第三十六話 ひだまりへ帰る
北西地下道。
旧排水門へ続く古い石の通路は、長い間使われていなかった。
壁には苔が張りつき、天井からは冷たい水が落ちている。
ぽたり。
ぽたり。
その音だけが、暗闇の中で響いていた。
だが今、その静けさを壊すものがあった。
地鳴りのような足音。
石畳を砕くほどの勢いで駆ける、白銀の獣。
グリフォン、アルト。
その背には、レオン・ガルディアがいた。
そして後ろには、リュシア・アルヴェイン。
リュシアは片手でレオンの外套を掴み、もう片方の手で菫色の水晶を掲げている。
水晶から伸びる星の光が、地面の下へ続く金色の糸を追っていた。
リュシア「右! 次の分岐、右よ!」
レオン「アルト」
アルトは低く吠え、鋭く方向を変えた。
地面を蹴る。
壁をかすめる。
古い地下道の狭さなど関係ない。
白銀の体が、矢のように暗闇を裂いて進む。
リュシア「偽の経路が多いわ。かなり雑だけど、数で惑わせるつもりね」
レオン「本物だけを言え」
リュシア「分かっているわ」
リュシアはレオンの背中を見た。
いつもより広く見える。
いや、違う。
今のレオンから放たれる闘気が、背中を大きく見せているのだ。
第7段階。
鬼神解放。
普通の戦士なら、短時間で体が悲鳴を上げる領域。
バルドでさえ、使えば反動で倒れる力。
だが、レオンは違う。
息は乱れていない。
体も揺れていない。
ただ、怒りだけが静かに燃えている。
リュシア「……本当に、反動がないのね」
レオン「今はどうでもいい」
リュシア「ええ。そうね」
金色の糸が、地下道の奥へ伸びている。
帰巣追印。
レオンが嫌っている追跡魔法。
それは、トトとエルの“帰りたい”という心を拾っていた。
怖い。
寒い。
帰りたい。
ひだまりへ帰りたい。
その感情が、金色の糸になってレオンを導く。
だが同時に、レオンの胸に痛みのように流れ込んでくる。
トトの恐怖。
エルの震え。
二人が必死にこらえている声。
リュシア「レオン、無理に拾いすぎないで。感情に引っ張られるわ」
レオン「問題ない」
リュシア「問題ある顔よ」
レオン「怒っているだけだ」
リュシアは少しだけ息を呑んだ。
レオンの声は低い。
けれど、怒鳴っていない。
だからこそ怖い。
レオンは前を見たまま言った。
「子どもの声を使った」
リュシア「……」
「地面から探った」
「帰る場所を狙った」
「エルをさらった」
「トトまで巻き込んだ」
地下道の空気が軋む。
鬼神解放の闘気が、さらに鋭く研ぎ澄まされる。
「斬る理由としては、十分だ」
リュシアは何も言わなかった。
今のレオンに、余計な言葉は必要ない。
ただ、道を示す。
それが自分の役目だった。
一方。
地下道の奥。
黒い結晶が埋め込まれた広い空間で、トトとエルは座らされていた。
手足には黒い紐。
壁には赤黒い光。
床には細い根のような魔力線が走っている。
エルの胸元から漏れる金色の光は、少しずつ強くなっていた。
トト「エル、痛い?」
エル「痛くはない……でも、熱い」
トト「熱い?」
エル「胸の中が、ぐるぐるする」
トトは唇を噛んだ。
自分の手も縛られている。
足も動かない。
逃げられない。
でも、エルが怖がっている。
だから、泣きそうになるのを必死にこらえた。
トト「大丈夫。レオン兄ちゃん来る」
エル「うん」
トト「アルト先輩も来る」
エル「うん」
トト「リュシアさんも、セシリア姉ちゃんも、フィリア姉ちゃんも、マーサ先生も、みんな怒ってる」
エル「……マーサ先生も?」
トト「絶対怒ってる」
エルは少しだけ笑った。
「それ、怖いね」
トト「うん。ラザルより怖いかも」
白い仮面の男――ラザルが、ゆっくりと振り返った。
ラザル「余裕があるな、少年」
トトはびくっとした。
それでも、エルの前に少しだけ体を出す。
縛られているから、ほんの少ししか動けない。
でも、エルを隠そうとした。
ラザル「君は予定外だと言ったはずだ」
トト「予定外でも、エルの前にいる」
ラザル「勇気か」
トト「違う」
トトは震えながら言った。
「友だちだから」
エルの目が揺れた。
トトの肩も震えている。
怖い。
それでも逃げていない。
ラザルはしばらく二人を見た。
そして、小さく笑った。
「なるほど。ひだまり孤児院か」
その声に、トトの顔が険しくなる。
トト「その名前、変なふうに呼ぶな」
ラザル「帰る場所、だったな」
エル「……」
ラザル「合言葉も聞こえていたぞ。どこへ帰る? ひだまりへ帰る。実に美しい」
トト「聞くな!」
ラザル「美しいものほど、壊した時に意味がある」
その瞬間。
エルの金色の光が、少し強くなった。
エル「やめて……」
ラザルの視線がエルへ向く。
「やはり反応する。怒り、恐怖、拒絶。感情が動くほど、内側の魔力が目覚める」
黒い結晶が赤黒く光った。
床の魔力線がエルへ伸びる。
トト「エルに触るな!」
トトが叫ぶ。
だが、黒い紐が体を締めつける。
トト「ぐっ……!」
エル「トト!」
トトの顔が苦痛に歪む。
ラザル「少年。君は餌だ」
トト「……餌?」
ラザル「彼女の魔力を揺らすためのな」
エルの顔が青ざめる。
「やめて……トトを、痛くしないで……」
ラザル「ならば、目覚めろ」
黒い結晶が、エルの金色の光を吸い上げようと震えた。
エルの胸元の光が一気に強まる。
エル「いや……!」
その時だった。
地下道の奥から、轟音が響いた。
どん、と。
石壁が揺れる。
ラザルが振り向く。
第二号の欠片が、低く唸る。
また一つ。
どん。
今度は近い。
黒い根が震える。
天井から砂が落ちる。
トトの顔がぱっと上がった。
トト「来た……!」
エル「レオン……?」
三度目の音。
どん。
それは扉を叩く音ではなかった。
壁を、障害を、黒い結界を。
真正面から踏み砕いてくる音だった。
ラザルは欠けた仮面の奥で目を細めた。
「速い」
黒い結界が空間の入口に展開される。
何重にも重なる黒晶の壁。
さらに、床から黒い槍がせり上がる。
第二号の欠片が低く構える。
ラザル「迎え撃て」
第二号の欠片が飛び出した。
その瞬間。
黒晶の壁の向こうから、低い声が聞こえた。
レオン「邪魔だ」
次の一撃で、黒晶の壁が砕けた。
斬撃ではない。
闘気そのものが、壁を押し潰した。
レオンの圧が、黒晶の防壁を紙のように割った。
白銀の影が飛び込む。
アルトだ。
その背からレオンが降り立つ。
リュシアも続いて降り、すぐに星の結界を展開する。
レオンの足が、地下空間の床に触れた。
空気が変わった。
トト「レオン兄ちゃん!」
エル「レオン……!」
レオンは二人を見た。
トトの手足に黒い紐。
エルの胸元から漏れる金色の光。
二人の顔色。
震える肩。
すべてを一瞬で見た。
そして、ラザルを見た。
レオン「その手を離せ」
ラザル「触れてはいない」
レオン「なら、今すぐ離せるな」
ラザルは静かに笑った。
「怖い顔だ、灰剣」
レオンは一歩踏み出した。
ただ一歩。
それだけで、床の黒い根が潰れた。
ラザルの背後で、第二号の欠片が跳んだ。
低い姿勢から、獣のようにレオンの首元を狙う。
速い。
黒晶獣とは違う。
小さい。
細い。
だが、動きは鋭い。
トトは叫びかけた。
だが、その必要はなかった。
レオンは振り向きもしない。
右手を軽く動かしただけだった。
鬼神解放の闘気が刃のように走る。
第二号の欠片の爪が、レオンに届く前に止まった。
そして、吹き飛んだ。
壁に叩きつけられ、黒い体がひび割れる。
トト「すごい……」
リュシア「まだ本体じゃないわ。油断しないで」
レオン「分かっている」
ラザルは楽しそうに首を傾げた。
「なるほど。第七段階を維持したまま、追跡、突入、戦闘。反動なし。やはり君の体は異常だ」
レオン「黙れ」
「いいや、実に興味深い。黒玻璃にとっても、君は――」
レオンの姿が消えた。
いや、消えたように見えただけだ。
あまりの踏み込みの速さに、目が追いつかなかった。
次の瞬間、レオンはラザルの前にいた。
拳が、仮面の横をかすめる。
ラザルは黒晶の壁を間に挟んで受け流そうとした。
だが、壁ごと砕ける。
ラザルの体が後ろへ飛ぶ。
白い仮面に、新しい亀裂が入った。
ラザル「……容赦がないな」
レオン「子どもをさらった」
ラザル「目的のためだ」
レオン「理由にならん」
ラザル「彼女の魔力は、世界を変える器になる」
レオン「エルは器じゃない」
レオンの声がさらに低くなる。
「ひだまり孤児院の子だ」
エルの目から涙がこぼれた。
トトは歯を食いしばった。
レオンが来た。
本当に来た。
ラザルは片手を上げる。
床の黒い根が一斉に動いた。
トトとエルの拘束が強まる。
リュシア「レオン、子どもたち!」
レオンはすぐに動いた。
だが、黒い根は二人を盾にするように絡みつく。
無理に斬れば、二人を傷つける。
ラザル「斬れるものなら斬ってみるといい」
レオンは止まった。
ほんの一瞬。
その一瞬を、ラザルは狙っていた。
第二号の欠片が床から跳ねる。
今度はレオンではない。
リュシアを狙った。
リュシア「っ!」
リュシアは星の盾を展開する。
だが、第二号の欠片は盾の縁を滑るように回り込み、背後へ爪を伸ばす。
レオン「アルト!」
アルトが飛び込んだ。
翼ではなく、前脚で第二号の欠片を叩き落とす。
白銀の爪が黒い体を裂く。
第二号の欠片が床を転がり、赤黒い光を散らした。
アルト「――!」
今度は完全な咆哮だった。
リュシア「助かったわ、アルト」
アルトは短く鳴いた。
まるで、当然だと言っているようだった。
レオンはトトとエルの拘束を見た。
黒い根は、エルの金色の魔力に絡んでいる。
魔力を吸い上げながら、拘束を強めている。
レオンが力で壊せば、エルの魔力が暴れる可能性がある。
リュシア「レオン、これは私がやる」
レオン「できるか」
リュシア「誰に言っているの?」
一瞬だけ、リュシアの口元に笑みが戻った。
「私はあなたの背中を守る魔法使いよ」
レオンは短くうなずいた。
「頼む」
リュシアは杖を掲げた。
星の魔法陣が、トトとエルの足元に展開される。
菫色の星の光が、黒い根に触れる。
リュシア「星環解除」
黒い根が震える。
ラザルの目が細くなった。
「星詠みの魔女か。厄介だな」
リュシア「褒め言葉として受け取っておくわ」
黒い根がエルの魔力をさらに吸い上げようとする。
エル「うっ……!」
トト「エル!」
リュシア「トトくん、エルちゃんに声をかけて!」
トト「声!?」
リュシア「帰る場所を思い出させて!」
トトはすぐにエルを見る。
エルの金色の光が揺れている。
怖がっている。
引っ張られている。
どこか遠くへ、連れていかれそうになっている。
トトは震える声で言った。
「エル」
エル「……トト」
トト「どこへ帰る?」
エルの涙が頬を伝った。
「ひだまりへ……」
トト「もっと!」
エル「ひだまりへ帰る……!」
その瞬間、エルの金色の光が形を変えた。
黒い根に吸われる光ではない。
自分の内側へ戻る光。
リュシアの星環解除が、それを支える。
黒い根が一本、弾けた。
トトの右腕が自由になる。
トト「取れた!」
リュシア「そのままエルちゃんの手を握って!」
トトは自由になった右手で、エルの手を握った。
「帰るよ!」
エル「うん!」
レオンは、その声を聞いた。
そして、動いた。
黒い根が弱まった一瞬。
そこだけを狙う。
剣を抜くまでもない。
闘気を細く、薄く、鋭く。
子どもたちに触れず、黒い根だけを断つ。
レオンの手刀が走った。
一本。
二本。
三本。
黒い根が、音もなく切れる。
トトとエルの拘束が崩れた。
レオンは踏み込み、一瞬で二人の前へ移動した。
トト「レオン兄ちゃ――」
言い終わる前に、レオンは二人を抱き寄せていた。
片腕でトト。
もう片腕でエル。
強く。
けれど、痛くないように。
トトの体が震える。
エルも震えている。
レオンは短く言った。
「遅くなった」
トトは首を横に振った。
「早かった……!」
エル「来てくれた……」
レオン「帰るぞ」
トト「うん……!」
エル「ひだまりへ……」
レオン「ああ」
その瞬間、地下空間全体が揺れた。
ラザルが黒い結晶に手を触れていた。
赤黒い光が一気に広がる。
「簡単に帰すと思うか?」
床が割れる。
天井が鳴る。
黒い根が壁から無数に伸びる。
第二号の欠片が、ひび割れた体を無理やり起こす。
ラザル「灰剣。君は強い。だからこそ、守るものを増やせば増やすほど、動きが鈍る」
レオンは二人をリュシアの方へ渡した。
レオン「リュシア、守れ」
リュシア「任せて」
リュシアはトトとエルを星の結界で包む。
アルトがその前に立つ。
白銀の翼を広げ、二人を隠すように構えた。
レオンはラザルへ向き直った。
「動きが鈍る?」
レオンの声は静かだった。
「違う」
闘気がさらに研ぎ澄まされる。
鬼神解放。
第7段階。
その力が、地下空間に満ちる。
「守るものがあるから、迷わない」
ラザル「……」
レオンが一歩踏み出す。
第二号の欠片が飛びかかる。
レオンはそれを正面から見た。
今度は逃がさない。
第二号の欠片の爪が伸びる。
レオンの拳が、その中心を撃ち抜いた。
闘気が内部へ走る。
黒い体が内側からひび割れる。
第二号の欠片が、悲鳴のような音を上げた。
レオン「お前は本体じゃない」
さらに一歩。
「だが、子どもを怖がらせた」
もう一撃。
黒い角が砕けた。
第二号の欠片の体が崩れ、赤黒い光が散る。
レオン「それで十分だ」
最後に、レオンは掌を下ろした。
黒い欠片は、床へ沈むように崩れた。
完全に沈黙する。
ラザルは、その様子を見ていた。
白い仮面の亀裂がさらに広がる。
「やはり、君は面白い」
レオン「逃がすと思うか」
レオンが踏み込む。
ラザルは即座に黒い結晶を砕いた。
赤黒い光が爆ぜる。
リュシア「転移よ!」
レオンの手が伸びる。
指先が、ラザルの外套を掴む。
布が裂ける。
白い仮面の破片が、床へ落ちた。
だが、ラザル本体は黒い光の向こうへ消えた。
声だけが残る。
ラザル「少女の魔力は目覚めた。いずれ、また迎えに行く」
レオンの目が冷える。
ラザル「その時まで、よく守ることだ。ひだまりの番犬よ」
黒い光が消えた。
地下空間に、静けさが戻る。
だが、完全な静けさではない。
トトの震える息。
エルの小さな泣き声。
アルトの低い呼吸。
リュシアの張った結界の音。
そして、レオンの静かな怒り。
レオンは床に落ちた白い仮面の破片を見た。
踏み潰しはしなかった。
拾うこともしない。
ただ、短く言った。
「次は逃がさない」
リュシア「レオン」
レオンは振り返った。
トトとエルが星の結界の中にいる。
無事だ。
怪我は少ない。
だが、心は傷ついている。
エルの金色の光は、まだ胸元で小さく揺れていた。
レオンは二人の前に膝をついた。
第7段階の闘気は、まだ解いていない。
だが、二人へ向ける声は静かで、柔らかかった。
「帰るぞ」
トトは涙をこらえきれなかった。
「ごめんなさい……」
レオン「何がだ」
トト「俺、また勝手に走った……」
レオンは少し黙った。
トトは震えながら続けた。
「エルが消えそうで……九か条、分かってたのに……体が動いて……俺……」
レオンはトトの頭に手を置いた。
「説教は帰ってからだ」
トト「……あるの?」
レオン「ああ」
トト「そっか……」
レオン「だが、今は先に言う」
トトが顔を上げる。
レオン「エルの手を離さなかったな」
トトの目が揺れた。
レオン「よくやった」
トトは泣いた。
声を出さないようにしていたけれど、涙だけがぼろぼろ落ちた。
エルも泣いた。
「私のせいで……」
レオンはエルを見る。
「違う」
エル「でも、私の魔力が……」
レオン「お前は悪くない」
エル「……」
レオン「悪いのは、さらった奴だ」
その言葉は、強かった。
エルの肩の力が少し抜ける。
リュシアがそっと近づいた。
「エルちゃん、今は魔力を抑えようとしなくていいわ。怖がると余計に揺れる。呼吸して。トトくんの手を握って」
エルは小さくうなずいた。
トトの手を握る。
トトも握り返す。
リュシア「そう。帰る場所を思い出して」
エル「ひだまり……」
トト「すーぷ」
エル「……すーぷ?」
トト「帰ったら、絶対ある」
エルは泣きながら、少しだけ笑った。
「うん」
レオンは立ち上がった。
リュシア「第7段階、まだ維持するの?」
レオン「ああ」
リュシア「もう戦闘は終わったわ」
レオン「帰るまでが戦闘だ」
リュシアは少しだけ目を細めた。
「そうね」
アルトが低く鳴いた。
トトとエルを乗せるため、身を低くする。
トト「アルト先輩……」
アルトはトトの髪を、いつものように軽くつついた。
トト「今それ!?」
リュシア「元気づけているのよ」
エルも、アルトの羽にそっと触れた。
「ありがとう」
アルトは静かに目を細めた。
リュシアが二人をアルトの背に乗せ、星の結界で固定する。
レオンは前に立つ。
地下道の出口へ向かう。
金色の糸は、まだ続いている。
だが今度は、追うためではない。
帰るための道だった。
遠く。
ひだまり孤児院では、誰も食堂を離れなかった。
マーサは鍋の火を落とさずにいた。
フィリアは薬箱を抱えたまま座っている。
セシリアは王城への連絡を終え、扉の方を見ている。
ガルは何度も立ち上がりかけて、ユアンに止められた。
ミリはリリィの袖を握っている。
リリィは猫を抱いている。
猫も、今日は眠っていなかった。
ミリ「帰る?」
マーサ「帰るよ」
ガル「絶対?」
マーサ「絶対だ」
セシリア「マスターが、帰すと言いました」
フィリア「なら、帰ってきます」
ユアン「……ひだまりへ」
リリィ「帰る」
その時。
食堂の外で、門が鳴った。
全員が息を呑む。
セシリアが立ち上がる。
合言葉。
九か条。
マーサが静かに言う。
「どこへ帰る?」
門の外から、低い声が返ってきた。
「ひだまりへ帰る」
その声は、偽物ではなかった。
ミリが立ち上がった。
「レオン!」
門が開く。
そこには、レオンがいた。
第7段階の闘気をまとったまま。
その後ろに、アルト。
そしてアルトの背に、トトとエル。
リュシアがそばに立っている。
ガル「トト!」
ユアン「エル!」
リリィ「帰った!」
ミリ「帰った!」
マーサは一瞬だけ目を閉じた。
そして、すぐに二人へ駆け寄った。
「おかえり」
トトはアルトの背から降りた瞬間、力が抜けた。
マーサが抱きとめる。
エルもフィリアに支えられた。
フィリア「すぐ診ます。二人とも、こちらへ」
トト「マーサ先生……」
マーサ「説教はあとだよ」
トト「やっぱりある……」
マーサ「当たり前だよ」
そう言いながら、マーサの腕は震えていた。
トトはそれに気づいて、泣いた。
「ごめんなさい……」
マーサ「帰ってきたから、今はそれでいい」
エルはレオンを見た。
「レオン……」
レオン「おかえり」
エルは泣きながらうなずいた。
「ただいま……」
その言葉を聞いて、レオンはようやく少しだけ目を閉じた。
そして、鬼神解放を静かに収めた。
空気が緩む。
庭の草が戻る。
窓の震えが止まる。
だが、レオンの体に反動はない。
ただ、静かな怒りだけが、まだ奥に残っていた。
セシリアが小さく言った。
「マスター」
レオン「なんだ」
セシリア「帰還成功です」
レオンは少しだけ息を吐いた。
「ああ」
ミリが泣きながら言った。
「すーぷ……」
マーサは涙を拭き、鍋の方へ向かった。
「そうだね。まずは温かいものだ」
トトが小さく言う。
「第0段階……」
エルも、小さく続けた。
「成功……」
レオンは二人を見た。
そして、静かに言った。
「今日は、反省も説教もある」
トト「はい……」
エル「はい……」
レオン「だが、その前に食え」
トトとエルは、同時にうなずいた。
「はい」
ひだまり孤児院の食堂に、スープの匂いが戻る。
怖かった。痛かった。泣いた。間違えた。
それでも、帰ってきた。
ひだまりへ。
その夜、壁の九か条の下に、ミリが小さな文字を書き足した。
『十、ぜったい帰る』
セシリアはそれを見て、少しだけ迷った。
正式な条文としては曖昧だ。
だが、誰も消そうとは言わなかった。
レオンも、何も言わなかった。
ただ、トトの札――『またかえる』を、もう一度懐にしまった。
黒玻璃の影はまだ終わらない。
エルの魔力の謎も残っている。
ラザルも逃げた。
だが今日。
トトとエルは帰ってきた。
そして、ひだまり孤児院には新しい約束が増えた。
十、ぜったい帰る。




