講義
校門を離れたはずなのに、気がつくと私は校舎の中にいた。廃校になるという話は、あくまで予定にすぎなかったのか、それとも、ここだけが時間から取り残されているのか。廊下には人の気配がなく、蛍光灯だけが白く明滅している。
教室の扉は半開きで、中から声が聞こえた。
「——気持ち悪い、という感覚はだね、決して例外的なものではないんだよ」
私は引き寄せられるように中を覗いた。教壇に立っていたのは、見覚えのある教師だった。バーコードのように頭頂部の髪が並び、妙に目と目の間が離れている。そのせいで、どこを見ているのか分かりにくい顔つきをしていた。
教室には、生徒がまばらに座っている。だが、その誰もが、どこか輪郭が曖昧で、存在が薄い。
「第一回目の講義では、日常の違和感について話そう」
教師はチョークを手に取り、黒板に「違和感」と書いた。文字は妙に歪んでいて、最後の一画が少し長すぎた。
「たとえばだね、君たちは、自分の部屋に帰って、何かがおかしいと感じたことはないかね」
教師の目が、教室をゆっくりと横切る。誰とも視線が合っていないようでいて、全員を見ているようでもあった。
「机の位置が、ほんの少しだけ違う。昨日までなかったはずの傷がついている。あるいは、いつも置いてあるはずのものが、なぜか見当たらない」
黒板に、いくつかの例が書き加えられていく。
私は、道端で拾った大学ノートを思い出していた。あれは、落ちていたのか、それとも——置かれていたのか。
「重要なのは、その“少しだけ”だ」
教師は指先で黒板を軽く叩いた。
「完全に異常であれば、人はすぐにそれを拒絶する。しかし、日常とほとんど同じで、ほんのわずかにずれているものは、我々の認識に入り込んでくる」
教室の空気が、わずかに冷えたように感じた。
「たとえば、鏡に映る自分が、ほんの一瞬だけ遅れて動いたとする。あるいは、笑っているはずなのに、口元だけが動いていない」
誰かが小さく息を呑む音がした。
「そういうものを見たとき、人はそれを“気のせい”として処理しようとする。だが、その処理が追いつかないとき、はじめて“気持ち悪い”という感覚が立ち上がるのだ」
教師はそこで一度言葉を切り、ゆっくりとこちらを向いた。
——こちらを。
私は思わず身を引いたが、足が動かなかった。
「さて、ここで一つ、問いを出そう」
教師の声が、妙に近く聞こえる。
「君が今、手に持っているそのノートは、本当に“拾ったもの”なのかね?」
心臓が、ひどく大きな音を立てた。
教室の中の生徒たちが、一斉にこちらを見た気がした。いや、もともと見ていたのかもしれない。ただ、私がそれに気づかなかっただけで。
「日常の違和感というのはね、外側からやってくるとは限らない」
教師は、薄く笑った。
「むしろ、自分の記憶や認識の内側に、最初から仕込まれている場合のほうが多いのだよ」
黒板の「違和感」という文字が、じわりと滲んで見えた。
私は、ノートを強く握りしめた。その中に詰まっている文字が、ほんのわずかに——増えているような気がした。




