村越
角を曲がった瞬間、世界の構造がわずかにずれたような感覚があった。
舗装されたはずのアスファルトは、まるで絵の具をぶちまけたみたいに紫へと変質し、その表面はぬらりと光っている。踏み出せば沈みそうで、しかし沈まない、妙に現実的な質感。
その中心に、村越栄一先生が立っていた。
「遅刻だぞ」
いつも通りの声だった。だが、その声はどこか遠く、まるで録音されたものを再生しているような、時間から切り離された響きを持っていた。
「……先生、その道……何ですか、それ」
あたしは思わず立ち止まる。トーストはもう口から落ちて、紫の地面にぺたりと張り付いていた。ピーナッツバターが、ゆっくりと沈み込んでいく。
先生は、答えない。
代わりに、ゆっくりとこちらへ一歩、踏み出した。
その瞬間、空気が「よおおお」と鳴った。
——母の声だ。
背筋が冷たくなる。朝の光景が、急に意味を持ち始める。能の節回し、あの異様な間延びした発声。それが、今ここで、現実に混入している。
「お前の家はな」
村越が口を開く。
「境目が薄いんだよ」
「……境目?」
「食卓と舞台。現実と演目。ニュースと神話」
先生の額のバーコードが、なぜか一本ずつずれて見えた。線ではなく、記号のように。
「今朝、お前の母親が言ったこと、あれはな」
——トランプ大統領の子供を産んで良い?
その言葉が、頭の中で反響する。
「“役”を受け入れる宣言だ」
「役……?」
「そうだ。誰かを演じること。あるいは、誰かに世界を明け渡すことだ」
紫の道が、脈打つ。
ドクン、ドクン、と。
まるで巨大な心臓の上に立っているみたいに。
「お前の父親は、あれを誤魔化した」
村越は淡々と続ける。
「だが誤魔化しは、境目をさらに曖昧にする。経済の話をしただろう?」
「……した」
「“ハッピーが必要だ”」
先生は、そこで初めて、笑った。
ぞっとするほど、乾いた笑いだった。
「つまりな。この世界はもう、合理性だけでは維持できないんだよ。不条理を、誰かが引き受けないといけない」
風が吹いた。
紫の表面が波打ち、その奥に、何かが見えた気がした。人の形をした“役者”たち。面をつけた何者かが、こちらをじっと見ている。
「お前、選べ」
村越が言う。
「このまま遅刻して、普通の教室に行くか」
一歩、また近づく。
「それとも、その家の続きをやるか」
あたしの足元で、トーストが完全に沈んだ。
もう戻れない、という直感だけがあった。
母の「よおおお」が、遠くから響く。
父の声も重なる。
「夢壊れるよね」
その言葉の意味が、今になって分かる。
夢は、壊れるものじゃない。
誰かが、演じ続けないといけないものだ。
あたしは、ゆっくりと顔を上げた。
「……先生」
喉が乾いている。
でも、言葉は出た。
「遅刻って、どっちですか」
村越は、ほんの一瞬だけ沈黙したあと、
満足そうに、頷いた。




