られている」


リュシア「意図的に切っているわね。痕跡を残す場所と消す場所の判断がかなり上手い」


セシリア「ジーナさんの見立てでは、西の廃塔は囮」


ジーナ「ああ。匂いが濃すぎる。追ってくださいって言ってるような場所だ」


レオン「だが、ラザルは一度そこにいた」


ジーナ「いたな。けど、今はいねぇ」


グレン「では、現在地は?」


ジーナは会議室の地図を見た。


そして、西の廃塔ではなく、そのさらに奥。


王都の外。


古い森の方を指差した。


ジーナ「こっちだ」


セシリア「西方古森林帯……」


リュシア「昔の狩猟道がある場所ね。今はほとんど使われていない」


グレン「斥候も入りづらい区域だ」


ジーナ「入りづらいから、隠れるにはちょうどいい。獣もいる。地形も複雑。魔力の流れも歪む」


レオン「姉御なら追えるか」


ジーナ「追える」


即答だった。


その声には迷いがない。


国王「追跡隊を編成する。グレン、騎士団より――」


ジーナ「いらねぇ」


会議室が止まった。


グレン「またか」


ジーナ「ああ。まただ」


レオンがジーナを見る。


「姉御」


ジーナはレオンを見返した。


「今のラザルを大人数で追えば、逃げられる」


グレン「しかし、単独行動は危険だ」


ジーナ「危険なのは分かってる。だが、ラザルはもうこっちを見てる。レオン、お前を見てる。エルを見てる。ひだまりを見てる」


レオンの目が細くなる。


ジーナ「だから、今あいつが警戒してるのは、お前らだ」


リュシア「つまり、ジーナさん一人なら警戒の外から近づける?」


ジーナ「完全に外じゃねぇ。でも、薄い。あいつはあたしを“追加戦力”とは見てるが、“本命”とは見てない」


セシリア「メルザ戦でかなり目立っていましたが」


ジーナ「それでも、あいつの興味はレオンとエルだ。あたしはまだ脇役扱いだろうよ」


レオン「姉御を脇役扱いするなら、見る目がない」


ジーナ「だろ?」


ジーナは豪快に笑った。


だが、その笑いはすぐに消えた。


「だから、あたしは森に戻る」


ルカ「森に?」


ジーナ「ああ。元々、あたしの帰る場所は森だ。道を読み、獣を見て、風を聞く。王城よりそっちの方が性に合ってる」


アリシア「もう行かれるのですか?」


ジーナ「ああ。長居すると飯を食いすぎる」


国王「それは問題なのか?」


グレン「王城の厨房的には問題です」


ジーナ「それに、お袋の家にも長居しすぎると、あたしが甘える」


レオンが少しだけジーナを見る。


その言葉は、いつもの豪快な冗談に聞こえた。


だが、ほんの少しだけ本音が混じっていた。


マーサをお袋と呼ぶ女。


帰る場所を一度知ってしまった女。


だからこそ、長く留まれば、森へ戻る足が鈍る。


ジーナはそういう人間だった。


国王「ならば、正式な依頼として、森の追跡を頼みたい。報酬は王国より支払う」


ジーナ「報酬はいらねぇ」


国王「そうはいかぬ」


ジーナ「じゃあ、お袋の孤児院に回しとけ。飯代と服代と、あと子どもらの靴代だ」


会議室が少し静かになった。


フィリアが柔らかく目を細める。


セシリアはすぐに記録する。


セシリア「報酬をひだまり孤児院へ寄付。記録しました」


ジーナ「おう、頼む」


レオン「姉御」


ジーナ「何だ」


レオン「それは、俺からも礼を言う」


ジーナは少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。


「弟分に礼を言われると、むず痒いな」


リュシア「素敵なことをしている自覚はあるのね」


ジーナ「あるような、ないような」


グレン「王城としても、正式に手配しよう」


国王「うむ。ジーナ殿の報酬は、ひだまり孤児院への支援金として処理する」


ルカ「僕のお小遣いからも――」


国王「ルカ」


ルカ「少しだけ!」


アリシア「私も出します」


国王「アリシアまで」


グレン「陛下、親バカ顔になっています」


国王「なっておらぬ」


セシリア「なっています」


国王「少しだけだ」


会議室に、小さな笑いが広がった。


それは久しぶりに、戦いの緊張を少しだけ溶かす笑いだった。


だが、ジーナはもう地図から目を離していた。


森の方角を見ている。


まるで、壁の向こうにある風を嗅いでいるようだった。


会議が終わった後。


王城の中庭で、ジーナは荷物を背負った。


旅荷物は小さい。


マーサから持たされた包み飯。


それだけ。


トトが見れば、きっと「少なすぎない!?」と言っただろう。


だが、ジーナには十分だった。


レオン「本当に一人で行くのか」


ジーナ「森は一人の方が速い」


レオン「ラザルは危険だ」


ジーナ「知ってる」


レオン「逃げるのが上手い」


ジーナ「逃がさねぇ」


レオン「姉御」


ジーナはレオンの額を軽く指で弾いた。


ぺしん。


拳骨ではない。


だが、なかなか痛い音がした。


レオン「……」


ジーナ「心配すんな」


レオン「していない」


ジーナ「してる顔だ」


レオン「……」


ジーナは少し笑った。


「昔と逆だな」


レオン「何がだ」


ジーナ「昔は、あたしが森へ行くと、お前は無表情で後ろからついてきた」


レオン「そうだったか」


ジーナ「そうだった。道も分からねぇくせに、勝手に来るなって言っても来た」


レオン「……昔の話だ」


ジーナ「出たな、昔の話」


レオンは黙った。


ジーナは笑う。


そして、周囲を一度確認した。


リュシア、セシリア、フィリア、グレンたちは少し離れている。


会話は聞こえない。


ジーナはレオンの肩に手を置き、声を落とした。


「レオン」


レオン「なんだ」


「ラザルの匂いは掴んだ」


レオンの目が変わる。


ジーナ「森に帰るってのは嘘じゃねぇ。だが、ただ帰るわけじゃない」


レオン「姉御」


ジーナ「ラザルを倒しておく」


その言葉は、あまりに静かだった。


豪快な叫びでもない。


怒りに任せた宣言でもない。


ただ、今日の天気を言うような声。


けれど、そこには一切の迷いがなかった。


レオン「一人でか」


ジーナ「ああ」


レオン「俺も行く」


ジーナ「来るな」


即答だった。


レオンの眉がわずかに動く。


ジーナは続ける。


「あいつは、お前が来ると思って罠を張ってる。エルの魔力、トトの声、お袋の家。お前が反応するものを山ほど用意してるはずだ」


レオン「……」


ジーナ「あたしなら、その罠の外から入れる」


レオン「だが」


ジーナの拳が、ゆっくり上がった。


レオンは黙った。


ジーナ「だが、じゃねぇ」


レオン「……」


ジーナ「お前はひだまりに戻れ。子どもたちの前に立て。お袋の飯を食え。空が薄くなってるなら、アルトの調子も見ろ。エルに怖がるなって言うな。怖くても呼吸しろって言え」


レオン「……姉御」


ジーナ「それがお前の役目だ」


レオンは何も言えなかった。


ジーナは、いつものように笑った。


「二日だ」


レオン「二日?」


ジーナ「ああ。二日後、西の廃塔のさらに奥、古い狩猟道の終点に人をよこせ」


レオン「何のために」


ジーナ「ラザルの遺体を回収するためだ」


レオンの目が鋭くなる。


「本気か」


ジーナ「冗談で言うかよ」


レオン「……」


ジーナ「お前が来るなとは言わねぇ。だが、二日後だ。それまでは動くな」


レオン「なぜそこまで」


ジーナは少しだけ空を見た。


王城の上。


黒い膜は、昨日より薄い。


それでもまだ残っている。


「子どもに手ぇ出した奴は、あたしの獲物でもある」


レオン「俺の獲物でもある」


ジーナ「ああ。だから、今回は姉御に譲れ」


レオンは、長く黙った。


ジーナは待った。


急かさない。


殴らない。


ただ、レオンの答えを待った。


やがて、レオンは静かに言った。


「死ぬな」


ジーナは笑った。


「誰に言ってる」


レオン「姉御に」


ジーナ「なら、返事は決まってる」


ジーナは拳を軽く握った。


「死なねぇ。殴って帰る」


レオン「……帰るのか」


ジーナ「ああ。森にな」


少し間を置いて、ジーナは付け加えた。


「それと、ひだまりにも。そのうちな」


レオンは小さく息を吐いた。


「分かった」


ジーナ「よし」


そして、ジーナは王城の門へ向かった。


リュシア「もう行くの?」


ジーナ「おう。長居すると飯が増える」


セシリア「出発時刻、記録します」


フィリア「無理はなさらないでください」


ジーナ「善処する」


フィリア「それはレオン様と同じ言い方です」


ジーナ「しまった」


グレン「必要があれば、すぐ信号を」


ジーナ「必要ならな」


国王「ジーナ殿。王国はそなたに感謝する」


ジーナ「礼はお袋に言ってくれ」


ルカ「ジーナ殿! また来てください!」


ジーナ「おう、坊主! 次に会う時までに、走る前に呼ぶ練習しとけ!」


ルカ「はい!」


アリシア「どうか、ご無事で」


ジーナは親指を立てた。


「王女様もな。強い言葉は、強い足場になる。エルに言ってくれてありがとな」


アリシアは少し驚き、それから静かに微笑んだ。


「こちらこそ」


ジーナは最後にレオンを見た。


何も言わない。


ただ、にっと笑った。


そして、走り出した。


一歩目から速い。


王城の門を抜け、石畳を蹴り、王都の外へ向かう。


やがてその背は、人混みの向こうへ消えた。


リュシア「……何か言われた?」


レオン「森に帰ると言っていた」


リュシア「それだけ?」


レオン「それだけだ」


セシリア「マスター」


レオン「なんだ」


セシリア「隠し事の顔です」


レオン「……」


リュシア「また、聞かれなかったから言わなかった案件?」


レオン「まだ何も言っていない」


セシリア「つまり、何かありますね」


フィリア「要観察です」


レオン「なぜ分かる」


グレン「顔に出ている」


レオンは黙った。


遠く、ジーナが消えた方角を見る。


西の森。


ラザルの匂いがあるという場所。


ジーナはそこへ向かった。


一人で。


その日の夕方。


ひだまり孤児院では、ジーナが森へ戻ったことが伝えられた。


トト「ジーナの姉御、もう帰ったの!?」


レオン「ああ」


ガル「早いな」


ユアン「森が帰る場所なんだ」


エル「ひだまりには来ないの?」


レオン「また来る」


ミリ「いつ?」


レオン「そのうちな」


リリィ「猫、待つ」


猫「……」


マーサは鍋を混ぜながら、何も言わなかった。


ただ、少しだけ西の空を見た。


トト「マーサ先生、寂しい?」


マーサ「寂しくないわけじゃないよ」


トト「じゃあ、呼べばいいのに」


マーサ「呼んだら来る子じゃないんだよ、あの子は」


レオンは少しだけ目を伏せた。


マーサは続ける。


「でも、必要なら帰ってくる」


トト「ひだまりへ?」


マーサ「そうだね」


マーサは少し笑った。


「お腹が空いたらね」


ミリ「すーぷ」


リリィ「帰るすーぷ」


エル「ジーナさんも、帰る味が分かる人」


レオン「ああ」


その夜。


レオンはなかなか眠らなかった。


フィリアに見つかり、要観察扱いされた。


セシリアに記録され、リュシアに問い詰められかけた。


だが、レオンは多くを語らなかった。


ただ、西の方角を見る。


二日。


ジーナはそう言った。


二日後、人をよこせ。


ラザルの遺体を回収するために。


その言葉が、レオンの中で静かに響いていた。


一日目。


何も起きなかった。


王都内の黒い根の除去作業は進んだ。


メルザの黒糸核から得られた情報により、いくつかの小さな中継点が見つかった。


福祉倉庫の荷は全て再確認され、孤児院へ届けられる予定だった寄付品も、一つ一つリュシアとセシリアの確認を受けた。


トトは、箱を見るたびに手を後ろに回した。


トト「十三条、守ってる」


ガル「分かりやすいな」


ユアン「でもいい」


エル「私も触らない」


ミリ「荷物、待つ」


リリィ「猫も待つ」


猫「……」


アルトは庭で見張っていた。


空の膜はさらに薄くなっていた。


完全ではない。


しかし、昨日よりも確実に弱まっている。


リュシア「黒糸核を封じた影響ね。空を閉じる結界にも、王都内の根が補助として使われていたみたい」


レオン「飛べるか」


リュシア「まだ無理はしない方がいいわ」


アルト「……」


トト「アルト先輩、今日は地上任務!」


アルトが軽くトトの髪をつついた。


トト「今のは褒めた?」


リリィ「たぶん違う」


ミリ「つつき」


レオンは笑わなかった。


だが、目元は少しだけ柔らかくなった。


二日目の朝。


王城から使者が来た。


予定通り、レオンとグレン、リュシア、セシリアが西の古い狩猟道へ向かうことになった。


ジーナの言葉通り。


二日後。


人をよこせ。


マーサはレオンに包みを渡した。


「持っていきな」


レオン「すぐ戻る」


マーサ「すぐ戻る人間にも飯はいる」


レオン「……分かった」


トト「レオン兄ちゃん」


レオン「なんだ」


トト「ジーナの姉御、いる?」


レオン「分からない」


エル「帰ってくる?」


レオン「……帰ってくる」


マーサがレオンを見た。


少しだけ、何かを察したような顔をする。


だが、聞かなかった。


ただ言った。


「どこへ帰る?」


レオン「ひだまりへ帰る」


ジーナはいない。


だが、合言葉は変わらない。


レオンたちは西へ向かった。


王都を出て、古い街道を越え、廃塔のさらに奥へ。


そこから先は、ジーナが言っていた古い狩猟道だった。


草に覆われ、ほとんど道とは呼べない。


だが、ジーナの残した印があった。


折れた枝。


裏返された石。


獣には分かり、人には気づきにくい小さな跡。


グレン「これが印か」


レオン「ああ。姉御のものだ」


セシリア「非常に分かりづらいです」


リュシア「でも、迷わせない最低限の印ね」


レオンは黙って進んだ。


森は静かだった。


鳥の声が少ない。


風が止まっている。


そして、黒い魔力の匂いがわずかに残っている。


リュシアが水晶を掲げる。


「ラザルの魔力痕……確かにあるわ。でも、かなり乱れている」


グレン「戦闘跡か」


レオン「ああ」


さらに進むと、森の空気が変わった。


木々が倒れている。


だが、広範囲ではない。


一箇所だけ。


まるで、森の一点に巨大な力が落ちたかのように、地面が円形に沈んでいた。


倒れた木の幹には、切断跡がない。


焼け跡もない。


ただ、圧で折れていた。


セシリア「これは……」


リュシア「闘気の跡ね。魔法ではないわ」


グレン「拳か?」


レオンは中心へ歩いた。


そこに、ラザルがいた。


白い仮面は砕けていた。


黒い外套は破れ、黒い結晶の杖も折れている。


体は地面に横たわり、すでに息はなかった。


顔には、驚愕の色が残っている。


逃げるつもりだったのだろう。


転移の黒い布も、足元で千切れていた。


だが、逃げ切れなかった。


リュシアが慎重に近づき、魔力反応を確認する。


「死亡しています」


グレン「ラザル……間違いないか」


セシリア「仮面の破片、杖、黒玻璃紋の配置。記録と一致します」


レオンは黙ってラザルを見下ろした。


怒りはあった。


だが、不思議と熱くはならなかった。


ジーナが言った通りだった。


ラザルは、すでに倒されていた。


一撃で。


リュシアが地面を見る。


「ここ、見て」


円形に沈んだ地面の中心。


そこには、拳の跡があった。


だが、その跡は岩盤にまで達していた。


周囲の黒い根は、すべてその一点から砕けている。


ラザルの胸元にあった黒玻璃紋も、内側から割れていた。


セシリア「拳撃一つ……」


グレン「この一撃だけで、黒玻璃紋、転移術、護身結界、すべて破壊したのか」


リュシア「第8段階の痕跡があるわ」


セシリア「第8段階……」


レオン「魂技顕現こんぎけんげん


リュシア「ええ。ジーナさんの魂技ね」


森の中に、ジーナの闘気がまだわずかに残っていた。


荒々しい。


だが、迷いがない。


獣のようで、山そのもののような力。


リュシアはその残滓を読み取った。


「これは……追跡型の魂技。逃げ道を捕らえて、距離も罠も転移も無視して、一撃の間合いに引きずり込む力」


グレン「つまり、ラザルは逃げられなかった」


レオン「姉御の第8段階だ」


セシリア「名称は?」


レオンは少しだけ黙った。


「たしか、《獣王路じゅうおうろ》」


リュシア「獣王路……」


レオン「あの人が一度“獲物”と決めた相手の足跡を、魂で掴む。森だろうが、地下だろうが、転移の途中だろうが、一瞬だけ自分の拳の届く場所へ引き寄せる」


グレン「反則ではないか」


レオン「姉御だからな」


セシリア「理由になっているようで、なっていますね」


レオンはラザルの周囲を見る。


そこには、戦闘の跡がほとんどなかった。


斬り合いもない。


魔法の撃ち合いもない。


逃走の足跡はいくつかあった。


黒い罠の痕跡もあった。


偽の足跡。


幻惑の黒い羽。


転移用の黒布。


どれも使用された形跡がある。


だが、すべて途中で途切れている。


そして最後に残るのは、拳の跡だけ。


リュシア「たぶん、こうね」


水晶が淡く光る。


残された魔力の痕跡が、薄い幻のように浮かび上がった。


二日前の夜。


森の奥。


ラザルは黒い結晶の前に立っていた。


白い仮面の欠片を外し、二本角の影に指示を出していた。


「メルザは失敗した。だが、ひだまりは成長した。ならば次は――」


その時。


森の空気が変わった。


ラザルが振り向く。


「誰だ」


木々の影から、ジーナが現れた。


獣皮の外套。


短弓。


山刀。


そして、握られた拳。


ジーナ「子どもに手ぇ出した奴を探してた」


ラザル「……山砕きのジーナ」


ジーナ「知ってるなら話が早ぇ」


ラザルは笑った。


「君一人か。灰剣は?」


ジーナ「ひだまりだ」


ラザル「なるほど。君が来るとは思わなかった」


ジーナ「だろうな」


ラザルは杖を掲げた。


黒い根が森の地面から伸びる。


木々の影が動き、偽の道がいくつも生まれる。


ラザル「私は追われ慣れている」


ジーナ「だろうな」


ラザル「森は複雑だ。足跡は消せる。匂いは混ぜられる。魔力痕は裂ける。君がどれほど優れたレンジャーでも――」


ジーナが一歩踏み出した。


その足元に、闘気が宿る。


第1段階。


第2段階。


第3段階。


だが、そこでは止まらない。


ジーナ「逃げる奴は、だいたい同じことを言う」


第4段階。


第5段階。


第6段階。


森の獣が一斉に息を潜める。


ラザルの表情が変わる。


「まさか」


第7段階。


ジーナの全身から、猛獣のような闘気が立ち上がる。


けれど、それでも終わらない。


ジーナ「レオンは優しいからな。怒っても、最後に迷う」


ラザル「君は?」


ジーナは笑った。


「迷わねぇ」


第8段階。


魂技顕現こんぎけんげん


ジーナの足元に、獣道のような光が走った。


目には見えない道。


土の記憶。


風の流れ。


逃げた足跡。


恐れの匂い。


黒玻璃の魔力。


それらすべてが一本の道になる。


ジーナ「魂技――《獣王路》」


ラザルはすぐに転移しようとした。


黒い布が体を包む。


だが、転移の先に道がない。


いや。


あったはずの逃げ道が、すべてジーナの拳へ繋がっていた。


ラザル「な――」


ジーナの姿が、目の前にあった。


距離を詰めたのではない。


逃げ道そのものを、拳の間合いへ引き寄せた。


ジーナ「戦闘は長引かせねぇ」


拳が握られる。


「お袋の家に、手ぇ出すな」


一撃。


ジーナの拳が、ラザルの胸元の黒玻璃紋を撃ち抜いた。


殴ったのは肉体ではない。


黒玻璃の根。


転移の核。


逃走術式。


そして、ラザルを黒玻璃に繋いでいた心臓部。


すべてを一撃で捕らえ、砕いた。


轟音。


森の地面が円形に沈む。


黒い根が一斉に断裂する。


白い仮面が砕け散る。


ラザルの口から、言葉にならない息が漏れた。


「……なぜ……」


ジーナは拳を下ろした。


「お前が弱かったからじゃねぇ」


ラザルの体が崩れる。


ジーナは静かに言った。


「帰る場所を敵に回したからだ」


幻のような記録は、そこで途切れた。


森に、現在の静けさが戻る。


リュシアは水晶を下ろした。


「……一撃ね」


グレン「信じがたい」


セシリア「ですが、痕跡が一致します。第8段階、魂技顕現。《獣王路》。拳撃一つで対象を捕捉し、黒玻璃紋ごと破壊」


レオンは何も言わなかった。


ただ、ラザルの遺体を見ていた。


あの男は、何度も逃げた。


声を使い、根を使い、転移を使い、子どもたちを利用した。


それでも最後は、森の中で、拳一つに捕まった。


ジーナらしい終わらせ方だった。


グレン「遺体を回収する。慎重に扱え。黒玻璃の残滓がある」


騎士たちが動く。


リュシアは残った黒い結晶を封じる。


セシリアは記録を取る。


レオンは、ふと地面の端を見た。


そこに、小さな包み紙が置かれていた。


マーサの包み飯に使われていた紙。


中身は空。


その紙の裏に、炭で文字が書かれていた。


『食った。殴った。森に戻る。お袋によろしく。弟分、無茶すんな』


レオンはしばらくその文字を見ていた。


そして、小さく息を吐いた。


「姉御らしい」


リュシアが覗き込む。


「何て?」


レオンは紙を折りたたみ、懐へしまった。


「森に戻るそうだ」


セシリア「それだけですか?」


レオン「それだけだ」


セシリア「また隠しましたね」


レオン「……少しだけな」


グレン「ジーナ殿はどこへ?」


レオンは森の奥を見た。


そこには、もう足跡がなかった。


ジーナは自分の痕跡を消していた。


追わせる気がない。


いや。


帰る場所へ戻ったのだ。


森へ。


そして、いつかまた腹を空かせて、ひだまりへ。


「森だ」


レオンはそう答えた。


その日の夕方。


王城では、ラザル死亡の報告が正式に上がった。


国王は長く黙った。


アリシアは静かに目を伏せた。


ルカは拳を握りしめたまま、息を呑んだ。


グレンが報告書を読み上げる。


「黒玻璃の使徒ラザル、死亡確認。発見場所、西方古森林帯、旧狩猟道終点付近。死因は黒玻璃紋の中枢破壊。周辺に第8段階級の闘気痕を確認。ジーナ・バルガ殿による単独撃破と判断」


国王「一人で、か」


グレン「はい」


国王「第8段階……」


リュシア「魂技顕現。彼女の《獣王路》は、逃げる相手にとって最悪の相性です」


セシリア「戦闘痕は拳撃一つ。複数回の交戦痕なし。ラザルは逃走術式を起動しましたが、拳の間合いへ捕捉され、黒玻璃紋ごと破壊されています」


ルカ「拳一つで……」


アリシア「ジーナ殿は、今どちらに?」


レオン「森です」


国王「帰ったか」


レオン「はい」


国王はしばらく沈黙した。


そして、深くうなずいた。


「王国は、ジーナ・バルガに大きな借りができたな」


レオン「報酬は、ひだまり孤児院へと言っていました」


国王「無論だ。さらに増額する」


グレン「陛下」


国王「当然だ。王としても、父としても、当然だ」


セシリア「親バカではなく、今回は妥当です」


国王「今回は?」


セシリア「今回は」


国王「ふむ」


その頃。


ひだまり孤児院。


報告が届くと、食堂はしばらく静かになった。


トト「ラザル、倒されたの?」


レオン「ああ」


ガル「あの仮面のやつが……」


ユアン「ジーナの姉御、一人で?」


レオン「ああ」


ミリ「つよい」


リリィ「拳」


猫「……」


エルは胸に手を当てていた。


怖さはあった。


あの男が、自分を“器”と呼んだ。


連れていこうとした。


そのラザルが、もういない。


ほっとした気持ちと、少しだけ震える気持ちが混ざっている。


フィリア「エル、呼吸を」


エル「はい」


エルはゆっくり息を吸う。


ゆっくり吐く。


金色の光が、ほんの少しだけ灯り、すぐに落ち着いた。


エル「……大丈夫」


トト「エル、大丈夫?」


エル「うん」


マーサは鍋の前に立っていた。


少しだけ、何かを考えている顔だった。


トト「マーサ先生、ジーナの姉御、帰ってくる?」


マーサ「帰ってくるよ」


トト「いつ?」


マーサ「腹が減ったら」


ミリ「すーぷ」


リリィ「帰るすーぷ」


ガル「それ、本当に来そうだな」


ユアン「うん」


レオンは懐から、折りたたんだ包み紙を出した。


マーサへ渡す。


「姉御から」


マーサは受け取って、文字を見る。


『食った。殴った。森に戻る。お袋によろしく。弟分、無茶すんな』


マーサはしばらく黙っていた。


そして、目元を少しだけ緩めた。


「まったく、あの子は……」


トト「何て書いてあるの?」


マーサ「ちゃんと食べたってさ」


ジーナらしい。


あまりにもジーナらしい言葉だった。


マーサは包み紙を丁寧にたたんだ。


「次に来たら、もっと食べさせないとね」


レオン「また椅子が鳴ります」


マーサ「丈夫な椅子を用意するよ」


トト「ジーナの姉御専用椅子?」


ミリ「姉御椅子」


リリィ「猫は座らない」


猫「……」


少しだけ笑いが戻った。


ラザルは倒れた。


黒玻璃の大きな牙が、一つ折れた。


だが、黒玻璃そのものが消えたわけではない。


メルザは拘束された。


ラザルは討たれた。


それでも、二本角の影はまだどこかにいる。


黒玻璃の奥には、さらに深い闇が残っている。


だから、壁の札は消えない。


十五、勝っても油断しない。


トトはその文字を見上げた。


「レオン兄ちゃん」


レオン「なんだ」


トト「ラザルを倒しても、十五はいる?」


レオン「ああ」


トト「油断しない?」


レオン「ああ」


エル「でも、今日は少し安心していい?」


レオンはエルを見た。


そして、少しだけ表情をやわらげた。


「ああ。今日は少し安心していい」


ミリ「すーぷ飲む?」


マーサ「もちろん飲むよ」


ジーナはいない。


けれど、食堂には彼女の笑い声が少しだけ残っている気がした。


豪快で。


強くて。


森へ帰っていった姉御。


拳一つでラザルを捕らえ、一撃で倒した女。


マーサをお袋と呼び、レオンを弟分と呼ぶ女。


その名は、ひだまり孤児院の子どもたちの中で、また少し大きくなった。


トト「俺、いつかジーナの姉御みたいに強くなれるかな」


レオン「まずは、勝手に走らないところからだな」


トト「そこから!?」


マーサ「そこからだよ」


ガル「基本だな」


ユアン「大事」


エル「助けたい時ほど、みんなを呼ぶ」


ミリ「帰ったら食べる」


リリィ「猫も」


猫「……」


アルトが庭で低く鳴いた。


ぐるる。


空の黒い膜は、さらに薄くなっていた。


まだ完全には晴れていない。


それでも、青空が少しだけ見えた。


レオンはその空を見上げる。


そして、静かに言った。


「一つ、終わったな」


リュシア「ええ。一つ、大きくね」


セシリア「記録します。黒玻璃使徒ラザル、ジーナ・バルガにより撃破。ひだまり孤児院、夕食通常通り」


フィリア「通常通りが一番です」


マーサ「さあ、食べな。今日は冷める前にね」


トト「第0段階!」


ミリ「すーぷ」


エル「帰るすーぷ」


ジーナはいない。


だが、その夜のスープは、どこか森の匂いがするような気がした。


そして、誰もが思った。


きっとまた、腹を空かせた姉御が帰ってくる。


その時は、門の外で大声で叫ぶだろう。


「おーい、お袋! 腹減った!」


その声に、マーサはきっと呆れながら言う。


「合言葉が先だよ」


そしてジーナは、笑って答えるのだ。


「ひだまりへ帰る!」


そうしてまた、食卓に一つ席が増える。


森へ帰った姉御の席が。


いつでも戻れるように。


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