診断
診察室は静かで、時計の秒針だけがやけに大きく響いていた、白い壁と整然と並んだ本棚、消毒液の匂いがわずかに漂っていて、現実が少し遠のくような場所だった、私は椅子に座り、ここに来るまでの経緯をぽつぽつと話し始める、電話のこと、手紙のこと、知美のこと、そして吉介のこと、言葉にするたびに出来事が現実として固まっていく気がして、どこかで後悔しながらも止められなかった、医師は一度も遮らずに聞いていた、相槌も最小限で、ただこちらを見ている、その視線は評価でも否定でもなく、ただ受け止めるためだけにあるようだった、話し終える頃には喉が乾いていて、自分でも何をどこまで話したのか曖昧になっていた、少しの沈黙が落ちる、医師は手元のメモに何かを書き、それからゆっくり顔を上げる。「……つらい体験でしたね」「……はい」「知美さんのことも、その後のやり取りも、かなり強いストレスになっていると思います」私は小さく頷く、当たり前のことを言われているのに、どこかで救われた気がした、医師は言葉を選ぶように少し間を置く。「確認させてください」「はい」「その吉介さんという方ですが、他に存在を確認できる人はいますか、例えば共通の知人や記録など」私は一瞬言葉に詰まる、あるはずだと思っていた、けれど具体的に思い浮かべようとすると、輪郭が曖昧になる、友人だったはずなのに、誰とどう繋がっていたのかがはっきりしない、沈黙が長引く、「……います、たぶん」と答える、自分でも頼りない声だと分かる、医師はそれ以上追及せず、静かに頷く、そして、ほんのわずかに視線を落としてから、もう一度こちらを見る。「もう一つだけ」「……はい」「これは可能性の話として聞いてください」その前置きが妙に重く感じられる、私は無意識に指先を握る。「その男の人って存在しないんじゃないですか」言葉は静かで、押しつけるような調子ではなかったのに、耳に入った瞬間、何かが歪む音がした気がした、私は反射的に顔を上げる、何を言われたのか理解が遅れて追いつく、そして眉がゆっくりと歪む、「……え?」声がうまく出ない、頭の中で今までの出来事が一気に逆流する、電話、声、間、手紙の紙の感触、インクの滲み、すべてが現実だったはずなのに、どこかで綻び始める、「そんなわけ……」と言いかけて、言葉が止まる、医師は変わらない調子で続ける。「もちろん断定はしません、ですが強いストレスや喪失の中で、記憶や認識が特定の形を取ることはあります」私は何も答えられない、胸の奥で何かが軋む、「手紙は……」と呟く、自分でもそれが反論になっていないのが分かる、「物として残っていますか」淡々とした問い、私は答えようとして、思い出そうとして、ふと違和感にぶつかる、あの封筒はどこに置いたのか、あの便箋は今どこにあるのか、思い出せない、「……ある、はずです」そう言いながら、確信が揺らいでいるのを感じる、医師はそれ以上は踏み込まず、ただ静かに言う。「焦らなくて大丈夫です、一つずつ整理していきましょう」その言葉は優しいはずなのに、どこか現実を崩していくようにも聞こえた、私は何も言えず、ただ頷くしかなかった、頭の中で一つの疑問だけが何度も繰り返される、もし本当に存在しないのだとしたら、あの声は、あの言葉は、いったい何だったのかと。




