第二話 約束の箱
記録魔道具から聞こえてきた声は、古く、かすれていた。
けれど、不思議と温かい声だった。
年老いた女性の声。
静かで、少しだけ笑っているような声。
記録魔道具『……ひだまり孤児院の子どもたちへ』
食堂にいた全員が、息を止めた。
外では雨が降っている。
屋根の応急修理は間に合っていたが、雨粒が屋根板を叩く音だけが、やけにはっきりと聞こえた。
トトはスープの器を両手で抱えたまま、目を丸くしている。
セシリアは魔力封じの札を構えたまま、箱から視線を外さない。
マーサは何も言わず、ただ口を固く結んでいた。
レオンは、箱に手を置いたまま静かに眉を寄せる。
――マーサ先生の顔が変わった。
さっきまでの呆れたような顔ではない。
懐かしむような、痛みをこらえるような、そんな表情だった。
レオン「マーサ先生」
マーサ「……まずは聞きな」
レオンはうなずいた。
記録魔道具の光が、ゆっくりと揺れる。
記録魔道具『この声が聞こえているということは、あの屋根裏の箱が、誰かに見つかったということですね』
トト「屋根、落ちたから見つけたんだよな」
レオン「静かに」
トト「はい」
トトはすぐに口を閉じた。
記録魔道具『私は、アリア・ベル。ひだまり孤児院の三代目の院長です』
その名を聞いた瞬間、マーサの指がわずかに震えた。
セシリア「三代目……かなり昔の方ですね」
マーサ「私がここに来るより前の院長だよ。名前だけは聞いたことがある」
レオン「会ったことは?」
マーサ「ない。けど、マーサ先生の先生にあたる人だ」
トト「先生の先生?」
マーサ「そうだよ。ひだまり孤児院を、ずっと昔に守っていた人さ」
トトは少しだけ姿勢を正した。
記録魔道具『この箱は、孤児院が本当に困った時のために残しました』
レオンの目が細くなる。
――本当に困った時。
孤児院はいつだって困っている。
屋根は古い。
食費は足りない。
毛布も、薬も、薪も、何もかも余裕はない。
けれど、この声が言う「本当に困った時」は、きっとそういう意味だけではない。
記録魔道具『戦争で親を失った子。魔物に村を焼かれた子。飢えで倒れた子。行き場のない子どもたちを、この家は何度も受け入れてきました』
食堂にいる子どもたちの何人かが、黙って顔を伏せた。
その言葉は、今の孤児院にもそのまま当てはまる。
この世界には魔王がいる。
国同士の戦争もある。
そして、その両方が子どもから家を奪う。
レオンは無意識に拳を握った。
――今も昔も、変わらないのか。
それが悔しかった。
魔王軍の将を倒しても、竜を討っても、すべての子どもを救えたわけではない。
救えなかった命の数を、レオンは数えたことがない。
数えてしまえば、きっと前に進めなくなるからだ。
記録魔道具『ひだまり孤児院には、一つだけ守り続けてきた約束があります』
トト「約束……」
記録魔道具『どんな時でも、子どもに空腹のまま眠らせないこと』
その言葉に、食堂の空気が静かに震えた。
レオンは何も言わなかった。
けれど、その言葉は胸の奥に深く沈んだ。
――そうだ。
レオンは幼い頃を思い出す。
雨の日。
薄い毛布。
腹が減って眠れなかった夜。
その時、マーサが出してくれた温かいスープ。
具は少なく、味も薄かった。
それでも、あの一杯でレオンは泣き止んだ。
世界が全部敵ではないと、初めて思えた。
マーサ「……そうかい。あの言葉は、そこから来ていたんだね」
レオン「知っていたのか?」
マーサ「院長になる時に、前の先生から言われたんだよ」
マーサは静かに目を伏せた。
マーサ「どんな時でも、子どもに空腹のまま眠らせるなってね」
トト「だからレオン兄ちゃん、いつも夕飯を先にするの?」
レオン「それは俺が腹を空かせるのが嫌いだからだ」
セシリア「かなり説得力がありますね」
レオン「褒めてるのか?」
セシリア「半分は」
トト「残り半分は?」
セシリア「呆れています」
トト「やっぱり怖い」
トトの言葉を聞き、セシリアはトトの方を向いてにこりと微笑んだ。
トトはすぐにスープの器に視線を落とした。
記録魔道具の光は、まだ消えない。
記録魔道具『もし、この箱を開けた者が、今もその約束を守ろうとしているなら、箱の底を調べてください』
レオンは箱の中を覗き込んだ。
中には古い布が敷かれていた。
その布をそっとめくると、箱の底に小さな金属板がはめ込まれている。
セシリア「隠し底ですね」
レオン「ああ」
トト「宝だ!」
マーサ「まだ決まってないよ」
トト「でも隠し底って、だいたい宝じゃん!」
レオン「呪いの場合もある」
トト「やめてよ!」
レオンは金属板に指をかけた。
だが、外れない。
箱の底には、小さなへこみが四つ並んでいた。
セシリア「鍵穴……ではなさそうですね」
レオン「指を置く場所か」
マーサ「魔力認証かもしれないね」
セシリア「古い孤児院に、そこまで高度な認証魔法が?」
レオン「ありえない話じゃない。三代目の院長が魔法に詳しかったなら」
マーサ「アリア院長は、昔、戦場で治癒師をしていたと聞いたことがある」
セシリア「戦場治癒師……それなら保存魔法や保護魔法に詳しくてもおかしくありません」
トト「じゃあ、誰が触れば開くの?」
その場の視線が、自然とマーサに集まった。
マーサは少しだけ困ったように笑った。
マーサ「私かい?」
レオン「院長が守ってきた箱なら、院長が触るのが筋だ」
マーサ「まったく。面倒なものを残してくれたもんだね」
そう言いながらも、マーサはゆっくりと箱の前に歩み寄った。
小さな手を、箱の底のへこみに置く。
その瞬間、青白い文字が淡く光った。
トト「光った!」
セシリア「反応しています」
レオンは箱のそばに立ち、万一に備えてマーサの前に出られる位置を取った。
――危険なものなら、俺が受ける。
そう決めていた。
だが、箱から出てきたのは危険な魔力ではなかった。
柔らかい光だった。
記録魔道具『院長の手を確認しました』
トト「箱がしゃべった!」
レオン「最初からしゃべってる」
トト「そうだけど!」
金属板が小さな音を立てて外れた。
その下に入っていたのは、一枚の古びた羊皮紙と、小さな鍵だった。
鍵は黒ずんでいる。
だが、錆びてはいない。
羊皮紙には、ひだまり孤児院の簡単な見取り図が描かれていた。
セシリアがそれを見て、すぐに眉を寄せる。
セシリア「この見取り図……今の孤児院と少し違います」
レオン「どこが違う?」
セシリア「食糧庫の奥に、もう一つ部屋があります。今の建物には、こんな部屋はありませんよね?」
マーサ「……いや」
マーサが低く言った。
マーサ「あるかもしれない」
トト「あるの!?」
マーサ「昔、前の院長から聞いたことがある。食糧庫の奥に、使われていない古い貯蔵部屋があるってね」
レオン「なぜ使っていない?」
マーサ「入口が崩れて、塞がったままだと聞いていた。古すぎて危ないから、近づくなと言われたよ」
トト「隠し部屋だ!」
トトの目が輝く。
レオン「お前は近づくな」
トト「まだ何もしてない!」
レオン「これからする顔をしている」
トト「顔で怒られた!」
セシリア「マスターの判断は正しいと思います」
トト「セシリア姉ちゃんまで!」
マーサ「私も同じ意見だね」
トト「全員敵だ!」
食堂に小さな笑いが起きた。
緊張していた空気が、ほんの少しだけやわらぐ。
レオンは羊皮紙を見つめた。
食糧庫の奥。
隠された貯蔵部屋。
孤児院が本当に困った時のための箱。
そこに何があるのかは分からない。
金か。
食糧か。
記録か。
それとも、もっと別の何かか。
レオン「今から確認する」
マーサ「雨の中でかい?」
レオン「建物の中だ。外には出ない」
セシリア「私も同行します。古い魔道具や魔法罠がある可能性があります」
トト「俺も行く!」
レオン「駄目だ」
トト「なんで!」
レオン「お前が行くと、隠し部屋より先に別の何かを見つける」
トト「見つけるの得意だもん!」
レオン「だから駄目だ」
トトは不満そうに頬を膨らませた。
その顔を見て、レオンは少しだけ考える。
――置いていけば、たぶんこっそり来るな。
トトの好奇心を甘く見てはいけない。
この少年は、止めるほど燃える。
レオン「……分かった。食糧庫の入口までだ」
トト「やった!」
レオン「入口までだ。中には入らない。俺の後ろから出ない。何も触らない」
トト「分かった!」
マーサ「トト」
マーサが名前を呼ぶ。
その一言だけで、トトは背筋を伸ばした。
トト「……本当に分かりました」
レオン「よし」
セシリア「本当に大丈夫ですか?」
レオン「俺が見てる」
セシリア「その言葉で安心できる時と、不安になる時があります」
レオン「今回は安心してくれ」
セシリア「努力します」
四人は食堂を出て、孤児院の奥へ向かった。
廊下は古く、床板が時々きしむ。
壁には子どもたちの絵が飾られていた。
下手な馬。
丸すぎる太陽。
なぜか足が八本ある犬。
トト「これ俺が描いたやつ!」
セシリア「犬ですか?」
トト「狼!」
レオン「足が多いな」
トト「強そうでしょ」
レオン「強さの方向が違う」
そんなやり取りをしながら、食糧庫へ向かう。
食糧庫は、孤児院の一番奥にあった。
中はひんやりとしている。
棚には小麦袋、干し肉、豆、根菜、塩漬けの野菜が並んでいた。
数は多くない。
レオンは棚を一目見ただけで、残りの食糧がどれくらいもつか分かった。
――十日。節約して十五日。
胸の中で、静かに計算する。
戦争が長引けば、物価はさらに上がる。
魔物が街道を塞げば、食糧はもっと高くなる。
ギルドマスターとしてのレオンは、それを知っている。
孤児院育ちのレオンは、その怖さをもっと知っている。
トト「レオン兄ちゃん?」
レオン「なんでもない」
トト「顔怖いよ」
レオン「元からだ」
トト「たしかに」
レオンはトトの頭を軽く小突いた。
トト「いっ!!!痛くない!」
レオン「強くなったな」
トト「へへ」
セシリアは見取り図を確認しながら、食糧庫の奥へ進んだ。
セシリア「この壁の向こうですね」
そこには、古い木棚が置かれていた。
棚をどかすと、壁の一部だけ色が違う。
よく見ると、石で塞がれた古い入口の跡があった。
マーサ「……本当にあったんだね」
マーサの声は、少し震えていた。
レオン「マーサ先生?」
マーサ「いや。昔話だと思っていたんだよ」
レオンは石の入口に手を当てた。
ただの石ではない。
薄く魔力が通っている。
セシリア「封印というより、保護ですね」
レオン「ああ。外から壊されないようにしている」
セシリア「鍵は?」
マーサが箱から出てきた小さな鍵を差し出した。
レオンは石壁の中央を探る。
見た目には分からないが、指先に小さなくぼみが触れた。
そこに鍵を差し込む。
かちり、と音がした。
次の瞬間、石壁に刻まれていた細い線が青白く光る。
トト「開く!? 開く!?」
レオン「下がれ」
トト「はい!」
トトは素直に一歩下がった。
石壁がゆっくりと左右に割れていく。
古い空気が、奥から流れてきた。
ほこりと、乾いた木の匂い。
そして、かすかに甘い香り。
レオン「甘い?」
セシリア「保存香です。長期保存用の魔法薬に使われるものですね」
レオン「罠は?」
セシリア「今のところ反応なし」
レオンは短くうなずき、先に中へ入った。
中は小さな部屋だった。
壁には古い棚。
床には木箱がいくつも並んでいる。
レオンは一つ目の木箱を開けた。
中には、布袋が詰まっていた。
トト「お金!?」
レオン「違う」
レオンは布袋を開く。
中から出てきたのは、乾燥した豆だった。
トト「豆……」
セシリア「保存状態が良すぎます。魔法で保護されていたようですね」
マーサが別の箱を開ける。
中には小麦。
その隣には塩。
干し果物。
薬草。
毛布。
小さな子ども用の靴。
どれも古いはずなのに、保存魔法のおかげで使える状態だった。
トト「宝じゃないの?」
レオン「宝だ」
トト「豆だよ?」
レオン「腹が減ってる時の豆は、金貨より価値がある」
トトは首をかしげた。
けれど、マーサは静かに箱の中を見つめていた。
その目には、涙が浮かんでいる。
マーサ「……アリア院長」
レオン「マーサ先生」
マーサ「この人は、本当に残してくれていたんだね」
記録魔道具の声が、レオンの手元で再び響いた。
記録魔道具『この部屋にあるものは、未来の子どもたちのために残したものです』
レオンたちは動きを止めた。
どうやら、部屋が開いたことで次の記録が再生されたらしい。
記録魔道具『いつかまた、戦争が起こるかもしれません。魔物が街道を塞ぐかもしれません。食べ物が足りなくなる日が来るかもしれません』
セシリアは静かに息を呑んだ。
まるで今の状況を見ているような言葉だった。
記録魔道具『その時、この部屋を使ってください。ただし、一つだけお願いがあります』
レオン「お願い……」
記録魔道具『これを、ひだまり孤児院だけのものにしないでください』
マーサが顔を上げる。
記録魔道具『この家の子どもたちだけでなく、外で泣いている子にも、少しだけ分けてあげてください』
トト「外の子にも?」
記録魔道具『ひだまりとは、自分たちだけが暖かい場所ではありません。寒い場所にいる誰かへ、少しだけ分けるための場所です』
その言葉が、小さな貯蔵部屋に静かに響いた。
誰もすぐには話さなかった。
レオンは、木箱に入った豆を見つめる。
孤児院だけでも余裕はない。
今ある食糧だって、計算しながら使わなければすぐになくなる。
だが、この部屋の保存食があれば、しばらくはもつ。
そして、もし少し分けることができるなら。
――街の外れに、まだ孤児院に来られていない子がいるかもしれない。
王都には、戦争から逃げてきた者が増えている。
親を失った子どももいるはずだ。
ギルドには届かない小さな声。
騎士団の報告書には載らない小さな飢え。
レオンは、それを知っていた。
セシリア「マスター」
レオン「分かっている」
セシリア「何をですか?」
レオン「明日、王都の外れを調べる。戦災孤児と避難民の数だ」
セシリアは一瞬だけ目を見開いた。
それから、小さくため息をつく。
セシリア「……また仕事が増えますね」
レオン「すまん」
セシリア「謝るくらいなら、書類も増やさないでください」
レオン「努力する」
セシリア「その努力は信用していません」
トト「俺も手伝う!」
レオン「お前はまず屋根裏に入らない練習だ」
トト「それ練習いる?」
マーサ「必要だね」
トト「先生まで!」
マーサは涙をぬぐい、いつもの顔に戻った。
マーサ「レオン」
レオン「なんだ」
マーサ「この部屋のものは、ありがたく使わせてもらおう。ただし、きちんと数えて、無駄にはしない」
レオン「ああ」
マーサ「それと、外の子に分けるなら、ちゃんと段取りを決めるんだよ。善意だけで動くと、かえって混乱する」
レオン「分かってる」
セシリア「では、明日ギルドで支援対象の確認をします。騎士団にも連絡を取りましょう」
レオン「頼む」
セシリア「その前に、今日の書類です」
レオン「……今か?」
セシリア「今です」
トト「レオン兄ちゃん、逃げる?」
レオン「逃げない」
セシリア「逃げられると思わないでください」
レオン「……分かってる」
レオンは肩を落とした。
魔王軍の将と向かい合った時でさえ、ここまで追い詰められた顔はしなかったかもしれない。
トトはそれを見て、小さく笑った。
――レオン兄ちゃんにも、苦手なものあるんだ。
そう思うと、少しだけ安心した。
最強の人でも、全部平気なわけじゃない。
でも、それでも逃げずにやる。
トトはその姿を、ちゃんと見ていた。
その夜。
食堂のテーブルには、古い貯蔵部屋から出てきた保存食の一覧が並べられた。
小麦。
豆。
干し果物。
薬草。
毛布。
子ども用の靴。
マーサは一つ一つを確認し、セシリアは記録を取る。
トトは途中で眠くなり、机に突っ伏した。
レオンは山のようなギルド書類に判を押しながら、時々貯蔵品の一覧へ目を向けた。
世界には魔王がいる。
戦争もある。
孤児は増え続けている。
一つの孤児院で、すべてを救うことはできない。
それでも。
レオンは判を押す手を止め、窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
だが、食堂の中には灯りがある。
温かいスープの匂いはもう薄れていたが、子どもたちの寝息が奥の部屋から聞こえていた。
レオンは小さくつぶやく。
レオン「……ひだまりを、分ける場所か」
マーサ「そうだよ」
いつの間にか、マーサが隣に立っていた。
マーサ「ここは昔から、そういう場所だったんだろうね」
レオン「俺にできると思うか?」
マーサ「できるかどうかじゃないよ」
マーサはレオンを見上げた。
マーサ「あんたは、やるんだろう?」
レオンは少しだけ黙った。
それから、静かにうなずく。
レオン「ああ。やる」
マーサ「なら、まず寝な」
レオン「書類が残ってる」
セシリア「残っています」
少し離れた席から、セシリアが即座に答えた。
マーサ「……じゃあ、終わらせてから寝な」
レオン「分かった」
セシリア「マスター、次はこの承認書です」
レオン「……多いな」
セシリア「孤児院の小さな事件に首を突っ込む余裕があるなら、当然できますよね?」
レオンは黙って判を押した。
トトの寝息が聞こえる。
雨音が屋根を叩いている。
古い箱は、テーブルの上で静かに光を失っていた。
ただの屋根修理から始まった小さな事件は、ひだまり孤児院の古い約束を呼び起こした。
どんな時でも、子どもに空腹のまま眠らせないこと。
そして、ひだまりを外の誰かにも分けること。
レオン・ガルディアは、剣ではなく判子を握りながら思った。
――明日も、忙しくなるな。
それは少し面倒で、少し重くて、けれど悪くないと思える未来だった。




