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第四十話 王都を嗅ぐ


翌朝。


ひだまり孤児院の食堂には、いつもより少し早く灯りがついていた。


マーサの鍋からは、薄い湯気が上がっている。


フィリアは薬箱を確認している。


リュシアは菫色の水晶を磨いている。


セシリアはすでに記録板を開いている。


レオンは無言でスープを飲んでいる。


そして。


ジーナは、誰よりも大きな器でスープを飲んでいた。


ジーナ「うめぇ!」


マーサ「朝から声が大きいよ」


ジーナ「うまいもんは、うまいって言わねぇと失礼だろ、お袋!」


トト「お袋って呼び方、やっぱり強そう」


ガル「朝からうるさいけどな」


ミリ「うまい」


リリィ「猫も、うまい?」


猫「……」


猫はいつものように食堂の隅で丸くなっていた。


ただし、ジーナが来てから少しだけ距離を取っている。


リリィ「猫、ジーナの姉御を観察中」


ジーナ「おう、観察しとけ。猫の目は馬鹿にできねぇからな」


リリィ「猫、認められた」


トト「いいなあ」


レオン「猫に張り合うな」


トト「まだ張り合ってない!」


セシリア「張り合う直前の顔でした」


トト「顔、便利すぎ!」


エルはトトの隣で、静かにスープを飲んでいた。


昨夜より顔色はいい。


けれど、まだ少しだけ不安そうだ。


胸元から金色の光が漏れることはない。


リュシアとの練習で、少しずつ落ち着かせ方を覚え始めている。


ジーナはエルをちらりと見た。


そして、器の肉を少しだけエルの皿へ移した。


エル「え?」


ジーナ「食え」


エル「でも、ジーナさんの分……」


ジーナ「力が大きい奴は食わねぇと持たねぇ」


エル「……はい」


トト「俺も力大きい?」


ジーナ「お前は声が大きい」


トト「それ昨日も言われた!」


ジーナ「大事な力だぞ。助けたい時ほど、みんなを呼ぶんだろ?」


トトは壁の札を見た。


十、ぜったい帰る。

十一、助けたい時ほど、みんなを呼ぶ。

十二、帰ったら食べる。


トト「うん。今日は叫ぶ練習する」


マーサ「むやみに叫ばない」


トト「じゃあ、必要な時だけ!」


レオン「その判断が難しい」


ジーナ「難しいなら、まず呼べ。呼んで怒られるのと、呼ばずに後悔するのなら、前者の方がずっといい」


トトは真剣にうなずいた。


「分かった」


ジーナ「いい返事だ」


セシリア「記録します」


レオン「何でも記録するな」


セシリア「教育上重要です」


朝食後。


ジーナは食堂の入口で大きく伸びをした。


骨が鳴る。


ばき、という音に、トトが目を丸くする。


トト「今の音、体から?」


ジーナ「そうだ!」


ミリ「つよい音」


リリィ「猫は鳴らない」


猫「……」


ガル「鳴ったら怖いだろ」


ジーナは腰の山刀を確認し、短弓の弦を軽く弾いた。


「今日は王都の中を嗅ぐ」


ユアン「嗅ぐ?」


ジーナ「ああ。黒玻璃の根は、王都の暮らしの匂いをかぶって隠れてる。だから、土と風と匂いを追う」


エル「危なくない?」


ジーナ「危ない」


エルの顔が少し曇る。


ジーナはすぐに続けた。


「だから、準備して行く。危ないから行かない、じゃねぇ。危ないから、どうするか決めて行くんだ」


エル「……準備」


リュシア「良い考え方ね」


フィリア「ただし、無理は禁物です」


ジーナ「分かってる分かってる」


フィリア「本当に?」


ジーナ「……たぶん」


レオン「姉御」


フィリア「ジーナさんも要観察ですね」


セシリア「記録対象が増えました」


ジーナ「はっはっは! あたしまで観察されるのか!」


マーサ「されるようなことばかりするからだよ」


ジーナ「お袋に言われると反論できねぇな」


トト「レオン兄ちゃんと同じだ」


レオン「同じにするな」


ジーナ「同じじゃねぇ。あたしの方が素直だ」


マーサ「どっちもどっちだよ」


二人は同時に黙った。


セシリア「マーサ先生、最強説が補強されました」


レオン「説ではない」


ジーナ「事実だな」


マーサ「本人の前で言うんじゃないよ」


今日、王都内の追跡へ向かうのは、ジーナ、レオン、リュシア、セシリア、グレン。


フィリアは孤児院に残る。


エルの体調管理と、子どもたちの不安を見守るためだ。


アルトも孤児院に残る。


空が閉じられている以上、無理に連れ出す必要はない。


ジーナ「レオン、お前は後ろだ」


レオン「分かっている」


ジーナ「前に出るなよ」


レオン「分かっている」


ジーナ「黒い根を見つけても、すぐ斬るなよ」


レオン「……分かっている」


ジーナ「今の間は何だ」


セシリア「記録します」


レオン「するな」


リュシア「でも、必要な確認よ。あなた、黒玻璃が絡むと早いもの」


レオン「子どもに手を出された」


ジーナ「だからこそ、頭を冷やせ」


レオンはジーナを見た。


ジーナは真っ直ぐ見返す。


「怒りは燃料になる。でも、舵じゃねぇ。舵を握るのは頭だ」


レオンは少しだけ黙った。


そして、短くうなずいた。


ジーナ「よし」


トトが小声で言う。


「ジーナの姉御、かっこいい」


ガル「分かる」


ユアン「レオン兄ちゃんが素直に聞いてる」


エル「すごい」


ミリ「姉御」


リリィ「お袋の子」


猫「……」


出発前。


マーサがジーナに包みを渡した。


ジーナ「お、飯か?」


マーサ「飯だよ。途中で腹が減って暴れられたら困るからね」


ジーナ「さすがお袋、分かってる!」


マーサ「あと、こっちはレオンの分」


レオン「俺は持っている」


マーサ「足りない」


レオン「……」


ジーナ「はっはっは! お前も食わされてるじゃねぇか」


レオン「姉御もだろう」


ジーナ「お袋の飯なら喜んで食う」


レオン「俺も喜んではいる」


トト「顔に出てない」


ミリ「出てない」


リリィ「猫より出てない」


レオン「猫と比べるな」


こうして、一行は王都へ向かった。


王都の朝は賑やかだった。


パン屋の煙突からは香ばしい匂いが漂う。


荷車が石畳を進む。


市場へ向かう人々の声。


鍛冶屋の金属音。


洗濯物を干す家々。


子どもたちの笑い声。


いつもの王都。


いつもの日常。


だが、ジーナは歩き出してすぐに表情を変えた。


笑っていない。


目が鋭い。


鼻先がわずかに動く。


足元を見る。


壁を見る。


屋根の上の鳥を見る。


路地の奥の水たまりを見る。


グレン「何かあるか」


ジーナ「ありすぎる」


グレン「もう分かるのか」


ジーナ「ああ。王都の匂いが濃すぎる場所がある」


セシリア「濃すぎる?」


ジーナ「普通、匂いってのは混ざる。パン屋の匂い、馬の匂い、油の匂い、人の匂い。風で流れて、薄く重なる」


リュシア「ええ」


ジーナ「でも、あそこは違う」


ジーナは通りの向こうを顎で示した。


そこには、古い倉庫街があった。


王都の内側。


外壁に近い区域。


商会の荷を一時的に置く古い倉庫が並ぶ場所だ。


ジーナ「あの辺りだけ、匂いが上から塗られてる」


レオン「隠しているのか」


ジーナ「ああ。生活の匂いをわざと濃くして、黒い根の匂いを消してる」


グレン「人為的だな」


ジーナ「だろうな」


セシリア「倉庫街の所有者を確認します」


セシリアは書類を取り出す。


さすがに早い。


「この区画は、いくつかの商会が共同で使用しています。食品、薬草、布、油、木材……」


リュシア「ジーナさんが昨日言っていた匂いと一致するわね。灰、油、古い布、薬草、焼いた麦」


ジーナ「つまり、ここだ」


レオン「黒玻璃の拠点か」


ジーナ「いや」


ジーナは首を振った。


「拠点にしては浅い。ここは通り道だな。荷物の中に根を混ぜて、王都中へ運ぶための場所」


グレンの顔が険しくなる。


「黒い根を、荷に紛れ込ませていたのか」


セシリア「そうなると、どこへ運ばれたかが問題です」


リュシア「孤児院への寄付品や王城への納品にも混ざる可能性がある」


レオンの目が冷えた。


ジーナがすぐにレオンの肩を掴んだ。


「まだ斬るな」


レオン「何もしていない」


ジーナ「目がしてる」


セシリア「同意します」


リュシア「同意するわ」


グレン「私もだ」


レオン「……」


ジーナ「まず調べる。証拠を掴む。根の流れを読む。それから潰す」


レオンは短く息を吐いた。


「分かった」


一行は倉庫街へ入った。


古い石造りの倉庫。


木箱。麻袋。酒樽。古い布。乾燥薬草の束。


焼き麦の匂い。油の匂い。人の汗。馬の毛。


普通の倉庫街にしか見えない。


だが、ジーナは足を止めた。


「ここ」


目の前には、小さな倉庫があった。


古びた扉。


壁には、剥がれかけた商会印。


セシリアが目を細める。


「この印……」


レオン「どうした」


セシリア「マルクス商会の旧印に似ています」


リュシア「マルクス商会?」


レオンの表情が変わった。


かつて、子どもを商品として扱った商会。


マルクス・ヴェイン。


黒玻璃の影とも繋がりが疑われていた名前。


グレン「マルクス商会は捕まったあと、財産のほとんどを動かせなくされたはずだ。」


セシリア「はい。しかし、旧倉庫や名義変更された物件までは、すべて洗いきれていない可能性があります」


ジーナ「臭ぇな」


トトがいれば、きっとこう言っただろう。


“悪い匂い?”


だが、ここにいるのは大人たちだった。


ジーナは扉の前でしゃがみ、下の隙間を覗いた。


「最近開け閉めしてる。埃の切れ方が新しい」


グレン「鍵は」


レオンが扉に手を伸ばしかける。


ジーナ「待て」


レオンの手が止まる。


ジーナは地面に耳を近づけた。


しばらく静かにする。


王都の音の中で、彼女は倉庫の奥の音を聞いていた。


やがて言う。


「中に人はいねぇ。だが、魔道具はある」


リュシア「魔力反応は薄いわ。隠蔽されている」


ジーナ「床下だ」


グレン「突入する」


ジーナ「いや、まず罠を外す」


ジーナは腰の山刀を抜いた。


だが、扉を斬るわけではない。


扉の横の石壁。


そのわずかな隙間に刃を差し込む。


こり、と小さな音。


黒い糸のようなものが、扉の内側から切れて落ちた。


リュシア「感知糸……!」


ジーナ「扉を開けると、向こうに知らせる仕組みだな」


セシリア「ジーナさん、どうやって分かったのですか」


ジーナ「蜘蛛が巣を張る場所にしては、風の流れが変だった」


グレン「蜘蛛?」


ジーナ「ああ。こういう細い罠は、蜘蛛の巣と似てる」


リュシア「魔法理論を、野生の感覚で読んでいるのね」


ジーナ「よく分からんが、たぶんそうだ」


レオン「姉御らしい」


ジーナ「褒めてんのか?」


レオン「ああ」


ジーナ「ならよし」


感知糸を切った後、グレンが正式に倉庫の扉を開けた。


中は薄暗い。


麻袋が積まれている。


木箱が並んでいる。


一見、普通の物資倉庫だった。


しかし、奥へ進むと空気が変わった。


焦げたような匂い。


薬草の苦み。


湿った土。


そして、かすかな黒い魔力。


リュシアが水晶を掲げる。


菫色の光が床を照らす。


「あるわ。床下に魔力根」


ジーナ「この下だ」


レオン「下を開ける」


ジーナ「今度はいい」


レオンが床板に手をかけた。


力を込める。


音を立てすぎないように、しかし確実に床板を外す。


その下には、細い黒い根があった。


一本ではない。


何本も束になっている。


まるで、黒い血管のように倉庫の下を這っていた。


グレン「これは……」


セシリア「地下道のものより細い。しかし数が多い」


リュシア「中継根ね。魔力を大量に送るものではなく、少しずつ広げるための根」


ジーナ「荷物にくっつけて運べる太さだな」


レオン「どこへ行った」


ジーナ「待て」


ジーナは黒い根に直接触れず、土を少しだけ掬った。


鼻に近づける。


目を閉じる。


「三方向」


グレン「三方向?」


ジーナ「ああ。一つは王都西側の廃倉庫群。一つは下水の古い分岐。一つは……」


ジーナの表情が変わった。


「貧民区の施療院跡だ」


フィリアがいれば、きっと反応しただろう。


治療院。


施療院。


人の弱さと痛みが集まる場所。


リュシア「内側から揺らすには、嫌な場所ね」


レオン「弱った人間を狙う気か」


ジーナ「それだけじゃねぇ。施療院跡には、古い薬品、布、血の匂いが残ってる。黒い根を隠すには都合がいい」


セシリア「王城へ緊急連絡します。貧民区の施療院跡、立ち入り制限。グレン副団長、騎士団の配置を」


グレン「すぐに手配する」


レオン「行く」


ジーナ「待て」


レオン「今度は待てない」


ジーナ「今すぐ全員で突っ込む方が危ねぇ。相手はそこへ誘導したいのかもしれん」


リュシア「確かに。三方向のうち、一番感情的に動きやすい場所を匂わせている」


レオン「……」


セシリア「施療院跡に子どもや病人がいる可能性もありますが、罠の可能性も高い」


グレン「まず周囲を封鎖し、住民を避難。確認後に突入だ」


ジーナ「それがいい」


レオンは黒い根を見下ろした。


握った拳が、わずかに震えている。


ジーナはその拳を見て、少し低い声で言った。


「レオン」


レオン「……」


「お前が怒るのは分かる。でも、黒玻璃はそれを使う」


レオン「分かっている」


「なら、使わせるな。怒りは持ってけ。だが、手綱は離すな」


レオンは目を閉じた。


そして、開く。


「分かった」


ジーナは満足そうにうなずいた。


「よし」


その頃。


ひだまり孤児院では、エルの魔力練習が行われていた。


今日は、リュシアがいない。


代わりに、フィリアが見守っている。


机の上には、水を入れた小さな器。


エルはその前に座っている。


トト、ガル、ユアン、ミリ、リリィは少し離れて見ていた。


マーサは台所から見守っている。


フィリア「今日は魔力を動かす練習ではありません。落ち着く練習です」


エル「はい」


フィリア「胸の中に水があると思って、ゆっくり息をします」


エルはうなずく。


ゆっくり吸う。


ゆっくり吐く。


水面がわずかに揺れた。


金色の光が、ほんの少しだけ器の縁に浮かぶ。


トト「おお……」


フィリア「静かに」


トト「はい」


ミリ「きれい」


リリィ「すーぷみたい」


ガル「水だぞ」


ユアン「でも、温かそう」


エルは目を閉じたまま、もう一度息を吐いた。


金色の光が、ふわりと丸くなる。


その瞬間。


食堂の外で、アルトが低く鳴いた。


ぐるる。


警戒ではない。


注意を促す声。


エルの光が一瞬揺れた。


フィリア「大丈夫です。呼吸を続けて」


エル「はい……」


トトは立ち上がりかけた。


だが、壁の札を見る。


十一、助けたい時ほど、みんなを呼ぶ。


トト「マーサ先生、アルト先輩が鳴いた」


マーサ「よし。勝手に外へ出なかったね」


トト「はい!」


マーサは窓から庭を見る。


アルトは門の方を見ている。


そこに、王城の使者がいた。


マーサ「王城からだね。私が出る」


トト「俺も?」


マーサ「中で待つ」


トト「はい!」


トトは座った。


ガル「本当に待てるようになってきたな」


トト「今、すごく行きたい」


ユアン「正直」


エル「でも待ってる」


トト「待ってる!」


マーサが門へ向かい、使者から封書を受け取った。


戻ってきたマーサの顔は、少しだけ硬い。


フィリア「何か?」


マーサ「王都内で黒い根が見つかったらしい。レオンたちは無事だよ。ただ、貧民区の施療院跡に関わる可能性があるって」


フィリアの表情が変わった。


「施療院跡……」


トト「フィリア姉ちゃん、知ってるの?」


フィリア「昔、貧しい人たちが治療を受けていた場所です。今は使われていないはずですが……」


エル「人がいるかもしれない?」


フィリア「可能性はあります」


トトの顔が険しくなる。


「助けに行く?」


マーサ「行かない」


トト「……はい」


マーサ「助けるのは大人がやる。あんたたちはここを守る」


トトは拳を握った。


でも、立ち上がらなかった。


「ここを守る」


エルも小さくうなずいた。


「私も」


フィリアは二人を見て、やわらかく微笑んだ。


「それが今できる、とても大切なことです」


王都倉庫街。


黒い根は封印された。


倉庫は騎士団によって押さえられ、周辺の荷も確認対象となった。


セシリアは物資リストを見ている。


「この倉庫から出た荷の記録があります。薬草、古布、乾燥麦、油壺……いくつかは王都内の施療院跡周辺へ運ばれています」


グレン「やはりか」


リュシア「魔力根は物資に付着させて運べる。小さな根が集まれば、あとから中継点になる」


レオン「孤児院への荷は」


セシリア「現時点で、この倉庫から直接ひだまり孤児院へ送られた記録はありません」


レオンの肩が、少しだけ下がる。


だが、油断はしない。


ジーナ「今のところな。お袋の家には、あたしも確認したが根は入ってねぇ」


レオン「ああ」


グレン「施療院跡へ向かう。だが、今度は慎重に行く」


ジーナ「それがいい」


レオン「姉御、先導を頼む」


ジーナ「おう」


ジーナは歩き出した。


王都の大通りから外れ、古い路地へ入る。


石畳は割れ、ところどころ草が生えている。


洗濯物が頭上に揺れ、細い路地には人の暮らしの匂いがあった。


煮込み料理。湿った布。薬草。古い木材。


子どもの笑い声。


そして、その下に隠れた、かすかな黒い匂い。


ジーナ「……近い」


リュシア「魔力も感じるわ。かなり薄いけれど」


セシリア「住民の避難は?」


グレン「近衛が先行している。騒ぎにしすぎないよう、火災点検名目で外へ出している」


ジーナ「いい判断だ。黒玻璃に気づかれにくい」


レオン「施療院跡は?」


グレン「この先だ」


古い施療院跡。


かつて貧しい人々が治療を受けていた、小さな石造りの建物。


今は閉鎖され、扉には錆びた鎖がかかっている。


しかし、ジーナは扉ではなく、裏手へ回った。


「表は囮だ」


レオン「裏か」


ジーナ「ああ」


裏手には、小さな井戸があった。


使われていない井戸。


蓋は古い。


だが、蓋の端に新しい傷があった。


ジーナ「ここから入れてる」


リュシアが水晶をかざす。


菫色の光が井戸の中へ落ちていく。


途中で、赤黒い火花が散った。


「いるわね」


グレン「魔物か?」


リュシア「いいえ。魔道具。たぶん、黒い根の中継核」


レオン「壊す」


ジーナ「壊す前に確認だ」


レオン「またか」


ジーナ「まただ」


ジーナはレオンを見た。


「今壊せば、繋がってる先が切れる。先を追うなら、生かしたまま捕まえる」


レオン「……分かった」


リュシア「ジーナさんの言う通りよ。中継核をそのまま封じれば、接続先を逆探知できるかもしれない」


セシリア「黒玻璃の王都内経路を洗い出せます」


グレン「宮廷魔導士を呼ぶ」


リュシア「私が先に仮封印するわ」


リュシアが井戸へ向けて杖を掲げる。


星の魔法陣が広がる。


井戸の中から、赤黒い光が抵抗するように立ち上る。


レオンが前に出ようとする。


ジーナが肩を掴む。


「待て」


レオン「分かっている」


ジーナ「分かってる奴の足じゃねぇ」


レオン「……」


リュシア「二人とも、喧嘩しないで。集中するわ」


リュシアの魔法陣が井戸を包む。


菫色の星が、井戸の内側へ降りていく。


赤黒い光が暴れた。


その瞬間、どこかから声が聞こえた。


「……たすけて」


レオンの目が変わる。


トトたちを誘い出した黒い声石と同じ。


子どもの声。


ジーナ「動くな」


レオン「分かっている」


だが、声は続く。


「いたい……たすけて……」


グレンが険しい顔になる。


「また声か」


リュシア「本物ではないわ。井戸の中の魔道具が声を出している」


セシリア「心理誘導機能が残っている可能性」


ジーナは井戸を睨む。


「趣味が悪い」


レオン「同感だ」


声は、さらに変わった。


「レオン兄ちゃん……」


その場の空気が凍った。


トトの声だった。


偽物だ。


分かっている。


それでも、レオンの拳が強く握られる。


ジーナはレオンの前に立った。


「偽物だ」


レオン「ああ」


「本物のトトは、ひだまりにいる」


「ああ」


「本物なら、お前に勝手に井戸へ飛び込めなんて言わねぇ」


レオンは静かに息を吐いた。


「ああ」


リュシアの星の光が強まる。


「声に反応しないで。今、封じる」


声が歪む。


「どこへ……帰る……?」


レオンが低く答えた。


「ひだまりへ帰る」


その言葉と同時に、リュシアの魔法が井戸の底へ届いた。


赤黒い光が、菫色の星に包まれる。


ぱきん、と音がした。


声が消えた。


リュシア「仮封印、成功」


セシリア「記録します」


グレン「中継核は回収できるか」


リュシア「できる。ただし、慎重に」


ジーナ「井戸の縁、滑るぞ。あたしが降りる」


レオン「俺が」


ジーナ「殴るぞ」


レオン「……頼む」


ジーナは縄を使わず、井戸の内側の石を足場にして軽々と降りていった。


しばらくして、底から声が響く。


「見つけたぞ!」


数分後、ジーナが片手で井戸を登ってきた。


もう片方の手には、封印布に包まれた小さな黒い核。


拳ほどの大きさ。


黒い根がいくつも巻きついた、心臓のような魔道具だった。


リュシア「中継核……」


セシリア「王都内の根を繋いでいた中心の一つ、ですね」


グレン「一つ?」


リュシア「ええ。これ一つで全部とは思えない。けれど大きな手がかりよ」


ジーナは黒い核を見て、顔をしかめた。


「まだ臭う」


レオン「何の匂いだ」


ジーナ「人の手だ」


グレン「誰かが運んだということか」


ジーナ「ああ。しかも、最近だ」


セシリア「どの方向へ?」


ジーナは周囲を見た。


そして、視線を止める。


「東」


グレン「東には何がある」


セシリアが地図を開く。


「市場、古い礼拝堂、下水管理小屋、それから……」


セシリアの手が止まる。


「孤児院への寄付品を一時保管する、市の福祉倉庫があります」


レオンの空気が変わった。


ジーナの拳が、今回は飛ばなかった。


代わりに、低く言う。


「落ち着け」


レオン「……ああ」


ジーナ「まだ入ってねぇ。あたしが確認した」


レオン「だが、狙われている」


リュシア「ええ。おそらく、次の経路はそこ」


グレン「すぐに福祉倉庫を封鎖する」


セシリア「ひだまり孤児院へも連絡を」


レオン「俺が戻る」


ジーナ「戻れ」


レオンはジーナを見る。


ジーナは静かに言った。


「今のお前の役割は、ひだまりに戻ることだ」


レオン「……」


「追うのはあたしと騎士団がやる。中継核はリュシアとセシリアが読む。お前は帰る場所に戻って、子どもたちの前に立て」


レオンは目を閉じた。


そして、開いた。


「分かった」


ジーナ「よし」


リュシアは少しだけ微笑んだ。


「本当に、あなたが来てくれてよかったわ」


ジーナ「レオンが殴られずに済んでるからか?」


リュシア「少し」


レオン「少しか」


セシリア「かなりです」


フィリアがいれば、きっと同意しただろう。


その頃、ひだまり孤児院。


王城からの二通目の連絡が届いた。


マーサが読み上げる。


「王都内の福祉倉庫に、黒玻璃の根が向かっている可能性あり。孤児院への寄付品は、当面すべて確認後に受け取ること」


トト「寄付品?」


ガル「食べ物とか服とか?」


ユアン「薬とかも」


エル「それに黒い根が……?」


フィリア「まだ入ったと決まったわけではありません」


マーサ「でも、これからはもっと慎重に見る」


トトは壁の札を見た。


「十三、もらったものはすぐ開けない?」


セシリアはいない。


だが、マーサは少しだけ笑った。


「帰ってきたら、セシリアに相談しようかね」


ミリ「十三」


リリィ「増える」


猫「……」


トト「でも、大事でしょ?」


フィリア「はい。とても大事です」


エル「知らない石を触らない、の物バージョン?」


フィリア「そうですね」


ガル「じゃあ、知らない荷物も触らない」


ユアン「それ、いい」


マーサ「決まりは増えすぎると覚えにくい。でも、命を守るなら必要だね」


トトは真剣な顔でうなずいた。


「俺、覚える」


夕方。


レオンがひだまり孤児院へ戻ってきた。


門の外で、マーサが問いかける。


「どこへ帰る?」


レオン「ひだまりへ帰る」


門が開く。


トトが走り出しそうになり、止まった。


「走らない!」


レオン「よく止まった」


トト「今、走りたかった!」


レオン「ああ」


エルが前へ出る。


「大丈夫?」


レオン「俺は大丈夫だ」


フィリア「本当に?」


レオン「……今は本当に」


フィリア「後で確認します」


レオン「分かった」


マーサ「ジーナは?」


レオン「追跡を続けている。中継核を見つけた。福祉倉庫が狙われている可能性がある」


マーサの顔が険しくなる。


「寄付品か」


レオン「ああ。まだ入っていない。姉御が確認している」


マーサ「そうかい」


トト「ねえ、十三条作っていい?」


レオン「また増えるのか」


トト「でも大事!」


ガル「知らない荷物を勝手に開けない」


ユアン「寄付品も大人が確認してから」


エル「黒い根があるかもしれないから」


ミリ「荷物、さわらない」


リリィ「猫も開けない」


猫「……」


レオンは少しだけ考えた。


そしてうなずいた。


「必要だな」


トト「やった!」


マーサ「やった、じゃなくて守るんだよ」


セシリアがいないため、トトが自分で紙を持ってきた。


少し曲がった字で、壁の札の下に書く。


十三、知らない荷物は大人が見るまで開けない。


ミリが横に小さな箱の絵を描いた。


リリィが猫の肉球印を押そうとして、またマーサに止められた。


リリィ「猫印」


マーサ「まだ駄目だよ」


猫「……」


食堂に、少しだけ笑いが戻る。


だが、全員分かっていた。


黒玻璃は近づいている。


今度は声ではなく、地面でもなく、荷物。


善意に見えるもの。


日常の中にあるもの。


それを使って、内側から揺らそうとしている。


夜。


ジーナが戻ってきたのは、食堂の灯りが少し落ち着いた頃だった。


門の外から、いつもの豪快な声。


「おーい、お袋! 腹減った!」


マーサ「合言葉が先だよ!」


ジーナ「あ、そうだった!」


少し間があってから。


ジーナ「どこへ帰る?」


中からトトが大声で答えた。


「聞くのはこっち!」


食堂に笑いが起きた。


マーサが改めて言う。


「どこへ帰る?」


ジーナは、今度はちゃんと答えた。


「ひだまりへ帰る」


門が開く。


ジーナは泥だらけで、少し煤けていた。


だが、顔は笑っている。


片手には、また封印瓶。


もう片方には、マーサの包み紙。


空になっている。


マーサ「あんた、包み飯を全部食べたね」


ジーナ「追跡には燃料が必要なんだよ、お袋!」


レオン「成果は」


ジーナ「福祉倉庫に小さい根が三本。封じた。荷物の一部は止めた。だが――」


食堂の空気が静かになる。


ジーナは封印瓶を机に置いた。


中には、細い黒い根が三本。


まだ微かに赤黒く光っている。


「一本、行き先が消えてた」


レオン「消えた?」


ジーナ「ああ。誰かが途中で持ち去った。しかも、かなり慎重に」


グレンも後から入ってきた。


「王都内に協力者、あるいは黒玻璃の工作員がいる可能性が高い」


セシリアも一緒だった。


「福祉倉庫の荷物記録に、不自然な空白がありました。消えた荷の届け先は、現時点で不明です」


リュシア「中継核から逆探知中だけど、途中で切られているわ」


フィリア「つまり、まだどこかに黒い根が残っている」


ジーナ「ああ」


トトが息を呑む。


エルも、器を握る手に力を入れた。


レオンは静かに言った。


「次の狙いは」


ジーナは少しだけ黙った。


そして、壁の札を見る。


十、ぜったい帰る。

十一、助けたい時ほど、みんなを呼ぶ。

十二、帰ったら食べる。

十三、知らない荷物は大人が見るまで開けない。


ジーナ「たぶん、荷物じゃねぇ……」


マーサ「何だい」


ジーナ「人だ」


食堂が凍る。


ジーナは低い声で続けた。


「知らねぇ荷物を開けないなら、次は知ってる顔を使う。王都の中にいる誰か。善意の顔をした誰か。助けを持ってくるふりをする誰か」


レオンの目が冷える。


リュシアも表情を引き締めた。


セシリア「内部協力者による接近の可能性」


グレン「孤児院への訪問者を制限する必要がある」


トトは小さく言った。


「十四……」


レオン「何だ」


トトは壁の札を見た。


少し震えていた。


けれど、ちゃんと言った。


「知ってる人でも、いつもと違ったら大人に言う」


マーサはしばらく黙った。


そして、うなずいた。


「それは必要だね」


エルも小さく言う。


「怖いけど、大事」


ガル「俺も覚える」


ユアン「うん」


ミリ「言う」


リリィ「猫も、違ったら鳴く」


猫「……」


ジーナはトトを見た。


「いい判断だ、小僧」


トト「……俺、守れるかな」


ジーナは笑わなかった。


真面目な顔で答えた。


「一人で守ろうとするな」


トトは顔を上げる。


ジーナ「助けたい時ほど、みんなを呼ぶんだろ。怖い時も同じだ。守れるかな、じゃねぇ。みんなで守るんだ」


トトは壁の十一条を見た。


そして、うなずいた。


「うん」


その夜、ひだまり防護か条は、また増えた。


十四、知ってる人でも、いつもと違ったら大人に言う。


セシリアはその文字を見て、少しだけ息を吐いた。


「増えすぎです」


レオン「ああ」


セシリア「ですが、全部必要です」


マーサ「そうだね」


ジーナ「いいじゃねぇか。増えた分だけ、生きて帰る知恵が増えたってことだ」


リュシア「その考え方、好きだわ」


フィリア「子どもたちにも分かりやすいです」


ミリ「十四」


リリィ「いっぱい」


トト「でも、覚える」


エル「私も」


ジーナはスープの器を持ち上げた。


「なら、今日は十四か条記念だな」


レオン「記念にするな」


マーサ「まあ、食べる理由にはなるね」


ジーナ「さすがお袋!」


食堂に、少しだけ笑いが戻った。


けれど、夜の外。


王都のどこかで。


ひとつの荷が、誰かの手に渡っていた。


黒い根は消えた。


記録からも消えた。


匂いも薄い。


けれど、完全には消えていない。


古い布。薬草。焼いた麦。


そして、ほんのわずかな黒玻璃の匂い。


それを抱えた誰かが、暗い路地を歩いていた。


顔は見えない。


ただ、その人物は小さく呟いた。


「ひだまりへ……」


その声は、合言葉を真似るように。


けれど、どこか冷たく響いた。


黒玻璃の影は、王都の中でまだ動いている。


そして次は。


知っている顔をして、近づこうとしていた。


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