外伝 トトの一日
朝、ひだまり孤児院で一番最初に目を覚ますのは、だいたい年寄りか、腹を空かせた子どもだ。
そしてトト・ミルクは、その両方ではないのに、だいたい早起きだった。
トトは布団の中で目を開けると、しばらく天井を見つめた。
窓の外はまだ少し薄暗い。
鳥の鳴き声が遠くで聞こえる。
隣の寝台では、小さな子がまだすやすや眠っていた。
トトはもぞもぞと起き上がる。
トト「……よし」
――今日は、なんかいいもの見つかる気がする。
特に根拠はない。
でもトトは、そういう日は本当に何かが起こると思っていた。
静かに寝台を降りて、足音を立てないように廊下へ出る。
朝の孤児院は、昼間とはまるで違う。
少し冷たくて、静かで、まだ夢の続きを見ているみたいだった。
だが、その静けさは長くは続かない。
マーサ「トト」
背後から声が飛んできた。
トトはびくっと肩を跳ねさせる。
ゆっくり振り向くと、そこにはエプロン姿のマーサ・ベルが立っていた。
トト「……おはよう、マーサ先生」
マーサ「おはよう。で、どこへ行くつもりだったんだい?」
トト「どこにも?」
マーサ「その顔は、どこかへ行く顔だね」
トト「顔で分かるのやめてよ……」
マーサ「まずは顔を洗ってきな。それから食堂の机を拭いておくれ」
トト「えー」
マーサ「えー、じゃないよ。朝ご飯を食べる場所だろう」
トト「はーい」
トトはしぶしぶ返事をした。
――今日はいいもの見つかる気がしたのになあ。
でも、マーサ先生に逆らっても勝てない。
それはもう、何度も学んでいる。
井戸で顔を洗って戻ると、食堂にはもう何人か集まり始めていた。
まず目に入ったのは、年長組のミナ・リレットだった。
十五歳のミナは、すでに袖をまくって食器を並べている。
茶色の髪を後ろでまとめ、眠そうな子どもたちに声をかけて回る姿は、まるで小さな母親みたいだった。
ミナ「トト、布巾持って。そっちの机お願い」
トト「今やろうと思ってた」
ミナ「じゃあ、今すぐやって」
トト「はい」
トトは素直に布巾を受け取る。
――ミナ姉は、マーサ先生ほどじゃないけど、逆らえないんだよな。
優しい。
でも、手を抜くとすぐに見つかる。
その近くでは、ガルが大きなあくびをしながら椅子を運んでいた。
十二歳のガルは、ぶっきらぼうで口も悪いが、力仕事になると頼りになる。
乱れた黒髪に、不機嫌そうな目つき。
初めて来た人には怖がられそうだが、泣いている小さい子がいるとさりげなく近くに座るようなやつだ。
ガル「おいトト、そこ拭いたらこっちもやれ」
トト「なんで俺ばっかり」
ガル「口より手を動かせ」
トト「ガルだって口動かしてるじゃん!」
ガル「俺は動かしながらやってんだよ」
トト「ずるい!」
ガルは鼻で笑った。
その時、食堂の隅から小さな声がした。
リリィ「……パン、ある?」
トトが振り向くと、小さな女の子が椅子にちょこんと座っていた。
リリィ・フェン。六歳。
白っぽい髪を肩のあたりで切りそろえた、おとなしい子だ。
あまり多くは話さないけれど、時々みんなが驚くようなことをぽつりと言う。
マーサ「あるよ。まだ焼いてるところだ」
リリィ「よかった」
トト「リリィ、起きるの早いな」
リリィ「お腹すいた」
トト「それは俺も」
ガル「お前はいつでも腹減ってるだろ」
トト「ガルもじゃん」
ガル「俺は成長期だ」
トト「俺だって成長期!」
ミナ「二人とも、成長する前に机拭いて」
ガルとトトはそろって黙った。
食堂には少しずつ子どもたちが集まってくる。
年上の子。
年下の子。
まだ半分眠っている子。
寝癖がひどい子。
毛布を引きずったまま来る子。
みんな事情は違うけれど、朝の食堂ではだいたい同じ顔をする。
眠そうで、ぼんやりしていて、腹が減っている顔だ。
トトは机を拭きながら、それを見て少しだけ嬉しくなる。
――こうやって朝みんながいるの、なんか好きなんだよな。
誰かがいないと、落ち着かない。
たぶん、自分もここに来たばかりの頃は違った。
最初は、どこにいても借り物みたいだった。
でも今は違う。
ここは、自分の場所だと思える。
やがて、朝食が並んだ。
薄い野菜のスープ。
少し固めのパン。
塩を振ったゆで芋。
豪華ではない。
でも、温かかった。
マーサ「ほら、並びな。食べる前に手を洗ったかい?」
子どもたち「はーい!」
マーサ「声だけじゃなくて、本当に洗ったんだろうね?」
トトはそっと視線を逸らした。
ミナ「トト」
トト「……今から行く」
ミナ「最初から行って」
トト「なんで分かるの」
ミナ「分かるから」
トトはまた井戸へ向かった。
――みんな、なんで俺のことすぐ分かるんだろ。
朝食が始まると、食堂は一気に賑やかになった。
ガル「今日のパン、ちょっと固くね?」
ミナ「文句言わない」
ガル「文句じゃなくて感想」
トト「固いけど、うまい」
リリィ「スープ、あったかい」
マーサ「冷たいよりはいいだろう」
トト「それはそう」
小さな子がパンを落とし、別の子がスープをこぼし、誰かが泣きかけて、誰かが笑う。
そのたびに、ミナが立ち、ガルが雑巾を取り、マーサが声をかける。
トトも時々手伝う。
いや、正確には、手伝おうとして別のことを始めてしまう。
小さな子が落としたスプーンを拾おうとして、椅子の下に転がっていた青いボタンを見つけたり。
窓の外で鳴いている鳥に気を取られたり。
ミナ「トト、今はスプーン」
トト「そうだった」
朝食が終わると、次は掃除の時間だった。
ひだまり孤児院では、できることは自分たちでやる。
床を掃き、食器を洗い、洗濯物を干し、庭の雑草を抜く。
トトは本当は、外で走り回る方が好きだ。
でも掃除の時間は嫌いではない。
誰かと一緒にやるからだ。
その日のトトの担当は、庭掃除だった。
ガル「ほら、ほうき」
トト「なんでガルも庭なんだよ」
ガル「力仕事があるからだろ」
ミナ「私は洗濯。リリィは洗濯ばさみ集めて」
リリィ「うん」
トト「リリィ、それ楽でいいな」
リリィ「トトもやる?」
トト「いや、やっぱいい」
ガル「なんだそりゃ」
庭に出ると、朝の光が少しずつ強くなっていた。
夜の雨のせいで土が少し湿っている。
草の先には小さな水滴がついていた。
トトはほうきを持ったまま、庭の端まで歩く。
塀の近くに、小さな花が咲いていた。
黄色い花だ。
昨日は咲いていなかった気がする。
トト「お、見つけた」
――やっぱり今日、なんかある日だ。
しゃがみこんで花を見ていると、後ろから声がした。
ガル「仕事しろ」
トト「見てこれ」
ガル「花じゃん」
トト「咲いてた」
ガル「春だからだろ」
トト「でも昨日なかったぞ」
ガル「昨日見てなかっただけじゃねぇの」
トトは少し考えた。
たしかにそうかもしれない。
でも、それでも見つけたのは自分だ。
それはちょっと特別な感じがする。
トト「ミナ姉に見せよう」
ガル「先に掃除」
トト「またそれ!」
掃除が終わる頃には、日がかなり高くなっていた。
洗濯物が風に揺れ、庭には明るい声が響いている。
小さい子どもたちは、庭の端で石を並べて遊んでいた。
ミナは洗濯物を干しながら、時々その様子を見ている。
リリィは洗濯ばさみを集め終わったあと、なぜか猫と向かい合っていた。
トト「リリィ、何してんの?」
リリィ「話してる」
トト「猫と?」
リリィ「うん」
トト「話せるの?」
リリィ「たぶん向こうは話してる」
トト「すごいな……」
トトは本気で感心した。
――俺も猫と話せたら楽しそうなのに。
昼前になると、みんなで少しだけ自由時間になった。
トトは待ってましたとばかりに走り出す。
トト「よーし、探検!」
ガル「どこ行くんだ」
トト「庭の裏!」
ミナ「塀の外には出ないこと!」
トト「分かってるー!」
本当に分かっているかどうかは怪しかったが、とりあえず返事はした。
庭の裏には、使わなくなった木箱や壊れた桶、古い薪置き場がある。
トトにとっては、そこは立派な探検場所だった。
木箱の隙間をのぞきこみ、石をひっくり返し、棒で土をつつく。
トト「おっ」
見つけたのは、少し欠けた木の笛だった。
茶色くて古い。
泥がついているけれど、形はちゃんと残っている。
トトはそれを持って、服の袖でごしごし拭いた。
トト「すげぇ、宝物だ」
吹いてみる。
ひゅるる、と変な音が鳴った。
トト「なんだこれ」
もう一度吹く。
今度は、ぴぃ、と少しだけきれいな音がした。
トト「おお!」
その時、小さな足音が近づいてきた。
リリィ「なにしてるの」
トト「笛見つけた」
リリィ「いい音」
トト「ちょっとだけな」
リリィ「トト、うれしそう」
トト「そりゃ、見つけたからな」
リリィは笛をじっと見つめる。
リリィ「昔の子のかも」
トト「昔の子?」
リリィ「ここにいた子」
トトは少しだけ黙った。
ひだまり孤児院には、今いるみんな以外にも、たくさんの子どもがいた。
ずっと前にここで暮らして、出ていった子。
大人になった子。
もう会えない子。
そのことを、トトはまだうまく考えられない。
でも、たしかにこの笛も、誰かのものだったのかもしれない。
トト「……じゃあ、借りる」
リリィ「うん」
トト「返す相手いないし」
リリィ「じゃあ、トトのだね」
トト「そっか」
なんだかそれは、少しだけ嬉しくて、少しだけ寂しい言い方だった。
昼ご飯の時間になると、またみんなが食堂に集まった。
昼は豆の煮込みと薄いパン、それから少しの野菜。
朝よりもにぎやかで、みんなの目も完全に覚めている。
トトは見つけた笛をミナに見せた。
トト「見て、宝物」
ミナ「庭の裏で拾ったの?」
トト「うん」
ミナ「ちゃんと洗った?」
トト「……まだ」
ミナ「まず洗ってから」
トト「またそれ!」
ガル「お前、何でもまず口にするか持ち歩くかだからな」
トト「してないし」
ガル「昨日も石拾って食いかけたろ」
トト「あれは芋に見えたんだよ!」
ミナ「見えないよ」
リリィ「ちょっと見えた」
トト「ほら!」
ミナは笑いをこらえながら首を振った。
昼ご飯のあとは、年上の子たちが読み書きの勉強をし、小さい子たちは昼寝をしたり遊んだりする時間になる。
トトは勉強があまり好きではない。
いや、かなり苦手だ。
文字は逃げないくせに、見ていると眠くなる。
その日も、机に向かった途端に頬杖をついていた。
ミナ「トト、ちゃんと書く」
トト「書いてる」
ミナ「同じ文字を三つ続けてるだけ」
トト「練習」
ガル「雑すぎるだろ」
トト「ガルはうるさい」
ガル「俺はもう終わった」
トト「ずるい!」
ミナ「ずるくない。先にやっただけ」
トトは紙を見つめた。
そこには自分の名前を書く練習が並んでいる。
トト。
トト。
トトト。
トト「一個多い……」
――文字って難しいなあ。
でも、レオンは前に言っていた。
「読めた方が困らない。書けた方がもっと困らない」
よく分からない言い方だったけれど、なんとなく正しい気はした。
トト「……よし」
少しだけ真面目に、もう一度書く。
トト。
今度はちゃんと書けた。
ミナ「できたじゃん」
トト「まあな!」
ガル「今ので威張るなよ」
トト「できた時は威張っていいんだよ」
ガル「誰ルールだ」
トト「俺ルール」
勉強のあと、午後はみんなで庭遊びになった。
ボールの代わりに丸めた布を投げ合い、走って、転んで、笑う。
ガルは本気を出しすぎて小さい子を泣かせそうになり、ミナに怒られた。
トトは笛を鳴らしながら走って、自分で自分につまずいた。
リリィはなぜか猫と一緒に木陰で見ていた。
トトは息を切らしながら空を見上げる。
青い空。
白い雲。
揺れる洗濯物。
孤児院の屋根。
ついこの前、あそこが落ちたのだ。
トト「……直ってよかったな」
ガル「何が」
トト「屋根」
ガル「ああ」
ガルも空を見上げた。
ガル「雨降ったら困るしな」
トト「レオン兄ちゃん、すぐ来たよな」
ガル「そりゃ来るだろ」
トト「忙しいのに」
ガル「……あの人、そういうとこあるし」
ぶっきらぼうに言いながらも、ガルの声は少しだけ柔らかかった。
ミナ「きっと、ここが大事なんだよ」
ミナは洗濯物を取り込みながら言った。
ミナ「私たちにとっても、レオンにとっても」
トトは少し考える。
――そうなのかな。
たぶん、そうなんだろう。
レオンはいつも忙しそうだ。
ギルドマスターで、偉くて、強くて、街の人にも頼られている。
でも、孤児院に来た時はちょっと違う。
大きな体で台所に立ったり、壊れた椅子を直したり、小さい子を肩車したりする。
それを見ていると、レオンは世界最強の冒険者というより、ひだまり孤児院のレオン兄ちゃんなんだと思う。
夕方になると、食堂にはまたいい匂いが漂い始めた。
今日はマーサが煮込みを作っている。
ミナがパンを切り、ガルが薪を運び、トトは野菜を洗う係になった。
トト「これでいい?」
ミナ「ちゃんと土を落として」
トト「落としてるって」
ミナ「その葉っぱ、まだ泥ついてる」
トト「細かいなあ」
ガル「雑なんだよお前は」
トト「ガルはうるさいな!」
リリィ「けんか?」
トト「違う」
ガル「いつものだ」
マーサ「そのいつものをしながら手を止めるんじゃないよ」
子どもたち「はーい」
夕飯前には、みんな少しだけ静かになる。
腹が減ってくるからだ。
食堂の椅子に座って、鍋を見つめる子。
こっそりつまみ食いを狙う子。
目を閉じて匂いを吸い込んでいる子。
トトもその一人だった。
トト「今日のご飯、うまそう」
リリィ「毎日そう言ってる」
トト「毎日うまそうだからな」
ガル「それは分かる」
ミナ「みんな座って。もうすぐだから」
その時、玄関の方で扉の開く音がした。
子どもたちが一斉にそちらを見る。
重い足音。
少し遅れて、低い声。
レオン「ただいま」
食堂の空気がぱっと明るくなる。
トト「レオン兄ちゃん!」
思わず立ち上がって駆け出す。
玄関に立っていたのは、王都最大のギルドをまとめる男、レオン・ガルディアだった。
大柄で、ごつくて、怖い顔。
でも今は片手に紙袋を提げている。
トトはすぐに気づいた。
トト「それ、何?」
レオン「パン屋で少し安くしてもらった端パンだ」
ガル「うまいやつじゃん」
ミナ「ロナさんのところの?」
レオン「ああ。少しだけ分けてもらった」
マーサが食堂から顔を出す。
マーサ「おかえり。今日は少し早いじゃないか」
レオン「会議が長引かなかった」
セシリアの姿はない。
たぶんギルドで、まだ仕事を片付けているのだろう。
トトは紙袋の中をのぞき込む。
香ばしい匂いがした。
トト「やった!」
レオン「その前に手を洗え」
トト「……はーい」
レオン「返事のわりに足が遅い」
トト「今行くって!」
トトは井戸の方へ走りながら、少しだけ笑った。
朝からいろんなことがあった。
机を拭いて。
花を見つけて。
笛を拾って。
勉強して。
遊んで。
手伝って。
怒られて。
笑って。
たぶん、特別すごい一日じゃない。
でもトトは思う。
――こういう日、いいな。
誰かがいて、飯があって、帰ってくる人がいる。
それだけで、一日はちゃんといい日になるのかもしれない。
食堂に戻ると、レオンが袋から端パンを出していた。
ごつい手で、器用にちぎって皿に並べている。
リリィ「レオン、パンのいい匂い」
レオン「そうだな」
ガル「今日の夕飯、ちょっと豪華だな」
ミナ「その分、明日もちゃんと働いてもらうけどね」
トト「えー!」
レオンはその声を聞いて、少しだけ笑った。
レオン「働いた分、腹は減る。腹が減った分、飯はうまい」
トト「それ、レオン兄ちゃんっぽい!」
レオン「そうか?」
トト「うん!」
マーサ「ほら、全員そろったなら席につきな」
子どもたちがわらわらと席に着く。
トトも自分の席へ走る。
窓の外では、夕暮れが空をやわらかい色に染めていた。
今日もひだまり孤児院の一日は終わっていく。
泣いた子もいた。
笑った子もいた。
怒られた子もいた。
でも最後には、みんな同じ食堂に集まる。
トトは椅子に座り、隣のレオンをちらりと見た。
世界最強のギルドマスター。
でも今は、ただのレオン兄ちゃんだ。
トトは少しだけ胸を張って言った。
トト「今日さ、俺、笛見つけたんだ」
レオン「ほう」
トト「あと、文字もちゃんと書けた」
レオン「それはすごいな」
トト「だろ?」
レオン「じゃあ明日はもっと書くか」
トト「それは別!」
食堂に笑い声が広がる。
レオンは小さく肩を揺らして笑った。
そして、マーサの合図で、みんなそろって手を合わせる。
みんな「いただきます!」
トトは温かい皿を前にして思った。
――やっぱり、今日はいい日だった。
そして明日も、きっとまた何か見つかる。
そんな気がした。




