遅刻
「いやーん。遅刻しちゃう」
あたしは、少し曇り空の中、鞄を手にしてよろけながら走っていたら、角から、美少年の転校生が自転車に乗ってやってきて、ぶつかるかと思ったら、ピカんと光って異世界に行っちゃった。
「いやん、何これ?夢オチ?」
彼女は、ある種の残響として私の中に残っていた。声でもなく、姿でもなく、むしろそれらが剥ぎ取られた後に残る、輪郭だけの気配のようなものである。思い出そうとすればするほど曖昧になり、忘れようとすると逆に鮮明になる。そういう厄介な存在だった。
最初から何かがあったわけではない。むしろ何もなかった、という事実だけが妙に強く残っている。約束は曖昧に流れ、言葉は半分だけ交わされ、視線はいつもどこかで逸れていた。だが、その「欠け」が、私の内部で勝手に増幅されていったのだと思う。
あるとき、私はようやく一歩踏み出したつもりになった。短い文面を送り、返事を待った。画面の向こうで何が起きているのか想像しながら、時間の流れだけが異様に遅く感じられた。やがて届いた返答は簡潔で、丁寧で、そして決定的に遠かった。
それで終わりのはずだった。
だが終わらなかったのは、現実ではなく、私のほうだった。彼女が去ったあとも、内部の装置だけが作動し続け、あり得たかもしれない会話や、起こらなかった出来事を次々と生成していく。それはもはや記憶ではなく、ほとんど創作に近い。
私はある日、ふと気づいた。自分が彼女を求めているのではなく、彼女をめぐる運動そのものに執着しているのだと。待つこと、想像すること、届かない距離を測り続けること。それらが一つの閉じた回路を形成し、私を内部から消費していた。
そして奇妙なことに、その回路は代替可能だった。
別の誰かと交わした些細なやりとりが、同じ装置を再起動させる。似ても似つかぬ相手であっても構わない。条件はただ一つ、完全には手に入らないという予感だけで十分だった。
私はその仕組みを理解した瞬間、わずかな安堵と、同時にどうしようもない倦怠を覚えた。どれだけ対象が入れ替わっても、内部の動きは変わらない。燃え上がるように見える感情も、実のところは単調な反復にすぎないのかもしれない。
それでも、完全に手放すことはできなかった。
夕方、窓に映る自分の顔を見ながら、私はぼんやりと思う。もし次に誰かが現れたなら、また同じように始まってしまうのだろうか、と。答えはおそらく決まっている。だが、それを確かめること自体が、すでに次の回路の一部なのだった。




