ネギの回転 3
家に帰ると、妙に静かだった。ドアを閉めた音がやけに乾いて響く。靴を脱ぎながら、さっきの店のことを思い出そうとするが、どこか輪郭が曖昧になっている。あの店主の顔も、声も、確かに見て、聞いたはずなのに、思い出そうとすると少しずつずれていく。
いや、それより――新聞だ。俺はテーブルの上に置いた朝刊を引き寄せ、勢いよく広げた。指先がわずかに震えている。あの記事。トラックが突っ込んで、店主が死んだという記事。社会面をめくる。隅から隅まで目を走らせる。
ない。もう一度、最初から見直す。見出しを追い、写真を確認し、細かい欄外まで読む。ない。
「……は?」
声が漏れた。そんなはずはない。確かに読んだ。見出しも、内容も、運転手の「視界が歪んだ」という証言まで、はっきり覚えている。ページをめくる手が速くなる。スポーツ、経済、地域欄――どこにもない。紙面は、何事もなかったかのように整然としている。
「え? 勘違い……?」
口に出した瞬間、その言葉の軽さにぞっとした。あれだけ鮮明に読んだものを、勘違いで片付けていいのか。リビングから物音がした。妻が帰ってきていたらしい。
「なあ」
俺は新聞を持ったまま声をかけた。
「この辺の路地にさ、焼き鳥屋あったよな。変な店で、ネギばっかり焼いてる」
妻は冷蔵庫を開けながら、振り返りもせずに答えた。
「なにそれ」
「いや、ほら、駅裏の……細い路地入ったとこ」
「知らないけど」
あまりにもあっさりした返事だった。
「トラックが突っ込んで、店主が死んだって記事も出てたんだけど」
今度は妻が振り返った。少し眉をひそめている。
「そんな事件あった?」
「いや、新聞に……」
「見てないなあ」
それだけ言って、また冷蔵庫の中に視線を戻した。会話はそれで終わった。俺はしばらく立ち尽くしていた。新聞を持つ手の感覚が、じわじわと薄れていく。夜、布団に入っても眠れなかった。目を閉じると、ネギが回る。ゆっくりと、しかし確実に。あの甘味が、舌の上で円を描く感覚が、まだ消えない。喉の奥で、何かが回っている。飲み込んだはずなのに。
数日後、俺はもう一度あの場所へ向かった。確かめるしかないと思った。昼間の光の中、あの路地に入る。空気は普通だった。あの重さも、妙な静けさもない。
そして――そこには、何もなかった。正確には、有料駐車場があった。白線が引かれ、料金表示の看板が立ち、数台の車が無機質に並んでいる。あの店があったはずの位置には、アスファルトが平らに広がっているだけだ。
「……は?」
三度目だった。同じ言葉が、同じように口から漏れる。近くにいた管理人らしき男に声をかけた。
「すみません、ここって前、焼き鳥屋ありましたよね」
男は怪訝そうな顔をした。
「焼き鳥屋?」
「ネギを焼いてる店で……」
「いやあ、ここはずっと駐車場だよ。少なくとも俺が来てからはな」
「いつからですか」
「十年は経つかな」
それだけ言って、男は肩をすくめた。十年。そんなはずはない。俺は、ついこの前――頭の中で何かがずれる音がした。そのとき、ふと気づいた。足元に、細い影が落ちている。視線を下げる。アスファルトの上、白線の端に、一本だけ、細長いものが転がっていた。
ネギだ。乾いているはずなのに、妙に艶がある。誰かが落としたにしては、不自然な位置にある。俺はしゃがみ込み、恐る恐るそれを拾い上げた。軽い。あのときと同じだ。
そして――指先に、かすかな振動が伝わった。見つめる。ネギが、回っている。ゆっくりと。俺の手の中で。音もなく、しかし確実に、同じ方向へ。喉の奥で、何かが応えた。ぐるるるるると。唸るように。




