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講義


 教師は、黒板に書かれた「違和感」の文字を、ゆっくりと消した。粉のようなチョークの残骸が、空気の中に舞い上がる。その白さが、妙に生々しく見えた。


 「では、第二回目の講義に移ろう」


 振り返った教師の顔は、先ほどよりもわずかに遠くにあるようで、しかし声だけはすぐ耳元で鳴っているようだった。


 黒板に、新たな言葉が書かれる。


 ——暗黒。


 その二文字は、なぜか光を吸い込んでいるように見えた。


 「諸君。違和感に気づいた者は、すでに入り口に立っている」


 教師はチョークを置かず、そのまま黒板に線を引き続ける。意味のない曲線が重なり、やがてそれは、見てはいけない図形のようなものに変わっていく。


 「暗黒の世界は、こちらに来いと手招いているのだよ。だが、それは決して大仰な形では現れない」


 教室の奥で、誰かが椅子を引いた音がした。だが振り向く者はいない。


 「混沌——そう、秩序の対義語としての混沌ではない。むしろ、秩序そのものが崩れきったあとの、形を持たない安定状態だ」


 教師の目が、またしても焦点を失ったまま動く。左右に離れたその視線は、教室全体を包み込むようだった。


 「ある作家は、それを“名状しがたいもの”と呼んだ。言葉にした瞬間に逃げてしまうもの。だが、だからこそ人は、その周縁をなぞろうとする」


 私は、大学ノートを開くべきかどうか迷っていた。中身を見てしまえば、何かが決定的に変わるような気がしていた。


 「クトゥルフ、という名前を聞いたことがあるだろう」


 教師は、黒板にその名を書いた。綴りはどこか歪んでいて、正しいはずなのに、正しくないように見える。


 「それは神ではない。悪魔でもない。理解の外にある“存在の様式”だ。人間の認識が前提としている枠組み、その外側にあるもの」


 黒板の図形が、いつの間にか微かに脈打っているように見えた。


 「暗黒の世界は、君たちを呼んでいる。だが、それは決して“こちらに来い”と明確に言うわけではない」


 教師は、ゆっくりと手を持ち上げた。


 その指先が、わずかにこちらへ向かって動く。


 ——手招き。


 「ほんの少しだけ、気になる。ほんの少しだけ、目が離せない。その程度の引力で十分なのだよ」


 教室の空気が、粘りつくように重くなる。


 「違和感に気づいた者は、それを無視できなくなる。そして、無視できなくなった瞬間、すでに片足は踏み込んでいる」


 私は、ノートを開いていた。


 いつの間にか、指が勝手にページをめくっていたのだ。


 そこに書かれている文字は、先ほど見たものと同じはずだった。だが、行間に、何か別のものが潜んでいる。読めるはずのない文字が、読めてしまいそうになる。


 「暗黒とはね、外にあるのではない」


 教師の声が、やけに静かになった。


 「それは常に、認識の裏側に貼りついている。君がそれを見たとき、それもまた、君を見ている」


 ページの隅に、小さな線があった。


 それは、ただのインクの滲みに見えたが——次の瞬間、確かに動いた。


 私は息を止めた。


 教師は満足げに頷いた。


 「いい兆候だ」


 黒板の「暗黒」という文字が、わずかに歪む。


 「君は、もう手招きを受け取っている」

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