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オヤジの回転 3


 ビルの三階に着くころには、胸の奥で何かがすでに回っていた。止まらない感じがある。ノックをすると、間を置かず扉が開いた。


「どうぞ」


 あの声だ。中は前と同じだった。机と椅子と水晶玉。余計なものは一切ない。水晶玉だけが、そこにあるという事実を強く押しつけてくる。


「早かったですね」


 占い師は静かに言った。俺は座る。


「偏ってる」


 言葉はすぐに出た。


「ええ」

「仕事も家庭もうまくいく。でも、そこだけ、まったく駄目だ」

「配分が寄っています」

「直せるのか」

「角度は固定されていますが、配分は振れます」

「どこに寄せるか、ってことか」


 占い師はうなずく。指先が水晶玉に触れる。その瞬間、空気がわずかに重くなる。


「どうしますか」


 迷いはなかった。


「精力に全振りしてくれ。あそこがビンビンになりたい」


 短く言った。占い師はほんの一瞬だけこちらを見た。


「……良いんですね?」


 確認の声は低い。


「いい」


 俺は即答した。ためらいはなかった。占い師は静かに息を吐いた。


「強く回りますよ」


 そう言って、水晶玉を回し始める。前よりも明らかに速い。しかも滑らかすぎる。摩擦がないような、不自然な回転だ。見ていると、視界の端がゆっくり傾く。椅子の感触が、ほんのわずかに遅れて体に伝わる。音も、触覚も、少し遅れる。胸の奥で、大きなものが一周する。


「これで、偏ります」


 回転が止まる。同時に、部屋の圧が抜ける。


「終わりです」


 それだけ言われた。外に出る。足取りが軽い。いや、軽すぎる。体の内側から何かに押されているような感覚がある。呼吸が速い。浅い。脈も速い。熱がこもる。その夜、すぐに異変は現れた。過剰だった。明らかにやりすぎだとわかる。反応が止まらない。落ち着かない。体が常に前へ出ようとする。意識が追いつかない。考えるより先に反応が起きる。仕事のことが頭に入らない。家庭のこともどうでもよくなる。ただ一点だけが異様に強くなる。


 数日後、俺は例のホテルにいた。同じ相手だ。流れでそうなったが、今回は確信があった。だが、始まってすぐに理解する。これはおかしい。止まらない。引けない。切り替えができない。


「ちょっと、待っ……」


 相手の声が途中で途切れる。俺も止めようとするが、止め方がわからない。体が勝手に続ける。力が抜けない。抜こうとしても抜けない。時間の感覚が壊れる。どれくらい続いているのか分からない。長いのか短いのか判断できない。やがて、限界が来る。呼吸が乱れる。相手が苦しそうにする。


「無理、これ……」


 その言葉で一瞬だけ現実に戻る。だが、それでも離れない。完全に、離れない。どうやっても離れない。フロントに連絡が入る。救急車が呼ばれる。運ばれる。繋がったまま。視線が集まる。担架が揺れる。天井のライトが流れていく。円を描くように視界を横切る。回っている。全部が回っている。止まらない。病院に着く。処置される。詳細は覚えていない。時間が飛ぶ。気づいたときには終わっていた。そして同時に、全部終わっていた。会社にも知られ、妻にも知られる。説明のしようがない。どう言っても理解されない。言葉が足りない。いや、言葉にすると余計に壊れる。スマホが震える。着信。妻の名前。画面を見つめるが、出られない。頭の中で、占い師の声が何度も回る。


「強く回りますよ」


 その通りだった。強すぎた。偏りすぎた。他の部分が全部削られている。帰り道、夜風が当たる。看板が揺れる。その影が地面で円を描く。ゆっくりと、しかし確実に回る。そのとき、気づく。まだ終わっていない。止まっていない。胸の奥で、何かが回り続けている。弱まらない。むしろ、少しずつ強くなっている気さえする。


「熱いっ!熱い!うおおおおお」


川縁まで走り、靴も脱がずに飛び込んだ。水が一気に体を包み、焼けつくような熱がじわりと剥がれていく。耳の奥でざわついていた音が遠のき、代わりに流れの低い響きだけが残る。胸の内側にこもっていた熱が、水に引きずられるように外へ逃げる。息を吐くたびに体が軽くなる。だが、完全には消えない。芯の奥で、まだかすかに回っている。そして、濁流が俺の生命を飲み込むのであった。

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