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第三十八話 叩かれるレオン


翌朝。


ひだまり孤児院の食堂には、まだ少しだけ重い空気が残っていた。


トトとエルは帰ってきた。


それは間違いなく、何よりも大きなことだった。


けれど、黒玻璃の影はまだ消えていない。


ラザルは逃げた。


エルの膨大な魔力は目覚めかけている。


空はまだ閉じられている。


地面にも、黒い根の痕跡が残っている。


そして、黒玻璃は次に何をしてくるか分からない。


それでも、食堂にはスープの匂いがあった。


マーサが鍋を混ぜている。


フィリアがトトとエルの顔色を見ている。


セシリアが記録板を開いている。


リュシアが菫色の水晶を確認している。


アルトは庭で見張り。


レオン・ガルディアは、いつもの席に座っていた。


ただし、今日は朝から王城へ向かう準備をしている。


ガル「レオン兄ちゃん、王城行くのか?」


レオン「ああ」


ユアン「報告?」


セシリア「はい。地下道での戦闘、ラザルの転移痕、第二号の欠片、エルの魔力について正式報告します」


エルの肩が、少しだけ揺れた。


トトがすぐ隣で言う。


トト「エルは悪くない」


エル「……うん」


ミリ「悪くない」


リリィ「猫も言ってる」


猫「……」


ガル「猫は何も言ってないけど、まあそうだな」


レオンはエルを見る。


「エル」


エル「はい」


レオン「今日、王城へは俺が行く。お前はここで休め」


エル「……私も行かなくていいの?」


リュシア「今日は休む日よ。昨日、魔力の感じ方を練習したばかりでしょう」


フィリア「体も心も、まだ回復途中です」


マーサ「王様への説明は大人がやるよ」


エルは少しだけ不安そうにした。


「でも、私のことなのに」


レオン「だからこそ、急がなくていい」


エル「……」


レオン「お前が話せる時に話せばいい」


エルは小さくうなずいた。


「はい」


トトが手を上げた。


トト「俺は?」


全員「休む」


トト「早い!」


マーサ「昨日説教を受けたばかりだろう?」


トト「はい……」


セシリア「そして今日は追加説教の予定が残っています」


トト「まだ残ってるの!?」


レオン「ああ」


トト「王城より怖い……」


ミリ「説教」


リリィ「第0段階反省」


レオン「変な段階を増やすな」


マーサはトトの器にスープをよそった。


「説教は帰ってからじゃないよ。あんたの場合、食べたあとだ」


トト「先に食べていいの?」


マーサ「腹が減ってる時に、まともな反省はできないだろ?」


トトはレオンを見た。


レオンも同じことをよく言う。


トト「……似てる」


マーサ「誰とだい?」


トト「いえ、何でもないです!」


レオン「何を言いかけた」


トト「まだ何もしてない!」


セシリア「その言葉も久しぶりですね」


朝食後。


王城へ向かうのは、レオン、セシリア、リュシア、フィリア。


フィリアは本来なら孤児院に残る予定だったが、エルの魔力と黒い結晶の影響について、治癒師としての見解が必要になった。


マーサは孤児院に残る。


アルトも残る。


空が閉じられているため、無理に動かさない判断だった。


出発前、トトがレオンの前に立った。


トト「レオン兄ちゃん」


レオン「なんだ」


トト「王様に、俺とエルは帰ってきたってちゃんと言ってね」


レオン「ああ」


エルも少し前に出る。


「私も……ちゃんとここにいますって」


レオン「ああ」


ミリ「すーぷ飲んだ」


リリィ「第0段階成功」


ガル「そこも報告するのか?」


セシリア「必要なら記録にあります」


レオン「必要ない」


リュシア「でも、王様は喜びそうね」


フィリア「特にルカ殿下が」


トト「王子様……」


ユアン「心配してるかな」


レオン「ああ。しているだろう」


マーサがレオンへ包みを渡した。


「王城で食べ忘れるんじゃないよ」


レオン「俺は子どもじゃない」


マーサ「子どもより心配なんだよ」


レオン「……」


セシリア「記録します」


レオン「するな」


王城。


会議室には、いつもより多くの人間が集まっていた。


国王エルドラン。


第一王女アリシア。


第二王子ルカ。


グレン・アシュフォード。


宮廷魔導長。


数名の文官と騎士。


本来なら、アリシアとルカはこの会議に出る予定ではなかった。


だが、二人とも強く希望した。


特にルカは、朝から三度もこう言ったらしい。


ルカ「トトとエルのことなら、僕も聞きます!」


グレンは頭を押さえていた。


国王「二人とも、静かに聞くと約束した」


アリシア「はい、父上」


ルカ「はい!」


セシリアが小さく言った。


「返事は良いですね」


レオン「トトと似ている」


グレン「否定できないのが困ります」


ルカはレオンを見ると、すぐに立ち上がりかけた。


ルカ「トトは!? エルは!?」


グレン「殿下」


ルカ「すみません!」


レオン「二人とも帰っています。怪我は軽い。今は孤児院で休ませています」


ルカの顔から、力が抜けた。


「よかった……」


アリシアも胸に手を当てる。


「本当に、よかったです」


国王は深く息を吐いた。


「まずは、帰還に安堵する」


そして、次の瞬間。


王の顔になった。


「だが、黒玻璃の行いは許されぬ。報告を」


セシリアが資料を広げた。


リュシアが魔力記録を提示する。


フィリアが治癒記録を説明する。


レオンは、地下道で起きたことを短く、正確に話した。


エルが狙われたこと。


黒玻璃が、エルの膨大な魔力を知っていたこと。


第二号の欠片が投入されたこと。


ラザルが、エルを“器”と呼んだこと。


トトは予定外だったが、餌として利用されかけたこと。


帰巣追印きそうついいんで追跡したこと。


第7段階、鬼神解放きじんかいほうで追跡と戦闘を行ったこと。


ラザルは逃走。


第二号の欠片は破壊。


仮面の破片と転移痕が残ったこと。


会議室は静かだった。


ルカは拳を握っている。


アリシアは唇を強く結んでいた。


国王の目は、王としての怒りを宿していた。


国王「子どもを器と呼んだか」


レオン「はい」


国王「燃料のように扱うつもりだったか」


リュシア「可能性は高いです。エルちゃんの魔力は、生命魔力に近い。黒い結晶の安定化、あるいは大型個体の起動に使えるかもしれません」


宮廷魔導長が低く唸る。


「生命魔力を黒晶の動力に……禁忌中の禁忌です」


フィリア「本人の心にも、体にも、非常に危険です」


アリシア「エルさんは、自分を責めていませんか」


フィリア「昨夜は、自分がここにいていいのかと不安を口にしました」


ルカ「そんな……!」


レオン「言いました。だから、違うと伝えた」


国王「当然だ」


アリシアは静かにうなずいた。


「力は罪ではありません」


レオンは少しだけアリシアを見た。


昨夜、自分がエルへ言った言葉と同じだった。


アリシア「悪いのは、力を奪い、悪用しようとする者です」


国王は娘を見て、少しだけ目を潤ませた。


「アリシア……」


グレン「陛下、会議中です」


国王「っふむ!!分かっておる!」


セシリア「親バカ反応、記録しますか?」


グレン「今は不要だ」


国王「少しならよい」


グレン「不要です」


ルカは真剣な顔で言った。


「父上、僕も強くなります」


国王「ルカ」


ルカ「トトたちを助けに行けるくらい」


レオン「殿下」


ルカがレオンを見る。


レオン「助けたい時ほど、みんなを呼ぶ」


ルカ「……」


レオン「今、孤児院の新しい決まりです」


セシリア「十一条目です」


ルカは少し悔しそうにした。


だが、すぐにうなずいた。


「分かりました。僕も覚えます」


アリシア「私も」


国王「私も覚えよう」


グレン「陛下もですか」


国王「父親にも必要だろう」


セシリア「親バカ対策にもなりますね」


国王「なるな」


グレン「なるのですか」


会議室に、少しだけ空気が戻った。


だが、問題は重いままだった。


グレンが地図を広げる。


「黒玻璃は西の廃塔、北西地下道、旧水路跡、複数の経路を使っています。空は閉じられ、地中も探られている。今後、追跡班と偵察班の増強が必要です」


宮廷魔導長「魔力の解析は進めますが、現場で痕跡を読む者が足りません」


リュシア「ラザルは、追跡を散らすのが上手い。普通の魔導士では偽経路に引っかかるわ」


グレン「レンジャーが必要だ」


レオン「ああ」


セシリア「ギルドから高位レンジャーを招集しますか?」


グレン「王国騎士団にも斥候部隊はある。しかし、黒玻璃相手には経験が足りん」


リュシア「魔力痕、地面の癖、獣道、地下水の流れ、全部読める人間が必要ね」


国王「心当たりはあるか」


レオンは、少しだけ黙った。


その沈黙に、リュシアが反応する。


「あるのね?」


レオン「……ある」


セシリア「マスターが即答しない時点で、相当な相手ですね」


フィリア「危険な方ですか?」


レオン「危険ではない」


少し間が空く。


「たぶん」


グレン「今、たぶんと言ったか」


ルカ「強い人ですか?」


レオン「ああ」


アリシア「レンジャーなのですか?」


レオン「ああ。武闘家でもある」


リュシア「武闘家でレンジャー?」


セシリア「珍しい組み合わせですね」


レオン「山でも森でも地下でも追える。足跡、匂い、土の湿り、風の向き、獣の反応まで読む。近接戦では素手で魔物を殴り倒す」


ルカの目が輝いた。


「かっこいい!」


グレン「そのような人物がいるなら、なぜ今まで呼ばなかった」


レオンは少しだけ目をそらした。


「呼ぶと面倒だからだ」


セシリア「面倒?」


リュシア「あなたが面倒と言う相手……?」


フィリア「かなり不安です」


国王「名は?」


レオンは静かに答えた。


「ジーナ・バルガ」


会議室の空気が止まった。


宮廷魔導長が目を丸くする。


グレンも、わずかに表情を変えた。


「ジーナ・バルガ……まさか、《山砕き》のジーナか?」


ルカ「山砕き!?」


アリシア「聞いたことがあります。西方山脈で魔獣の群れを単独で追い返したという……」


リュシア「待って。ジーナ・バルガって、あの豪快すぎてギルドの壁を三回壊したという武闘家?」


セシリア「資料で見たことがあります。元Aランク上位、ただし実力はSランク相当。素行欄に『酒場の喧嘩を止めようとして酒場ごと止めた』とあります」


フィリア「酒場ごと?」


レオン「昔の話だ」


グレン「なぜその人物と知り合いなのだ」


レオンはさらに少しだけ黙った。


そして言った。


「俺の姉御だ」


会議室が完全に沈黙した。


リュシア「……姉御?」


セシリア「マスターに、姉御?」


フィリア「お姉様、ではなく?」


レオン「ああ。姉御だ」


ルカ「レオン殿に姉御がいるのですか!?」


アリシア「初耳です」


グレン「私も初耳だ」


リュシア「私も知らないわよ。昔の仲間なのに」


セシリア「記録にもありません」


レオン「言っていないからな」


セシリア「またですか」


フィリア「聞かれなかったから言わなかった案件ですか?」


レオン「ああ」


リュシア「それで済ませていい情報ではないわ」


国王は興味深そうに身を乗り出した。


「レオン。その姉御とは、血縁か?」


レオン「血は繋がっていません。昔、俺が若い頃に世話になった人です」


リュシア「どれくらい世話になったの?」


レオン「飯を食わせてもらった。森での生き方を教わった。獣の追い方を教わった。殴られた」


セシリア「最後……」


フィリア「殴られた?」


グレン「レオン殿を?」


ルカ「レオン殿を殴れる人がいるのですか!?」


レオン「いる」


リュシアが目を細めた。


「それは、すごいわね」


レオン「姉御は、俺が無茶をするとすぐ殴る」


フィリア「それは素晴らしい方ですね」


セシリア「ぜひ呼びましょう!」


リュシア「賛成~」


レオン「判断が早い」


フィリア「レオン様を物理的に止められる人材は貴重です」


グレン「戦力としても、抑止力としても有用だな」


国王「決まりだ。ジーナ・バルガを招集する」


レオン「陛下」


国王「何だ」


レオン「呼ぶなら、覚悟してください」


国王「王城が壊れるのか?」


レオン「可能性はあります」


グレン「困る」


リュシア「でも必要ね」


セシリア「マスターの姉御。記録対象としても重要です」


レオン「記録するな」


セシリア「します」


国王「レオンを殴れる女性か……」


国王は少し考えた。


「マーサ殿以外にもいたのだな」


レオン「マーサ先生は別格です」


リュシア「それは納得できるわ」


フィリア「はい」


セシリア「異論ありません」


ルカ「マーサ先生ってそんなに強いのですか?」


レオン「強いぞ」


グレン「精神的に、だな」


レオン「……すべてだ」


その頃。


ひだまり孤児院。


マーサは台所で、くしゃみをした。


マーサ「……誰か私の噂したね」


トト「マーサ先生も風邪?」


マーサ「違うよ」


エル「大丈夫?」


マーサ「大丈夫。それより、あんたたち、今日も休む日だよ」


トト「休んでる!」


ガル「立ってるけどな」


トト「立って休んでる!」


ユアン「それは休み?」


リリィ「猫はちゃんと休んでる」


猫「……」


ミリ「猫、正解」


マーサは少し笑いながら、鍋を混ぜた。


「まったく、王城は今ごろ騒がしいだろうね」


エル「王様、怒ってるかな」


マーサ「怒ってるだろうね。でも、それはあんたを責める怒りじゃない」


エル「うん」


マーサ「黒玻璃に向ける怒りだよ」


トト「レオン兄ちゃんも怒ってた」


ガル「怖かったな」


ユアン「第7段階……」


エル「でも、来てくれた」


ミリ「帰った」


リリィ「十、ぜったい帰る」


トトは壁の札を見た。


十一、助けたい時ほど、みんなを呼ぶ。


トト「俺、今日は呼ぶ練習する」


マーサ「今日は何も起きないのが一番だよ」


トト「じゃあ、何も起きない時に呼ぶ練習!」


ガル「それはそれでうるさそう」


その時、マーサの表情がふと変わった。


台所の窓の外。


遠くの門の方へ視線を向ける。


マーサ「……まさかね」


トト「どうしたの?」


マーサ「いや」


マーサは少しだけ懐かしそうな顔をした。


「そろそろ、あの子の名前が出てもおかしくないと思っただけさ」


エル「あの子?」


マーサ「まだ知らなくていいよ」


トト「気になる!」


マーサ「気になっても勝手に探さない」


トト「はい!」


王城では、すぐにジーナ・バルガへの連絡が決まった。


問題は、どうやって呼ぶかだった。


グレン「ふむ、でっ?現在の所在は?」


セシリア「最後のギルド記録では、南西の大森林地帯。三か月前に大型魔獣の群れを追跡後、消息記録なし」


フィリア「消息不明なのですか?」


レオン「いつものことだ」


リュシア「いつものことなの?」


レオン「ああ。あの人は居場所を固定しない。森、山、荒野、辺境。だいたい獣道にいる」


グレン「連絡手段は?」


レオン「ある」


国王「何だ」


レオンは少し嫌そうな顔をした。


「笛です」


ルカ「笛?」


レオン「昔、渡された。どうしても必要な時だけ吹けと」


セシリア「持っているのですか?」


レオン「ああ」


リュシア「今まで使ったことは?」


レオン「ない」


フィリア「なぜですか?」


レオン「吹くと来るからだ」


リュシア「来て困るの?」


レオン「困る!来たら殴られる」


全員が少し黙った。


セシリア「何をしたのですか」


レオン「していない」


リュシア「絶対している顔ね」


フィリア「無茶をしたのですね」


グレン「おそらく」


レオン「昔の話だ」


セシリア「記録対象です」


レオン「やめろ」


国王「その笛を吹けば、ジーナ・バルガが来るのだな」


レオン「たぶん」


グレン「たぶんが多い」


レオン「姉御なので」


リュシア「理由になっているようで、なっていないわ」


国王は立ち上がった。


「では、王城の中庭を使え。壁から離れた場所でな」


グレン「陛下、壁から離れても危険では」


国王「ならば、訓練場だ」


レオン「訓練場なら壊れても直せます」


グレン「壊れる前提なのか」


しばらくして、王城の訓練場に一同が移動した。


広い砂地。


周囲には騎士たち。


アリシアとルカも見守っている。


国王は少し離れた場所。


グレンはすでに頭を押さえている。


レオンは懐から、小さな骨笛を取り出した。


古びている。


だが、丁寧に手入れされていた。


リュシア「本当に持っていたのね」


レオン「捨てる理由がない」


フィリア「大切なものなのですね」


レオン「……まあな」


セシリア「マスターの姉御関連記録、重要」


レオン「記録するな」


レオンは骨笛を口に当てた。


そして、短く吹いた。


音は、ほとんど聞こえなかった。


ただ、空気が震えた。


遠くの森へ。


山へ。


獣道へ。


見えない何かが走っていくような、不思議な感覚。


ルカ「……鳴ってない?」


リュシア「人間の耳には聞こえにくい音ね。獣や森に届く種類の笛だわ」


アリシア「レンジャーの合図……」


レオンは笛を下ろした。


国王「どれくらいで来る?」


レオン「近くにいれば、すぐです」


グレン「遠ければ?」


レオン「分かりません」


セシリア「非常に不確定です」


その瞬間だった。


訓練場の外。


王城の高い塀の向こうで、鳥が一斉に飛び立った。


ざわり。


騎士たちが顔を上げる。


グレン「何だ?」


次に、地面がわずかに揺れた。


どん。


遠くから、何かが近づいてくる音。


どん。


どん。


どん。


まるで、大型の魔獣が走ってくるような音。だんだん早くなってくる。


ルカ「魔物!?」


レオン「違う」


リュシア「まさか」


レオンは少しだけ目を閉じた。


「近くにいたのか」


次の瞬間。


王城訓練場の塀の上に、人影が現れた。


高い塀だ。


普通の人間なら、よじ登るだけでも大変な高さ。


だが、その人物は、まるで低い柵でも越えるように立っていた。


背の高い女性だった。


褐色に焼けた肌。


短く乱れた赤茶の髪。


肩には獣皮の外套。


腰には短弓と山刀。


両腕には武闘家の籠手。


背中には旅荷物。


目は鋭く、笑みは太陽みたいに豪快。


女性「おうおうおうおう!!!!」


その声が訓練場に響いた。


「誰が呼んだかと思えば、レオンじゃねぇか!」


ルカ「来たあああ!」


グレン「塀を越えた……」


セシリア「王城防衛記録に大きな問題が」


女性は塀の上から飛び降りた。


着地。


どん、と訓練場の砂が跳ねる。


騎士たちが思わず身構える。


だが、女性は気にしない。


一直線にレオンへ歩いてくる。


レオンは動かない。


ただ、少しだけ嫌そうな顔をした。


女性「久しぶりだなぁ、レオン」


レオン「姉御」


ジーナ・バルガは、にっと笑った。


次の瞬間。


拳が飛んだ。


ごんっ。


鈍い音が、訓練場に響いた。


レオンの頭に、拳骨が落ちた。


王城全員が凍った。


リュシア「……殴った」


フィリア「本当に殴りました」


セシリア「記録します。レオン、頭部を拳骨で打たれる」


グレン「レオン殿を……」


ルカ「すごい……!」


国王「これは、すごい人物を呼んだな」


レオンは頭を押さえた。


痛がっているというより、慣れている顔だった。


レオン「いきなり殴るな」


ジーナ「馬鹿野郎。笛を吹くほどの事態になるまで、なんで呼ばねぇ」


レオン「必要になったから呼んだ」


ジーナ「遅ぇ」


もう一発、拳骨が落ちた。


ごんっ。


セシリア「二回目です」


レオン「記録するな」


ジーナ「ん? 何だこの眼鏡の嬢ちゃん。記録係か?」


セシリア「副ギルドマスター、セシリア・ノートです」


ジーナ「おう、よろしくな! こいつが無茶したら全部書いとけ!」


セシリア「承知しました」


レオン「承知するな」


ジーナは豪快に笑った。


「はっはっは! 相変わらず怖い顔してんな、レオン!」


リュシアが前へ出る。


「あなたが、ジーナ・バルガ?」


ジーナ「おう。《山砕き》なんて呼ぶ奴もいるが、ジーナでいい」


リュシア「私はリュシア・アルヴェイン。星詠みの魔女よ」


ジーナ「知ってるぜ。レオンの昔の魔法使いだろ?」


リュシア「昔の、だけではないわ」


ジーナはにやりと笑った。


「お? そういう話か?」


リュシア「どういう話かしら」


レオン「今はその話ではない」


ジーナ「はっはっは! 鈍いのも相変わらずか!」


リュシア「本当に昔から?」


ジーナ「ああ。昔からだ」


セシリア「貴重な証言です」


フィリアも近づいた。


「王都治療院のフィリア・ローレンスです。レオン様の健康管理をしています」


ジーナは目を丸くした。


「こいつの健康管理? 大変だろ」


フィリア「はい」


レオン「即答するな」


ジーナ「よし、嬢ちゃんも味方だ。こいつが無茶したら殴れ」


フィリア「私は治癒師なので」


ジーナ「なら、治してから殴れ」


フィリア「検討します」


レオン「検討するな」


国王が前へ出た。


「ジーナ・バルガ殿」


ジーナは国王を見る。


一瞬だけ、表情を改めた。


だが、堅苦しすぎない。


自然に、堂々と頭を下げる。


「王様か。ジーナ・バルガ、呼ばれて来た」


グレン「陛下への口調が……」


国王は手で制した。


「よい。急ぎの事態だ。堅苦しい礼より、力を借りたい」


ジーナ「話は?」


レオン「黒玻璃の使徒。子どもが狙われた。地下道を使われた。追跡役がいる」


ジーナの顔から、笑みが消えた。


「子ども?」


レオン「ああ」


ジーナ「さらわれたのか」


レオン「取り返した」


ジーナ「怪我は」


レオン「軽い」


ジーナはレオンを見た。


しばらく黙る。


そして、今度は拳ではなく、レオンの胸を拳で軽く叩いた。


「よく帰した」


レオン「……ああ」


ジーナ「で、まだ終わってねぇんだな」


レオン「ああ」


ジーナはにっと笑った。


その笑みは、先ほどよりずっと獣に近かった。


「なら、追うぞ」


ルカが目を輝かせる。


「かっこいい……」


アリシアも静かに見つめている。


グレンはジーナの立ち方を見ていた。


隙がない。


武闘家としての重心。


レンジャーとしての周囲を見る目。


ただ豪快なだけではない。


この女性は、本物だ。


ジーナは訓練場の砂を指でつまんだ。


そして匂いを嗅ぐ。


次に、王城の壁の方を見る。


「妙な空だな。飛ぶ奴には重い」


リュシア「分かるの?」


ジーナ「鳥の動きが変だ。風も湿ってる。黒い膜でも張ってんのか?」


リュシア「その通りよ」


ジーナ「地面は?」


レオン「黒い根が来た」


ジーナ「だろうな。王都の土が少しざらついてる」


セシリア「今、訓練場の砂だけで?」


ジーナ「砂は喋るぞ」


ルカ「砂が喋る!?」


ジーナ「比喩だ、坊主!」


ルカ「坊主……!」


国王「ルカ、嬉しそうにするな」


ジーナはレオンに向き直った。


「地下道の現場へ行く。今すぐだ」


フィリア「レオン様は今日は休む予定です」


ジーナ「だそうだぞ、レオン」


レオン「俺も行く」


ジーナの拳が再び上がった。


レオン「……」


ジーナ「昨日、第7段階を最初から出して、追跡魔法まで使ったんだろ?」


レオン「誰から聞いた」


ジーナ「顔に書いてある」


セシリア「非常に有能です」


ジーナ「今日は休め」


レオン「だが」


ごんっ。


三回目の拳骨だった。


ジーナ「だが、じゃねぇ」


レオン「……」


ジーナ「お前が守った場所を、次はあたしが追う。そういうために呼んだんだろうが」


レオンは沈黙した。


ジーナ「違うか?」


レオン「……違わない」


ジーナ「なら任せろ」


リュシアは少し驚いたようにジーナを見た。


フィリアは小さくうなずいている。


セシリアはものすごい勢いで記録している。


グレンは深く息を吐いた。


「これは確かに、貴重な戦力だ」


国王「ジーナ殿。正式に依頼する。黒玻璃の追跡、地下道および周辺経路の調査、孤児院防衛への助力を頼みたい」


ジーナは親指を立てた。


「任せな」


そして、レオンを見る。


「それと、あとで孤児院に顔出すぞ」


レオン「なぜ」


ジーナ「マーサさんに挨拶する」


レオン「そうか」


ジーナ「そりゃ~当たり前だろ!あたしがあんたを拾った時、最初に怒ったのがマーサさんだ」


リュシア「待って」


セシリア「重要情報です」


フィリア「拾った?」


グレン「話が増えたな」


レオン「昔の話だ」


ジーナ「昔の話ほど大事なんだよ」


その頃。


ひだまり孤児院で、マーサはまたくしゃみをした。


マーサ「……今度は確実に噂してるね」


トト「誰が?」


マーサ「厄介で、頼りになる女だよ」


エル「女の人?」


マーサは鍋を混ぜながら、少しだけ笑った。


「もうすぐ来るかもしれないね」


庭でアルトが低く鳴いた。


ぐるる。


まるで、その気配をもう感じ取っているようだった。


王城訓練場では、ジーナが肩を回していた。


「さて、黒玻璃だか黒なんとかだか知らねぇが」


彼女はにっと笑う。


豪快で、強くて、迷いのない笑みだった。


「子どもに手ぇ出した奴の足跡は、地の果てまで追ってやる」


レオンは静かに言った。


「頼む、姉御」


ジーナは笑った。


「おう。任せろ、弟分」


その言葉に、王城中がまた固まった。


弟分。


レオンを、そう呼べる女性。


ジーナ・バルガ。


武闘家にしてレンジャー。


豪快で、強くて、そして唯一レオンを本気で殴れる女。


黒玻璃を追うための、新しい戦力が加わった。


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