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遅刻


 そのとき、遠くでチャイムのような音が鳴った気がした。


 私は顔を上げる。夕方の窓に映っていたはずの自分の輪郭が、わずかに遅れて動いた。まるで、映像と音声の同期がずれているみたいに、現実がほんの少しだけ後ろに引きずられている。


 遅刻しているのだ、と不意に思った。


 何に対してかは分からない。ただ決定的な何かに、私は間に合っていない。その感覚だけが、理由もなく確信としてあった。


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。


 見覚えのない通知。差出人の名前は表示されていない。ただ一行、「まだ来ないの?」とだけ書かれている。


 私は立ち上がる。行かなければならない場所があるはずだった。だが、その場所が思い出せない。いや、最初から知らなかったのかもしれない。


 ふと、あの光のことを思い出す。


 ぶつかりかけた瞬間、世界が弾けたように開いた、あの一瞬。もしあれが始まりだったのだとしたら、私はまだその途中にいるのではないか。遅刻しているのは、学校でも、約束でもなく、「あのときの続き」に対してなのではないか。


 再び通知が来る。


「もうすぐ終わるよ」


 終わる、という言葉に、妙な焦燥が走る。終わってしまえば、もう二度と接続できない気がした。何に対してか分からないまま、私は走り出していた。


 見慣れたはずの街が、少しずつ形を変えていく。角を曲がるたびに、似ているが違う風景が現れる。電柱の位置、看板の色、通り過ぎる人の顔。すべてが微妙にずれている。


 それでも、私は確信していた。正しい方向に進んでいる、と。


 やがて、見覚えのある角に出る。


 あの日と同じ、少し曇った空。誰もいないはずの交差点に、一台の自転車が止まっている。


 その横に、誰かが立っていた。


 顔はよく見えない。ただ、こちらを待っていることだけが分かる。私は足を止めるべきか迷いながら、それでも一歩を踏み出す。


 遅刻しているのだ、ともう一度思う。


 だが次の瞬間、奇妙な感覚が胸をよぎった。


 もし、これに間に合ってしまったら——


 それこそが、本当の遅刻なのではないか。


 私は立ち止まる。


 自転車のベルが、小さく鳴った。


 光は、まだ来ない。

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