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第四十一話 幹部を討て


翌朝。


ひだまり孤児院の食堂には、いつもより静かな空気があった。


静か、といっても、完全に静かではない。


トトがスープの器を両手で持ち、壁の札を見ている。


ガルはパンをかじりながら、門の方をちらちら見ている。


ユアンは昨日増えた十四条を読み返している。


エルは胸に手を当てながら、ゆっくり呼吸している。


ミリは眠そうにスプーンを握っている。


リリィは猫を抱いている。


猫は何もしていない。


いつも通りである。


壁には、もうかなり大きくなった札があった。


『ひだまり防護十四か条』


十、ぜったい帰る。

十一、助けたい時ほど、みんなを呼ぶ。

十二、帰ったら食べる。

十三、知らない荷物は大人が見るまで開けない。

十四、知ってる人でも、いつもと違ったら大人に言う。


トトは十四条を指でなぞった。


トト「知ってる人でも、いつもと違ったら大人に言う……」


ガル「昨日できたばっかりだな」


ユアン「でも大事」


エル「怖いけど、大事」


ミリ「言う」


リリィ「猫も、違ったら鳴く」


猫「……」


トト「猫、本当に鳴くかな」


リリィ「必要なら」


レオン「猫に期待しすぎるな」


ジーナ「いや、猫は意外と馬鹿にできねぇぞ」


ジーナ・バルガは、朝から大きな器でスープを飲んでいた。


昨日あれだけ走り回り、黒玻璃の根を追い、福祉倉庫まで確認したというのに、疲れた様子はほとんどない。


むしろ、朝飯を食べてさらに元気になっている。


ジーナ「異変に気づくのは、人間より獣の方が早いこともある。猫、グリフォン、子ども。全部見る目が違う」


トト「子どもも?」


ジーナ「おう。子どもは、大人が見逃す違和感に気づく」


トト「俺も?」


ジーナ「気づける。ただし、気づいたら一人で突っ走るな」


トト「はい!」


マーサ「いい返事だね」


セシリア「返事だけではなく、行動も要確認です」


トト「信用が戻る道、遠い……」


リュシアは菫色の水晶を机の上に置いていた。


昨日回収した中継核の解析結果が、夜遅くに少しだけ出ていた。


王都の中に残された黒玻璃の根。


消えた荷物。


福祉倉庫の不自然な空白。


そして、知っている顔を使って近づく可能性。


今日から孤児院への訪問者は、全員確認する。


合言葉だけではない。


様子。


匂い。


持ち物。


話し方。


いつもの癖。


すべて見る。


フィリアはエルの隣で、そっと言った。


フィリア「緊張しているなら、呼吸を」


エル「はい」


エルは目を閉じる。


ゆっくり吸う。


ゆっくり吐く。


胸元に淡い金色が一瞬だけ灯り、すぐに落ち着いた。


リュシア「上手になってきたわね」


エル「まだ、少し怖いです」


リュシア「怖くていいのよ。怖いのに落ち着こうとしている。それが大事」


ジーナ「そうそう。怖さをなくそうとするな。怖さは足元を見るための目だ」


トト「かっこいい」


ガル「今日のジーナの姉御、ずっとかっこいいな」


レオン「調子に乗るぞ」


ジーナ「もう乗ってる!」


マーサ「朝から乗るんじゃないよ」


ジーナ「お袋に言われたら降りる!」


トト「やっぱりマーサ先生が最強」


レオン「そう言っただろう」


その時だった。


庭にいたアルトが、低く鳴いた。


ぐるる。


警戒。


ただし、敵を見つけた時ほど鋭くはない。


誰かが近づいている。


それを知らせる声だった。


食堂の空気が変わる。


トトは反射的に立ち上がりかけて、止まった。


壁を見る。


十四、知ってる人でも、いつもと違ったら大人に言う。


トト「……マーサ先生」


マーサ「分かってるよ」


セシリア「全員、席から動かず待機」


ガル「はい」


ユアン「はい」


エル「はい」


ミリ「はい」


リリィ「猫も待機」


猫「……」


ジーナはすでに立っていた。


レオンも。


リュシアは水晶を手に取る。


フィリアは子どもたちの前へ一歩出る。


門の外から、女性の声がした。


「マーサさん。王都福祉局のミランダです。寄付品の確認に参りました」


トトが顔を上げた。


「ミランダさん?」


ガル「知ってるのか?」


トト「うん。たまに古い服とか、乾燥果物持ってきてくれる人」


ユアン「僕も見たことある」


エル「優しい人」


マーサの顔も少しだけ緩みかけた。


だが、すぐに引き締まる。


「……ミランダは、いつもなら門の外で先に咳払いするんだよ」


トト「え?」


マーサ「癖なんだ。声を出す前に、必ず一回」


ジーナがにやりとした。


「お袋、よく見てるな」


マーサ「長く生きてるからね」


セシリア「重要情報です」


門の外の声が続く。


「マーサさん? いらっしゃいますか?」


声は優しい。


聞き慣れた人なら、安心してしまう声。


でも。


何かが違った。


リリィが猫を見た。


猫の耳がぴんと立っている。


リリィ「猫、変って言ってる」


猫「……」


ミリ「猫、言った」


トトは小さく息を吸った。


「知ってる人でも、いつもと違ったら……」


レオン「大人に言う」


トト「言った!」


レオン「ああ。よく言った」


マーサは門の内側まで行った。


ただし、開けない。


いつものように問いかける。


「どこへ帰る?」


門の外の女性は、一拍遅れて答えた。


「……ひだまりへ帰る」


合言葉は合っていた。


だが。


一拍遅れた。


そして、声の温度が少しだけ違った。


ジーナが低く言う。


「違うな」


リュシア「魔力反応はかなり薄い。でも、門の外に黒い糸がある」


セシリア「門を開けてはいけません」


マーサ「ミランダ。本当にあんたなら、私が昔あげたものを覚えているかい?」


門の外が、少し静かになった。


「……スープ、でしょうか」


マーサの目が冷えた。


「違うね」


ジーナ「決まりだ」


レオン「開けるな」


外の声が、少しだけ歪んだ。


「……開けてください。寄付品が、冷めてしまいます」


トト「寄付品は冷めないよ」


ガル「服とかだろ」


ユアン「乾燥果物も」


エル「変」


ミリ「変」


リリィ「猫も変」


リュシアが水晶を掲げる。


菫色の星が門の隙間から外へ流れた。


次の瞬間。


ぱちん、と黒い糸が弾ける音がした。


門の外から、女性の悲鳴が上がる。


「きゃあっ!」


本物の声だった。


レオンが動いた。


だが、ジーナが一歩早く門へ飛びついた。


「開けるぞ!」


マーサ「今ならいい!」


ジーナが門を開ける。


そこにいたのは、確かにミランダだった。


王都福祉局の職員。


中年の穏やかな女性。


だが、その目は焦点が合っていない。


首元から、黒い糸のようなものが伸びていた。


彼女の背後に置かれた小さな荷箱から、その糸が絡んでいる。


ジーナ「操られてる!」


リュシア「糸を切る!」


レオン「ミランダさんを傷つけるな」


ジーナ「分かってる!」


ジーナが一気に踏み込む。


山刀を抜かない。


素手。


黒い糸だけを掴み、引きちぎる。


じゅっ、と嫌な音がした。


ミランダの体が崩れかける。


フィリアが駆け寄り、支える。


「意識はあります!」


ミランダ「ま……マーサさん……私……」


マーサ「喋らなくていい。中へ」


リュシアが荷箱へ魔法を放つ。


中から黒い根が飛び出した。


細い。


しかし、蛇のように速い。


レオンが前へ出る。


今度は、ジーナも止めない。


レオンの手が動いた。


剣を抜くまでもない。


闘気をまとった指先が、黒い根だけを断ち切る。


黒い根は赤黒い火花を散らしながら、地面に落ちた。


セシリア「荷箱、黒玻璃反応あり。ミランダさん本人は操られていた可能性大」


ミランダは震える手でマーサの袖を掴んだ。


「ごめんなさい……私、荷物を確認しようとして……急に、声が……」


フィリア「黒糸が首元に浅く刺さっていました。命に別状はありませんが、しばらく安静が必要です」


マーサ「中で休ませるよ」


レオン「いや」


マーサがレオンを見る。


レオンは静かに言った。


「中に入れる前に、糸の残りを完全に取る」


マーサ「……そうだね」


その判断は冷たく聞こえるかもしれない。


だが、誰も反対しなかった。


知っている人でも、いつもと違ったら大人に言う。


そして、助ける時も確認する。


フィリアとリュシアがミランダの体を確認する。


首元、袖、靴、髪留め。


すべて。


やがて、リュシアが小さく息を吐いた。


「残りの糸はないわ」


フィリア「体調は安定しています。中へ運べます」


マーサ「よし。休憩部屋へ」


ミランダは涙をこぼした。


「ごめんなさい……子どもたちを危ない目に……」


トトがぎゅっと拳を握った。


そして、叫ばずに言った。


「ミランダさんは悪くない」


ミランダがトトを見る。


トト「悪いのは、操ったやつだって、レオン兄ちゃん言ってた」


エルも小さくうなずいた。


「力を悪く使う人が悪い」


ミランダは泣いた。


マーサがその肩を支える。


「そうだよ。泣くなら中で泣きな」


ジーナは地面に落ちた黒い糸を見ていた。


その顔から、笑みが消えている。


「いたぞ」


レオン「何が」


ジーナ「この糸を操った奴の匂いだ」


リュシア「幹部?」


ジーナ「ああ。昨日の根とは違う。もっと濃い。もっと近い。これは、尻尾じゃねぇ」


ジーナは黒い糸を指先でつまむ。


直接触れないよう、布を挟んで。


「本体の手垢だ」


セシリア「追えますか?」


ジーナ「追える」


レオンの目が鋭くなる。


「行くぞ」


ジーナ「今回は止めねぇ」


リュシア「私も行くわ。糸の魔法は解除が必要になる」


セシリア「記録と連絡のため同行します」


グレンはすでに門の外で騎士たちへ指示を出していた。


「王城へ通達。福祉局職員ミランダさんを保護。黒糸による精神操作を確認。幹部級の可能性あり。追跡隊を編成する」


フィリア「私はここに残ります。ミランダさんと子どもたちを診ます」


マーサ「私もここを守る」


アルトが低く鳴いた。


ぐるる。


レオン「アルト」


アルトが前へ出る。


空はまだ重い。


だが、地上なら走れる。


レオン「今回は来い」


アルトは翼をたたみ、鋭い目でうなずくように頭を下げた。


トト「レオン兄ちゃん」


レオン「なんだ」


トト「幹部、倒すの?」


食堂が静かになる。


レオンはトトを見る。


「倒す」


トトの喉が鳴った。


「帰ってくる?」


レオン「ああ」


エル「本当に?」


レオン「ああ」


ミリ「どこへ?」


レオン「ひだまりへ帰る」


リリィ「猫も待つ」


猫「……」


ガル「俺たち、守ってる」


ユアン「知らない荷物も開けない」


エル「知ってる人でも、変だったら言う」


トト「助けたい時ほど、みんなを呼ぶ」


レオンはうなずいた。


「それでいい」


ジーナが笑った。


「よし。帰ったら食う。十二条も守るぞ」


マーサ「そのために鍋は残しておくよ」


ジーナ「さすがお袋!」


レオンは門の外へ出る前に、トトの作った古い札を懐から出した。


『またかえる』


それを一度見て、しまう。


そして言った。


「行ってくる」


トト「いってらっしゃい」


エル「いってらっしゃい」


ミリ「帰る」


リリィ「ぜったい」


ガル「絶対だぞ」


ユアン「待ってる」


マーサ「背中を曲げずに行きな」


ジーナ「お袋、それはあたしにも?」


マーサ「あんたは曲げる前に腹を減らしすぎるんじゃないよ」


ジーナ「はいよ!」


こうして、討伐隊は動き出した。


レオン。ジーナ。リュシア。セシリア。グレン。アルト。


そして、後方には騎士団。


黒い糸は、王都の路地を抜けていた。


ジーナは鼻を利かせ、地面を見て、壁に触れ、時々屋根を見上げる。


「こっちだ」


細い路地。


古い排水溝。


パン屋の裏。


使われなくなった井戸。


廃れた小さな礼拝堂。


黒い糸は、王都の暮らしの中をすり抜けるように続いていた。


ジーナ「嫌な奴だな」


グレン「何が分かる」


ジーナ「人が通る道ばかり選んでる。荷運び、洗濯、子どもの遊び場、配達の道。日常の足跡で、自分の足跡を消してやがる」


リュシア「魔力も同じ。生活魔力の揺れに混ぜて隠しているわ」


セシリア「人の暮らしを隠れ蓑にしている」


レオン「黒玻璃らしい」


ジーナ「違ぇな」


レオンがジーナを見る。


ジーナの声は低かった。


「黒玻璃らしい、で済ませるな。これは、子どもや貧しい奴らの暮らしを踏み台にしてる」


レオン「……ああ」


ジーナ「だから、殴る価値がある」


レオン「斬る価値もある」


リュシア「封じる価値もね」


セシリア「記録する価値もあります」


グレン「討伐する価値がある」


アルトが低く唸った。


ぐるる。


黒い糸は、やがて王都東区の古い礼拝堂へ続いていた。


そこは、今はほとんど使われていない建物だった。


昔は貧しい人々に食料を配る場所だったという。


今は扉が閉じられ、窓には板が打たれている。


だが、ジーナは正面を見て首を振った。


「正面は空だ」


レオン「裏か」


ジーナ「いや」


ジーナは地面を指差した。


「下だ」


礼拝堂の横に、小さな石造りの小屋がある。


下水管理用の古い入口。


施錠されていたはずの扉は、内側からわずかに開いていた。


リュシアが水晶をかざす。


水晶が黒く濁る。


「ここね」


セシリア「魔力濃度、昨日の中継核より高いです」


グレン「幹部がいる可能性は」


リュシア「高いわ」


レオン「なら、行く」


ジーナ「待て」


レオンの足が止まる。


ジーナは扉に近づかず、周囲を嗅ぐ。


次に、石壁の端に手を当てる。


そして、小さく笑った。


「いるな」


レオン「幹部か」


ジーナ「ああ。しかも、こっちが来たことに気づいてる」


その瞬間。


礼拝堂の奥から、拍手が聞こえた。


ぱち。ぱち。ぱち。


扉が、ひとりでに開く。


中から、黒い糸が何本も垂れていた。


まるで蜘蛛の巣。


いや。


操り人形の糸だった。


女の声が響く。


「よく来ましたね、ひだまりの番犬たち」


レオンの目が冷える。


リュシアが杖を構える。


グレンが剣に手をかける。


ジーナは笑った。


「おう。呼ばれてねぇが来たぞ」


声の主は、礼拝堂の奥にいた。


黒い礼服。


細い指。


白い手袋。


顔の半分を黒い薄布で隠した女。


その背後には、何十本もの黒い糸が広がっている。


糸の先には、木箱、人形、古い布、黒い根。


そして、何人かの人間が眠らされていた。


福祉局の職員。


荷運びの男。


施療院跡の近くにいた老人。


みな、黒い糸に繋がれている。


リュシア「生きているわ」


グレン「人質か」


女は微笑んだ。


「人質ではありません。道具です」


レオンの空気が変わった。


女は楽しそうに続ける。


「善意は便利ですね。寄付、施し、見舞い、助け合い。誰も疑わない。門は開く。手は伸びる。心は揺れる」


ジーナの拳が鳴った。


「名前を言え」


女はゆっくり一礼した。


「黒玻璃幹部、《黒糸》のメルザ」


黒い糸が、彼女の背後で揺れる。


「声を借り、顔を借り、善意を借り、人を動かす者です」


レオン「お前がミランダさんを操ったのか」


メルザ「ええ。良い方でした。だから使いやすかった」


レオンの指がわずかに動く。


ジーナが横から言う。


「レオン」


レオン「分かっている」


ジーナ「まだ人質がいる」


レオン「ああ」


メルザは笑う。


「冷静ですね。もっと怒るかと思いました」


レオン「怒っている」


メルザ「そう見えません」


レオン「怒っている時ほど、静かになるらしい」


リュシアが小さく言った。


「ええ。とても怖いわ」


メルザは黒い糸を一本動かした。


眠っていた荷運びの男が、ゆらりと立ち上がる。


目は閉じたまま。


糸に引かれて、剣を持つような動きをする。


グレン「操られている人間を前に出す気か」


メルザ「あなた方は斬れないでしょう?」


レオン「斬らない」


メルザ「なら、止まるしかない」


ジーナ「違うな」


次の瞬間、ジーナが動いた。


まっすぐではない。


床を蹴り、柱を使い、横へ回り込む。


黒い糸が反応して彼女を狙う。


ジーナはそれを素手で払い、山刀の背で弾き、床を転がって避ける。


そして、操られていた荷運びの男の背後へ回った。


首筋の糸を掴む。


「人を動かすなら、糸は必ず張る」


ぶちっ。


黒い糸が切れる。


男の体が崩れた。


グレンがすぐに支える。


「確保!」


騎士たちが後ろへ運ぶ。


メルザの眉がわずかに動いた。


「速いですね」


ジーナ「山の罠より雑だ」


メルザ「では、数を増やしましょう」


黒い糸が一斉に動く。


眠らされた人々が立ち上がる。


リュシア「私が糸を止める!」


星の魔法陣が広がる。


菫色の光が、礼拝堂の床に円を描く。


星環束縛せいかんそくばく!」


黒い糸の動きが鈍る。


だが、完全には止まらない。


メルザ「星詠みの魔女。厄介ですね」


リュシア「褒め言葉として受け取るわ」


セシリア「人質の位置、八名。右奥二名、祭壇前三名、左壁際三名。全員生命反応あり」


グレン「騎士団、救助優先! 糸を斬るな、外せ!」


レオンはメルザを見ていた。


だが、動かない。


動けないのではない。


動く時を待っている。


メルザはそれが気に入らないようだった。


「ひだまりの子どもたちは元気ですか?」


空気が凍る。


メルザは微笑む。


「トトくん。エルちゃん。ガルくん。ユアンくん。ミリちゃん。リリィちゃん。猫もいましたね」


レオンの目が冷たくなる。


メルザ「名前を覚えるのは得意です。声も、表情も、癖も。次はもっと上手く真似られますよ」


ジーナが低く唸った。


「お前、口がよく動くな」


メルザ「それも武器ですから」


メルザの指が動く。


礼拝堂の壁から、黒い糸人形が現れた。


それは、人の形をしていた。


小さい。


子どものような背丈。


黒い布をまとい、顔はぼやけている。


だが、声だけははっきりしていた。


トトの声。


「レオン兄ちゃん、助けて」


レオンは動かない。


もう一体。


エルの声。


「私、怖い」


さらにもう一体。


ミリの声。


「すーぷ……」


リュシアの顔が険しくなる。


グレンの拳が震える。


セシリアが記録板を握りしめる。


メルザ「どうです? 知っている声でしょう?」


レオンは静かに言った。


「違う」


メルザ「声は合っているはずですが」


レオン「トトは、俺に一人で動けとは言わない」


黒いトト人形が揺れる。


レオン「エルは、怖くても呼吸する練習をしている」


黒いエル人形の声が歪む。


レオン「ミリは、そんな冷たい声で“すーぷ”と言わない」


黒いミリ人形が、ぎしりと音を立てた。


ジーナがにっと笑った。


「残念だったな。真似が下手だ」


メルザの顔から笑みが少し消える。


「では、これはどうでしょう」


黒い糸が集まる。


今度は、大人の姿を作る。


丸い背中。


エプロン。


厳しくも温かい声。


マーサの声だった。


「レオン、無茶をするんじゃないよ」


レオンの目が細くなる。


ジーナの拳が、先に動いた。


彼女は一瞬で踏み込み、黒いマーサ人形の顔面を殴り抜いた。


黒い布と糸が弾け飛ぶ。


ジーナ「お袋の声を使うな」


その声は低かった。


メルザの目が初めて揺れた。


ジーナ「お袋はな、無茶するなとは言う。けど、子どもに手ぇ出した奴を見逃せとは絶対言わねぇ」


レオン「同感だ」


リュシア「私も」


セシリア「記録します。マーサ先生の偽物、ジーナさんにより即時破壊」


ジーナ「記録しとけ」


メルザの黒い糸が激しく揺れた。


「面白くありませんね」


声が冷たくなる。


「ならば、全員まとめて縫い止めましょう」


礼拝堂の床が割れた。


黒い根が下から伸びる。


糸と根が絡み合い、巨大な黒い繭のようなものを作っていく。


リュシア「黒糸核が起動する!」


セシリア「魔力濃度上昇。周辺の生活魔力を吸っています!」


グレン「人質の退避を急げ!」


騎士たちが操られていた人々を運び出す。


ジーナはその援護に回る。


レオンはまだメルザを見ている。


メルザの背後に、黒い核があった。


糸の中心。


黒い根の心臓。


人を操る糸の起点。


それを壊さなければ、メルザは止まらない。


リュシア「レオン、核は祭壇の下!」


レオン「見えている」


メルザ「見えていても、届きません」


黒い糸が無数に伸びる。


刃のように鋭い。


壁を裂き、床を削る。


レオンの前に、糸の壁ができる。


メルザ「あなたは強い。ですが、守るものが多すぎる。糸一本で人質を傷つければ、あなたは止まる」


レオンは静かに答えた。


「そうだな」


メルザ「認めるのですね」


レオン「ああ。俺一人なら、雑に壊せた」


ジーナ「雑って自覚あったのか」


レオン「ある」


リュシア「そこは感心するところかしら」


レオンは続けた。


「だが、今は一人じゃない」


メルザの目が動く。


その瞬間。


ジーナが人質最後の一人の糸を引きちぎった。


グレンが受け止める。


セシリアが叫ぶ。


「人質、全員退避完了!」


リュシアの星の魔法陣が強く輝く。


「糸の動きを三呼吸だけ止めるわ!」


ジーナが拳を構える。


「道はあたしが開ける!」


アルトが翼を広げた。


飛ぶためではない。


黒い糸を弾き、風圧で払い飛ばすために。


レオンは一歩前へ出た。


メルザの顔が引きつる。


「まさか」


レオンの周囲に闘気が集まる。


明確な目的がある。


核を壊す。


幹部を倒す。


人を傷つけず、帰る。


レオン「第7段階――」


礼拝堂の空気が震える。


黒い糸が怯えたように揺れる。


ジーナがにやりと笑う。


「出すなら、ちゃんと舵握れよ」


レオン「ああ」


リュシア「三呼吸。合わせるわ」


セシリア「記録準備、完了」


グレン「騎士団、退避線を維持!」


アルトが低く吠えた。


レオン「鬼神解放きじんかいほう


闘気が爆ぜた。


だが、広がらない。


周囲を壊さない。


人を巻き込まない。


一点へ。


祭壇の下の黒糸核へ。


ジーナが先に飛び出した。


「おらあああっ!」


拳が黒い糸の壁を殴る。


普通なら、触れた瞬間に切り裂かれる糸。


だが、ジーナは拳の角度を変え、籠手で受け、殴り、弾き、道を作る。


黒い糸が彼女の腕に絡む。


ジーナ「甘ぇ!」


腕を振る。


糸が千切れる。


リュシア「星環束縛、最大!」


菫色の星が降る。


黒い糸が、一瞬だけ止まった。


メルザ「っ……!」


レオンが消えた。


いや。


見えないほど速く踏み込んだ。


メルザは慌てて糸を集める。


黒い壁。


黒い槍。


黒い人形。


全部を前へ出す。


だが、遅い。


レオンの拳が、まず黒い壁を砕いた。


次に、闘気の刃が黒い槍を裂いた。


さらに一歩。


メルザの目の前に、レオンがいた。


メルザ「灰剣――!」


レオン「よくも子ども達の声を使ってくれたな」


メルザの黒糸がレオンの腕へ絡む。


「よくも…善意を罠にしたな」


糸がレオンの首を狙う。


「そして……人を道具と呼んでくれたな!!」


黒い糸が全身へ巻きつこうとする。


レオンは一切揺れない。


鬼神解放の闘気が、糸を焼き切る。


レオンの手が、メルザの背後の黒糸核へ伸びた。


メルザ「やめ――」


レオンの掌が、核を掴んだ。


黒い核は脈打っていた。


まるで心臓。


人の声を吸い、善意を吸い、生活の魔力を吸っていたもの。


レオンはそれを握り潰さない。


まず、リュシアを見る。


「封じられるか」


リュシア「できる!」


レオン「なら、半分残す」


メルザの顔が変わる。


「何を――」


レオンは核の根元だけを、闘気で断ち切った。


黒い糸が一斉に悲鳴のような音を上げる。


メルザの体が大きく揺れる。


リュシアの星の輪が核を包む。


星封環せいふうかん!」


黒糸核が菫色の光に閉じ込められる。


メルザの糸が、半分以上動かなくなった。


ジーナ「今だろ!」


レオン「ああ」


メルザは逃げようとした。


黒い布が体を包む。


転移。


ラザルと同じ逃走手段。


だが。


ジーナがすでに背後へ回っていた。


「足跡が逃げる方向を教えてくれたぜ」


ジーナの拳が、メルザの腹へ入る。


どんっ。


礼拝堂の床が震えた。


メルザの体がくの字に折れる。


転移の黒い布が乱れる。


レオンが一歩踏み込む。


「逃がさない」


メルザは叫ぶ。


「ラザル様が――」


レオン「ラザルにも伝えろ」


メルザ「え?」


レオンの拳が、メルザの胸元の黒玻璃紋を撃ち抜いた。


肉体を砕く拳ではない。


黒玻璃の魔力刻印だけを破壊する、正確な闘気。


メルザの体から、赤黒い光が剥がれ落ちる。


「ひだまりに手を出すな!」


黒玻璃紋が砕けた。


メルザの黒い糸が、すべて力を失う。


礼拝堂に垂れていた糸が、雨のように落ちる。


黒い根が枯れる。


操られていた人々の呼吸が安定する。


黒糸核はリュシアの星封環の中で沈黙した。


メルザは膝をついた。


黒い薄布が落ち、顔が露わになる。


その目には、もう余裕はない。


「私が……敗れる……?」


ジーナが腕を組む。


「子どもの声で遊ぶからだ」


リュシア「人の心を糸だと思った時点で、あなたの負けよ」


セシリア「黒玻璃幹部《黒糸》のメルザ、戦闘不能。記録します」


グレン「拘束しろ!」


騎士たちが黒玻璃封じの鎖を持って駆け込む。


メルザは抵抗しようとしたが、糸はもう動かない。


黒玻璃紋も砕かれている。


リュシアの星封環が、残った魔力を抑えていた。


メルザはレオンを睨む。


「ラザル様は……あなたを見ている……」


レオン「見ていろ」


メルザ「あなたの帰る場所は、必ず――」


ジーナの拳が、メルザの頭上すれすれの床を叩いた。


床が割れた。


メルザが黙った。


ジーナ「負けた奴が、余計な捨て台詞を長々吐くんじゃねぇ」


セシリア「非常に分かりやすい制止です」


グレン「助かる」


レオンは鬼神解放を静かに収めた。


空気が戻る。


礼拝堂の圧が消える。


だが、レオンの目から怒りは完全には消えていない。


それでも、彼は動かなかった。


追撃もしない。


暴れもしない。


約束通り、倒すべき相手だけを倒した。


ジーナがレオンの肩を軽く叩く。


「よく舵握ったな」


レオン「姉御がうるさいからな」


ジーナ「褒めてんだよ」


レオン「そうか」


リュシアが少し笑う。


「本当に、今日はちゃんと戻れそうね」


レオン「ああ」


セシリア「マスター、第7段階使用。周辺被害、最小。人質被害なし。幹部撃破。非常に重要な記録です」


レオン「今回は記録していい」


セシリアが一瞬止まった。


「……珍しい」


ジーナ「雪でも降るか?」


リュシア「空は閉じられているから、まだ分からないわね」


グレンは礼拝堂の外で、救助された人々の確認をしていた。


「全員無事だ! 軽い衰弱と魔力酔いのみ!」


リュシア「よかった」


ジーナ「お袋に怒られずに済むな」


レオン「本当にそうだ」


討伐は終わった。


黒玻璃幹部、《黒糸》のメルザ。


人の声を真似、善意を利用し、知った顔で門を開かせようとした幹部。


その糸は断たれた。


その核は封じられた。


その身は王国騎士団に拘束された。


王都の内側を揺らす作戦は、ひとまず止まった。


だが、完全に終わったわけではない。


ラザルはまだいる。


黒玻璃の奥には、さらに大きな影がある。


それでも。


今日は一つ、確かに勝った。


夕方。


ひだまり孤児院の門の前。


レオンたちが帰ってきた。


門の内側から、トトの声がする。


「どこへ帰る?」


レオンが答える。


「ひだまりへ帰る」


ジーナも続けた。


「ひだまりへ帰る!」


トト「ジーナの姉御、声大きい!」


ジーナ「元気な証拠だ!」


マーサ「門の外で叫ばない!」


ジーナ「はい、お袋!」


門が開く。


トトたちは走り出しかけて、全員止まった。


ガル「走らない」


ユアン「待つ」


エル「大人が入ってから」


ミリ「待つ」


リリィ「猫も待つ」


猫「……」


レオンはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「よく待った」


トト「倒した?」


レオン「ああ」


食堂が静かになる。


トト「幹部?」


レオン「ああ。黒糸のメルザ。倒した」


ガル「すげぇ……」


ユアン「本当に……」


エル「もう、声を真似されない?」


リュシア「少なくとも、あの幹部の糸はもう使えないわ」


フィリア「皆さん、怪我は?」


ジーナ「腹が減った!」


マーサ「怪我を聞いてるんだよ」


ジーナ「腹が減った以外は無傷!」


マーサ「よし、なら食べな」


トト「腹が減ったって怪我なの?」


ジーナ「追跡者にとっては重傷だ」


レオン「違う」


ミリ「重傷すーぷ」


リリィ「治療」


フィリア「栄養補給は治療の一部です」


セシリア「記録します。ジーナさん、空腹により治療対象」


ジーナ「お、いいぞ!」


レオン「いいのか」


食堂には、マーサのスープが用意されていた。


鍋は温かいまま。


約束通りだった。


レオンは席に座る。


ジーナは大きな器を受け取る。


リュシアは疲れたように息を吐きながらも、どこか安心している。


セシリアは記録板を開いたままスープを飲もうとして、マーサに止められた。


フィリアは全員の顔色を見ながら、ようやく自分の席に座った。


トトとエルは並んで座る。


トト「ねえ、レオン兄ちゃん」


レオン「なんだ」


トト「今日は、何条が勝ったの?」


レオン「何?」


トトは壁の札を見る。


「知らない荷物を開けない。知ってる人でも変だったら大人に言う。助けたい時ほどみんなを呼ぶ。ぜったい帰る。帰ったら食べる」


ミリ「いっぱい」


リリィ「全部?」


ジーナはスープを飲みながら笑った。


「全部だな」


リュシア「ええ。全部が役に立ったわ」


セシリア「防護十四か条、実戦有効性を確認」


レオン「記録するのか」


セシリア「当然です」


トトの顔が明るくなる。


「じゃあ、俺たちの札、役に立った?」


レオン「ああ」


トト「ほんと?」


レオン「ああ。お前たちが決まりを守ったから、俺たちは幹部を追えた」


エル「私たちも、守った?」


レオン「ああ」


エルの胸元に、ほんの少し金色の光が灯った。


でも、すぐに落ち着く。


エルは自分で呼吸した。


ゆっくり吸って。


ゆっくり吐く。


フィリア「上手です」


リュシア「ええ。とても」


トト「エル、すごい」


エル「うん。少しだけ」


ジーナ「少しずつでいい。強くなるのは、飯と同じだ。一口ずつだ」


マーサ「いいこと言うじゃないか」


ジーナ「お袋の飯で育ったからな!」


マーサ「調子に乗るんじゃないよ」


ジーナ「はい!」


食堂に笑いが広がった。


その笑いは、昨日より少し明るかった。


黒玻璃の幹部を倒した。


それは大きな勝利だった。


でも、勝ったからといって油断はしない。


壁の札は、そのまま残る。


十四か条。


増えすぎた決まり。


でも、その一つ一つは、子どもたちが怖い思いをして、学んで、守るために増やした知恵だった。


夜。


王城から正式な報告が届いた。


黒玻璃幹部《黒糸》のメルザ、拘束。


黒糸核、封印。


操られていた八名、全員保護。


福祉倉庫および礼拝堂周辺の黒い根、多数除去。


王都内の流通経路、再調査開始。


そして、国王からの一文。


『ひだまりの子らの判断が、王都を救う一助となった。よく守った。よく帰った。よく食べよ』


トト「王様、最後がマーサ先生みたい」


マーサ「いい王様じゃないか」


ルカからの追記もあった。


『トト、僕も十四か条を覚えます。特に、助けたい時ほどみんなを呼ぶ、を練習します。あと、ジーナ殿がとてもかっこよかったです』


ジーナ「坊主、分かってるな!」


アリシアからも短く添えられていた。


『エルさんへ。力は罪ではありません。少しずつ、一緒に強くなりましょう』


エルはその文を何度も読んだ。


そして、小さく笑った。


「一緒に……」


レオンはそれを見て、静かにスープを飲んだ。


その夜。


遠く西の廃塔。


ラザルは、黒い結晶の前で静かに立っていた。


赤黒い光が揺れる。


その中に、砕けた黒糸の魔力反応が映っていた。


ラザル「メルザが敗れたか」


奥の闇で、二本角の黒い影が動く。


ラザルは、欠けた仮面の残りを指でなぞった。


「ひだまり……思った以上に厄介だ」


黒い結晶が震える。


ラザル「だが、得たものはある。灰剣は怒りを抑えた。子どもたちは学んだ。少女の魔力は安定し始めた」


彼は静かに笑う。


「強くなるなら、折りがいがある」


二本角の影が、低く唸った。


ラザル「まだだ。お前の出番は、もう少し先だ」


赤黒い光が、廃塔の奥で脈打つ。


黒玻璃の影はまだ終わらない。


だが、ひだまり孤児院もまた、確かに強くなっていた。


幹部を一人倒した夜。


食堂の灯りは、いつもより少しだけ長く灯っていた。


そして壁には、十四か条の下に、ミリが小さく書き足していた。


『十五、勝っても油断しない』


セシリアはそれを見て、しばらく考えた。


そして、静かに言った。


「採用です」


レオン「また増えたか」


ジーナ「いいじゃねぇか」


マーサ「必要だね」


トト「十五か条!」


エル「覚える」


ミリ「油断しない」


リリィ「猫も」


猫「……」


アルトが庭で低く鳴いた。


ぐるる。


それはまるで。


“よく勝った。だが、まだ見張る”


そう言っているようだった。


レオンは窓の外を見た。


空の黒い膜は、少しだけ薄くなっていた。


完全ではない。


だが、確かに薄くなっている。


レオン「一つ、壊したな」


リュシア「ええ。一つ、前に進んだわ」


ジーナ「次も殴るぞ」


マーサ「その前に寝な」


ジーナ「はい、お袋」


食堂にまた笑いが起きた。


勝って。


帰って。


食べて。


油断しない。


それが、ひだまりの新しい夜だった。


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