第三十三話 地面から来る黒い足音
翌朝。
ひだまり孤児院の食堂には、新しい札が貼られていた。
『ひだまり防護七か条』
一、かってに外へ出ない。
二、知らない石をさわらない。
三、こわかったら大人に言う。
四、アルト先輩にかってに乗らない。
五、アルト先輩に変なものを食べさせない。
六、手を洗う。
七、すーぷを飲む。
トト・ミルクは、その札の前に立っていた。
腕を組み、真剣な顔をしている。
ガル「何してんだ?」
トト「確認」
ユアン「何の?」
トト「七か条がちゃんと守られてるか」
エル「誰が確認するの?」
トト「俺」
リリィ「自分が一番危ないのに」
ミリ「トト、危険」
トト「俺、昨日守ったよ!」
セシリアが記録板を開いた。
セシリア「確かに、昨日のトトは勝手に外へ出ず、知らないものにも触らず、アルトにも乗りませんでした」
トト「ほら!」
セシリア「ただし、一日だけです」
トト「一日でもすごいでしょ!」
レオンはスープを飲みながら言った。
レオン「一日守れたなら、次は二日だ」
トト「二日……」
マーサ「そうやって増やしていくんだよ」
トト「分かった! じゃあ今日は二日目!」
ガル「続くかな」
ユアン「続くといい」
エル「たぶん」
トト「たぶん禁止!」
食堂の外。
庭では、アルトが翼をたたんで座っていた。
昨日と同じように、空には見えない魔力の膜がある。
リュシア・アルヴェインの調査では、まだ完全な結界ではない。
だが、大型の飛行魔獣が飛ぶには危険だった。
つまり、アルトは今日も飛行禁止である。
トトは窓からアルトを見た。
「アルト先輩、飛べないと退屈かな」
ミリ「とべない日」
リリィ「猫はいつも飛べない」
猫「……」
ガル「猫とグリフォン比べるなよ」
ユアン「でも、猫は平気そう」
リリィ「猫、地上専門」
エル「アルトも今日は地上専門」
トト「地上アルト先輩……」
レオン「変な札を作るな」
トト「まだ何も言ってない!」
セシリア「顔に出ています」
トト「顔、便利すぎない!?」
リュシアは食堂の端で、菫色の水晶を覗き込んでいた。
その表情は、いつもの余裕ある笑みではない。
魔法使いの顔だった。
フィリア・ローレンスがそばに立つ。
フィリア「昨日の空の膜、まだ残っていますか?」
リュシア「ええ。薄いままね。広がりは止まっているけれど、消えてはいない」
セシリア「つまり、こちらの飛行偵察を封じるには十分」
リュシア「そういうこと」
レオン「無理に飛ぶ必要はない。地上から調べる」
リュシア「それを見越している可能性もあるわ」
レオン「地上にも何か仕掛けていると?」
リュシア「ラザルなら、やりそうね」
トトが顔を上げた。
「ラザルって、白い仮面の人?」
レオン「ああ」
トト「空も地面もずるいことするの?」
リュシア「敵だからね」
ガル「本当に嫌なやつだな」
レオン「だから、勝手に動くな」
トト「分かってる」
レオンはトトを見た。
トトも、まっすぐ見返した。
いつもなら少し目をそらしたり、言い訳を考えたりする。
だが、今日は違った。
トト「今日は守る日だから」
レオンは少しだけ目を細めた。
「ああ」
朝食後。
ひだまり孤児院では、いつもの仕事と防護確認が同時に始まった。
マーサは台所。
フィリアは子どもたちの体調確認。
セシリアは防護札の点検。
リュシアは庭の魔法陣の調整。
レオンは門と塀の外側を確認する。
そして子どもたちは、門の内側と庭の掃除を担当した。
トト「防護隊、集合!」
ガル「隊になったのか」
ユアン「また増えた」
エル「ひだまり防護隊?」
トト「そう!」
リリィ「猫隊員」
ミリ「すーぷ隊員」
トト「俺が隊長!」
セシリア「隊長には責任が伴います」
トト「責任……」
マーサ「責任があるなら、まず走らない」
トト「はい!」
レオン「勝手に門を出ない」
トト「はい!」
フィリア「水分を取る」
トト「はい!」
リュシア「怪しい魔力を感じたら叫ぶ前に大人を呼ぶ」
トト「叫ばないの!?」
リュシア「叫ぶと慌てるでしょう?」
トト「たしかに!」
ガル「納得するんだ」
ユアン「叫ぶと思ってた」
エル「絶対」
トト「今日は叫ばない!」
ミリ「小声で叫ぶ?」
リリィ「それは叫ぶ」
こうして、ひだまり防護隊は庭へ出た。
もちろん、正式な組織ではない。
トトが勝手に言っているだけである。
だが、子どもたちが決まりを守るなら、レオンも止めなかった。
庭では、アルトが子どもたちを見ていた。
トト「アルト先輩、今日は俺たちが地上を守ります!」
アルト「……」
アルトは低く鳴いた。
ぐるる。
トト「任された!」
レオン「たぶん違う」
セシリア「しかし、やる気にはつながっています」
トト「ほら!」
レオン「調子に乗るな」
トト「はい!」
午前中は、穏やかに進んだ。
庭の草を集める。
小枝を拾う。
井戸のまわりを確認する。
門の内側に落ち葉がたまっていないか見る。
リリィは猫を抱いて、猫の見張り役を主張した。
リリィ「猫、異常なし」
ガル「猫、寝てるぞ」
リリィ「寝ながら見張ってる」
ユアン「高等技術」
エル「本当かな」
ミリ「猫、すごい」
トトは門の近くでしゃがみ込んでいた。
だが、手は後ろに回している。
知らないものを触らないためだ。
ガル「その格好、変だな」
トト「触らないため!」
ユアン「いいと思う」
エル「昨日より成長」
トト「昨日より!」
その時だった。
井戸の水面が、わずかに揺れた。
ぽちゃん。
小さな音。
誰かが水を汲んだわけではない。
風もない。
ミリが最初に気づいた。
ミリ「……みず」
リリィ「揺れた」
猫が耳を立てる。
アルトも顔を上げた。
ぐるる。
昨日の空を見上げた時と同じ、警戒の鳴き声。
トトはすぐに立ち上がった。
叫びそうになって、口を押さえる。
「……大人を呼ぶ」
ガル「え?」
トト「大人を呼ぶ!」
今度は叫ばなかった。
だが、十分聞こえる声だった。
ユアン「レオン兄ちゃん!」
エル「リュシアさん!」
すぐにレオンが来た。
リュシアも、セシリアも、フィリアも走ってくる。
マーサは小さな子たちを食堂側へ移動させた。
レオン「何があった」
トト「井戸の水が揺れた。誰も触ってない」
ミリ「ぽちゃん」
リリィ「猫も反応した」
猫「……」
アルトは井戸の方を睨んでいる。
レオンは井戸へ近づいた。
だが、すぐには触れない。
リュシアが水晶を取り出す。
菫色の光が井戸の上に浮いた。
リュシア「……地面の下ね」
セシリア「地中ですか?」
リュシア「ええ。かなり弱いけれど、黒い魔力の振動がある」
ガル「地面の下から?」
ユアン「空の次は地面……」
エル「本当に来た」
トトは手を握りしめた。
「地上を揺らすってこと?」
レオンが静かに言った。
「ああ。始めたらしいな」
その声は低かった。
怒っている声だった。
トトはその声を聞いて、少し背筋を伸ばした。
レオンが静かな声になる時は、本気で怒っている時だ。
けれど、今のレオンは剣を抜いていない。
ただ、周囲を見ている。
怖い時ほど、周りを見る。
トトはそれを思い出して、自分も周りを見た。
門。
井戸。
庭。
アルト。
小さい子たちは食堂の入口にいる。
ミリはリリィの袖を握っている。
ユアンとエルは一緒にいる。
ガルはトトの横に立っている。
全員、ここにいる。
トト「みんな、いる」
レオンが少しだけトトを見た。
「いい確認だ」
トトは小さくうなずいた。
リュシアは井戸の周りに星型の魔法陣を展開する。
フィリアは子どもたちへ声をかけた。
フィリア「気分が悪い人はいますか? 頭が痛い人、寒い人、すぐ言ってください」
ミリ「ちょっと、さむい?」
リリィ「手、冷たい」
フィリアはすぐ二人の手を取った。
「中へ入りましょう」
マーサ「温かいお茶を出すよ」
ミリ「すーぷ?」
マーサ「昼にはまだ早いから、今はお茶だね」
ミリ「おちゃ第0段階」
セシリア「増やさないでください」
リュシアは井戸から数歩離れ、地面に手をかざした。
「黒い魔力は、井戸そのものではないわ。もっと外側。門の下を通って、こちらへ伸びようとしている」
レオン「根のようなものか」
リュシア「そうね。黒い根。地中を這う探り糸」
セシリア「目的は?」
リュシア「探知。あるいは、目印づけ」
レオンの目がさらに冷えた。
「孤児院の位置を探っている」
リュシア「可能性は高いわ」
トトは息を呑んだ。
自分たちのいる場所を探られている。
空から見られないようにしたと思ったら、今度は地面から。
見えないところから近づいてくる。
それは、魔物が目の前に現れるより怖かった。
けれど、トトは動かなかった。
勝手に門の外へ出ない。
知らないものに触らない。
怖かったら大人に言う。
七か条を思い出す。
トト「……俺、門の外見てない」
レオン「それでいい」
トト「見た方がいいかと思ったけど、行ってない」
レオン「ああ。それが正解だ」
トトの肩から、少し力が抜けた。
ガル「俺も行ってないぞ」
ユアン「僕も」
エル「うん」
リリィ「猫も」
猫「……」
ミリ「守った」
レオンは子どもたちを見た。
「全員、よく守った」
その一言で、子どもたちの表情が少し明るくなる。
だが、状況はまだ終わっていない。
リュシア「レオン、門の外側を確認したい」
レオン「ああ」
フィリア「子どもたちは中へ」
マーサ「みんな、食堂へ入りな」
トト「でも」
レオン「トト」
トト「……はい」
レオン「守る手伝いだ。中で小さい子を見ていろ」
トトは少しだけ悔しそうにした。
でも、うなずいた。
「分かった」
ガル「行くぞ」
ユアン「うん」
エル「ミリ、こっち」
ミリ「うん」
リリィ「猫も」
子どもたちは食堂へ入った。
トトは最後に庭を振り返る。
レオン、リュシア、セシリア、フィリア。
そしてアルト。
大人たちが外に残る。
トトはぎゅっと拳を握った。
――勝手に行かない。
――でも、ちゃんと守る。
食堂では、子どもたちが窓から外を見ようとしていた。
マーサが手を叩く。
マーサ「はい、窓に張りつかない。まず座る」
トト「でも外が」
マーサ「見たい気持ちは分かるよ。でも、今あんたたちがすることは何だい?」
トトは壁の札を見た。
『ひだまり防護七か条』
トト「……小さい子を一人にしない」
マーサ「そう」
トトは席に座った。
そして、ミリの隣へ行く。
「ミリ、大丈夫?」
ミリ「ちょっと寒い」
トト「じゃあ、俺の上着貸す」
ガル「お前、そういうことできるんだな」
トト「できるよ!」
ユアン「いいと思う」
エル「成長」
リリィ「猫も温める」
猫はリリィの膝の上で丸くなった。
マーサは温かいお茶を配る。
「怖い時は、温かいものを飲むんだよ」
ミリ「おちゃ」
トト「第0段階?」
マーサ「今日は特別に第0段階でいいよ」
トト「やった」
一方、門の外。
レオンは地面を見ていた。
門の下、石畳の隙間に、黒い砂のようなものが少しだけ残っている。
それは風で運ばれた土ではない。
細かい結晶片。
まるで、黒い根が地面の下を通ったあとに残した欠片のようだった。
レオン「これか」
リュシア「触らないで」
レオン「触らん」
リュシアは小さな星の光を落とした。
黒い砂が、わずかに赤黒く光る。
フィリア「嫌な反応ですね」
セシリア「記録します。門外石畳付近に黒晶粉末。接触禁止」
リュシア「これは本体じゃない。探り糸の残りかすね」
レオン「壊せるか」
リュシア「壊せる。でも、乱暴に消すと向こうに気づかれる」
レオン「もう気づいているだろう」
リュシア「こちらが気づいたことまでは、まだ確実じゃないかもしれない」
レオンは少しだけ黙った。
「なら、気づいていないふりをするか」
リュシア「ええ。その方が次の動きを読める」
フィリア「危険では?」
リュシア「危険よ。だから、孤児院の中には入れないようにする」
セシリア「防護結界の内側に偽の魔力反応を置く、ということですか?」
リュシアは少し笑った。
「さすがね。話が早いわ」
レオン「囮か」
リュシア「ええ。空の網がアルトを見たように、地面の根も何かを探している。なら、こちらで偽物の足跡を置いて誘導する」
フィリア「孤児院から離すのですね」
リュシア「そう」
レオン「どこへ」
リュシア「古い水路跡。ここから少し離れていて、人も少ない。王城と騎士団へ連絡すれば監視しやすい」
セシリア「すぐ手配します」
レオン「俺が行く」
フィリア「偵察だけですか?」
リュシア「今回は、まだ行かない方がいいわ」
レオン「なぜだ」
リュシア「今動くと、相手にこちらの反応を読まれる。まずは防護を固めて、囮を置く。動くのはその後」
レオンは黒い砂を見た。
静かに怒っている。
だが、昨日から何度も言われている。
一人で背負うな。
約束を守れ。
偵察だけなら、偵察だけにする。
今日は、まだ動く時ではない。
レオン「……分かった」
リュシアが目を丸くした。
「本当に素直ね」
レオン「約束したからな」
リュシアは少しだけ嬉しそうに笑った。
「いい傾向だわ」
セシリア「記録します」
レオン「それはもういい」
セシリア「重要です」
昼前。
王城へ連絡が飛んだ。
グレンからもすぐ返答が来た。
古い水路跡に、騎士団の監視を配置する。
宮廷魔導士も一名同行。
王城側でも西の廃塔と地中魔力の関係を調べる。
そして、孤児院周辺への民間人立ち入りを少しだけ制限する。
それを聞いたトトは、食堂で小さくうなずいた。
トト「大人たち、早い」
ガル「すげぇな」
ユアン「王城も動いてる」
エル「騎士団も」
ミリ「守ってる」
リリィ「猫も」
ガル「猫は今日も寝てる」
リリィ「寝ながら守ってる」
トトは壁の札を見た。
「守るって、いっぱいあるんだな」
ユアン「レオン兄ちゃんが言ってた」
エル「剣だけじゃない」
トト「うん」
その日の午後。
孤児院では、リュシアが新しい魔法を設置した。
偽の魔力足跡。
見た目には何もない。
だが、地面の下を探る黒い根にとっては、まるで誰かがそちらへ歩いていったように感じるらしい。
トトはそれを聞いて、目を丸くした。
トト「足跡のふりをする魔法?」
リュシア「そうよ」
トト「すごい!」
リュシア「ありがとう」
トト「俺もできる?」
リュシア「今はまだ無理ね」
トト「いつかは?」
リュシア「ちゃんと勉強して、勝手に危ないものに触らない子なら」
トトは胸を張った。
「俺、今日触ってない!」
リュシア「ええ。とても偉かったわ」
トトは少し照れた。
レオンはそれを見て、静かに言った。
「今日のトトは、よくやった」
トトの顔が一気に明るくなる。
「ほんと!?」
レオン「ああ」
ガル「珍しくちゃんと褒められてる」
ユアン「成長」
エル「三日続くといい」
トト「三日目標!?」
セシリア「良い目標です」
マーサ「じゃあ、明日も守るんだよ」
トト「守る!」
ミリ「トト、守る」
リリィ「猫も守る」
猫「……」
夕飯の時間。
食堂には、いつもより少しだけ静かな空気があった。
怖いことが起きた。
でも、誰も怪我をしていない。
それは、みんなが決まりを守ったからでもある。
マーサのスープが器に注がれる。
湯気が立つ。
トトはそれを見て、少しだけほっとした。
トト「今日も第0段階、成功」
ミリ「成功」
リリィ「お茶も成功」
ガル「手洗いもしたしな」
ユアン「七か条、守った」
エル「全部じゃないけど」
トト「アルト先輩に乗ってない!」
レオン「それは毎日守れ」
トト「はい!」
フィリアは全員の顔色を見て、少し安心したようにうなずいた。
「大きな体調不良はありませんね」
セシリア「本日の記録。地中からの黒い魔力反応を確認。子どもたちは七か条を守り、大きな混乱なし」
マーサ「いい記録だね」
リュシア「本当に。怖い時に約束を守れるのは、強いことよ」
トト「俺、強い?」
レオン「少しな」
トト「少し!」
ガル「少しで満足しとけ」
ユアン「次はもう少し」
エル「積み重ね」
トト「積み重ね……」
トトはスープを飲んだ。
温かい。
朝の井戸の水の冷たさとは違う。
地面の下から来る黒い気配とも違う。
ここにいる、と分かる味だった。
外では、アルトが庭で低く鳴いた。
ぐるる。
トトは窓の外を見た。
「アルト先輩も守った?」
レオン「ああ。アルトが最初に気づいた」
トト「じゃあ、今日の一番えらいのはアルト先輩?」
セシリア「そうですね」
リリィ「猫も気づいた」
ガル「猫はアルトの後だろ」
リリィ「二番」
ミリ「猫、二番」
猫は膝の上で丸くなっている。
本人は順位に興味がなさそうだった。
夕飯後。
トトは新しい紙を一枚持ってきた。
レオン「何だ」
トト「七か条に追加したい」
セシリア「勝手に追加せず、相談する点は評価できます」
レオン「内容は?」
トトは紙を見せた。
そこには、こう書かれていた。
『八、地面がへんだったら大人に言う』
レオンはそれを見た。
セシリアも見る。
マーサも、フィリアも、リュシアも見る。
少しだけ沈黙があった。
そして、レオンがうなずいた。
「追加していい」
トト「ほんと?」
レオン「ああ。必要だ」
トトは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、ひだまり防護八か条!」
セシリア「更新します」
マーサ「手洗いの下に書いておきな」
ミリ「八か条」
リリィ「猫印は?」
マーサ「まだ駄目だよ」
猫「……」
こうして、食堂の札は少しだけ増えた。
八、地面がへんだったら大人に言う。
トトはその文字を見て、満足そうにうなずいた。
「俺、今日これ守った」
レオン「ああ」
トト「明日も守る」
レオン「頼む」
トトは胸を張った。
「任せて!」
アルトが庭から、また低く鳴いた。
まるで。
“見ているぞ”
と言っているようだった。
その夜。
ひだまり孤児院は静かだった。
防護結界の星が、庭の四隅で淡く光っている。
門の札が揺れる。
井戸の水面は、もう揺れていない。
子どもたちは眠っている。
アルトは庭で目を閉じている。
レオンは食堂の窓際に立ち、外を見ていた。
リュシアが隣へ来る。
リュシア「眠らないの?」
レオン「少ししたら寝る」
リュシア「あなたの少しは信用できないわ」
レオン「そうか」
リュシア「そうよ」
少しの沈黙。
リュシアは庭を見た。
「今日は、子どもたちに助けられたわね」
レオン「ああ」
リュシア「トトくん、触らなかった。走らなかった。呼んだ」
レオン「ああ。よくやった」
リュシア「あなた、嬉しそう」
レオン「そう見えるか」
リュシア「ええ」
レオンは答えなかった。
ただ、少しだけ口元がやわらかくなっていた。
リュシアはそれを見て、小さく笑った。
「やっぱり、ここはあなたの帰る場所ね」
レオン「夕飯を食べる場所だ」
リュシア「はいはい」
その頃。
遠く西の廃塔。
黒い結晶の前で、ラザルは静かに目を細めていた。
床を這う黒い根の一部が、途中で曲がっている。
本来向かうはずだった場所とは、違う方向へ。
古い水路跡へ。
ラザル「……誘導か」
黒い結晶が震えた。
赤黒い光が、わずかに乱れる。
ラザルは笑った。
「気づいたか。灰剣だけではないな。星詠みの魔女もいる」
背後の影が低く唸る。
細い手足。
低い姿勢。
額の小さな黒い角。
第二号の欠片。
ラザルはそれへ目を向けた。
「焦るな。まだ巣穴を暴く時ではない」
影は床を爪で掻いた。
ぎり、と石が削れる。
ラザル「だが、よい兆しだ。あの場所は、子どもが守りを覚え始めている」
彼は欠けた白い仮面の奥で、薄く笑った。
「ならば次は、その守りが本物か試してみよう」
黒い根が、闇の中でうねる。
空を閉じた。
地を探った。
次は、心を揺らす。
黒玻璃の影は、静かにひだまりへ向かっていた。




